呪われ公爵の契約書
王城の応接室で、私は婚約破棄から一時間後に二度目の人生を勧められていた。
目の前のルシアン公爵は、噂通り整いすぎた顔で、とんでもない提案を口にした。
「一年だけ、私の妻になってほしい」
「……慰めのつもりなら結構です」
「慰めではない。打算だ」
即答だった。
彼は私の前に一枚の契約書を置く。王家承認済みの婚姻仮契約。期間は一年。夫婦として公の場に並ぶこと、互いの名誉を守ること、身体的な強制をしないこと、終了後は双方合意で離縁可能。
「王都は君を都合よく悪者にするつもりだ。私には会計に強く、口外せず、なおかつ王都が手を出しにくい妻が必要だ」
「公爵家の花嫁役、ということですか」
「それに加えて、私の領地の帳簿を見てほしい。君が指摘した未着金の件は本当だ」
低く抑えた声に嘘はなかった。
私は契約書へ目を落とした。字面は整っているのに、端の方が黒く滲んで見える。さっき帳簿に触れた時と同じ異常だ。
「黒い、ですね」
思わず呟くと、ルシアン公爵の視線がわずかに鋭くなった。
「君にも見えるのか」
「何がですか」
「契約に付着した呪いの残滓だ」
胸が強く鳴った。
次の瞬間、頭の奥で知らない記憶がはじけた。蛍光灯の白いオフィス。月末締め。三十一歳の私が、経費精算に埋もれながら缶コーヒーを飲んでいる。数字が合わないと眠れなかった、前世の記憶。
くらりとした私を、ルシアン公爵が素早く支えた。
「顔色が悪い」
「……少しだけ、昔を思い出しました」
うまく説明できない。でも、いま私の中には二人分の人生があった。伯爵令嬢エレノアと、経理OLの私。どちらも数字の嘘が嫌いだった。
「答えを急がせるつもりはない」
そう言いながらも、公爵は私に逃げ道を与えすぎない距離で立っていた。
私は深く息を吸う。
王都に残れば、セシルの嘘で静かに潰される。実家へ戻っても、伯爵家は王子に逆らえない。ならば、打算でも何でも、立てる場所を取り戻すしかない。
「確認します」
「何だ」
「契約妻でも、帳簿の不正は追います」
ルシアン公爵の口元がほんの少し緩んだ。
「望むところだ」
私は羽根ペンを取り、契約書へ署名した。
署名が終わった瞬間、黒い滲みが一度だけ青白く光る。公爵の右手首にちらりと見えた黒い紋様も、同じ色で脈打っていた。
どうやら私が嫁ぐ先は、赤字だけでは済まないらしい。




