婚約破棄は会計報告のあとで
決算報告の朝に婚約を破棄される令嬢など、王都広しといえど私くらいだろう。
王城の会計局で、私は最後の帳簿を閉じた。二十七歳。伯爵家の長女で、第二王子アルベルト殿下の婚約者。けれど今日の私は、婚約者ではなく会計補佐官としてこの部屋に立っていた。
「北方救済金の支出と到着量が一致しません」
私がそう告げると、会議卓にいた貴族たちの空気が変わった。救済金は黒霧に苦しむ辺境へ送られるはずの予算だ。帳簿上では十分な額が動いているのに、現地到着報告は半分以下。数字が合わない。
アルベルト殿下は、隣に座る聖女候補セシル・リュミエールの肩に手を置いたまま、面倒そうに笑った。
「一致しない原因なら簡単だろう。管理していた君が抜いたんだ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……私が、ですか」
「証人もいる。セシルは君が書庫で改ざんしていたと言っている」
ふわりと金髪を揺らして、セシルが悲しげな顔を作る。
「信じたくありませんでした。でも、聖力は嘘を嫌いますの」
王都で人気の聖女候補。二十六歳。慈愛の笑みで人を切るのがうまい女だ。彼女の前で私がどれだけ数字を並べても、見た目は悪役そのものになる。
「その帳簿、今朝まで私が保管していました。改ざんがあるなら、会計印の照合で分かります」
私はそう返したが、殿下はすでに聞く気がなかった。
「もういい。エレノア・レスター、君との婚約は破棄する」
大広間の空気が甘く沸く。噂好きの貴族たちには、待ちに待った見世物だったらしい。
「そして今後、私の隣に立つのはセシルだ」
拍手まで起きた。
腹が立つより先に、寒くなった。三年分の努力と信用と婚約が、たった数行の嘘で切り捨てられていく。
せめて最後に帳簿を取り返そうと手を伸ばした瞬間、指先にひやりとした感触が走った。革表紙の奥に、墨ではない黒い靄がこびりついて見えたのだ。
これは何だろうと思うより先に、私の背後で低い声がした。
「その帳簿、少し借りてもいいだろうか」
振り返ると、喪服のような黒をまとった男が立っていた。
ルシアン・グレイフォード公爵。三十二歳。黒霧の辺境を守る“呪われ公爵”。
王都では冷酷だの死神だのと噂される相手だ。だが彼は噂よりずっと静かな目で、破られた私の婚約よりも帳簿の方を見ていた。
「殿下。救済金の行き先について、私からも話があります」
会場が凍りつく。
アルベルト殿下は露骨に眉をひそめた。
「辺境の男に口を挟む権利があると?」
「あります。未着金の送り先が、私の領地だからです」
そう言ってルシアン公爵は私を見た。
「レスター令嬢。婚約を失ったなら、代わりの契約を結ばないか」
今日一日でいちばん非常識な言葉だった。




