契約妻は守られる
公爵邸へ戻ると、私は真っ先にルシアン公爵の治療室へ押しかけた。
傷は深くない。医師もそう言った。けれど黒霧に触れたせいか、彼の腕の紋様はまた濃くなっている。
「座ってください」
「命令か」
「経理担当の妻からの業務指示です」
私が睨むと、公爵は大人しく椅子に座った。こういう時だけ聞き分けがいいのは、たぶん少しずるい。
私は包帯を巻き直し、最後に右腕の紋様へそっと触れる。金色がにじみ、黒が少し薄れた。
「ありがとう」
低い声が落ちる。
「礼を言うのはこちらです」
「違う。君が怖がりながらも、逃げなかったことに礼を言っている」
私は手を止めた。
「怖いですよ。契約だから割り切れると思っていましたけど、もう無理です」
言ってから、しまったと思う。けれど取り消せなかった。
ルシアン公爵は目を細めたまま訊いた。
「無理とは」
「旦那様が傷つくのを、平気だと思えません」
沈黙が落ちた。
部屋の外では風が鳴っているのに、この空間だけ息を潜めたみたいだった。
やがて彼は、巻き終えた私の手首を軽く取る。
「それは困った」
「困るんですか」
「私も同じだからだ」
心臓が止まりかけた。
契約書には書かれていない感情が、確かにそこにある。
けれど次の瞬間、公爵は私の手をそっと離した。
「王都への再出頭命令が来る。創国祭で公開監査だ」
現実は甘くない。
「行きましょう」
私は息を整えて答えた。
「今度は逃げません。堂々と、公爵夫人として」
彼は静かにうなずいた。
「なら、私も夫として隣に立つ」
それで十分だと思った。少なくとも、この夜のあいだは。




