第三十話
王子と王女の結婚だ。
好きです、はい、ゴール・インというわけにはいかない。
色々と段取りが面倒なようだ。
婚姻までは一年以上かかるらしい。
婚姻の式までいてほしいと、タケルはアヴェリュスに頼まれた。
けれども明日のことすら分からないタケルは、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
結婚問題が片付いた今、自身の身の上が問題だ。
アヴェリュスとフレイアが無事に結婚出来た今、帰れる可能性大だ。
二度の経験から、どうやら洗面所で用を済ませた後、飛ばされる可能性が高い。
帰郷を願い、用もないのに洗面所を出入りした。
あまりに回数が多いせいで、具合が悪いのかと周りの者に心配されるほどだった。
だが何度開けても世界は変わることがなく、その度にタケルは深いため息を漏らした。
「自分の意志で帰るとかっていうのは、無理なのかな……」
この日、何度目か分からないため息と共に扉を開いたタケルは、突然背後から吹いた強い風に身体を押された。
「この感じは!」
間違いない。
過去二度、空間を越えた時に経験した風だ。
「これで帰れる!」
叫んだのと床に倒れこんだのは、ほぼ同時だった。
「いたたたたたた……」
突然だ。
本当に、突然だ。
前もって移動が分かっていれば、転ばないよう少しは対処出来るに違いない。
恨めしい思いでタケルは、前のめりに倒れた身体をゆっくりと起こした。
今度は、どこの世界に飛ばされたのだろうか。
未来か。
あるいは過去か。
知りたいような知りたくないような複雑な思いに、恐々と視線を上げる。
重厚な家具もなければ、高価なシャンデリアもない。
驚くほど広い部屋でもない。
目の前にあるのは、潔いほどの真っ白な風景。
消毒液の匂いが酷く懐かしい。
「元の世界に……戻った?」
窓の向こうには冴え渡る月が一つ、ドロップのようにぽっかりと浮かんでいた。
「やっ……やったーっ!」
大きな声で思わずバンザイした。
大嫌いなはずの病室が、たまらなく愛おしく思えた。
床や壁にキスしまくりたい心境だ。
「戻れるなんて、夢みたいだ」
歓喜のあまり涙が溢れそうになる。
そこではたと気付いた。
「……夢?」
もしかして自分は、夢を見ていたのではないだろうか。
王子様やお姫様、魔女のいる世界なんて、どう考えてもおかしい。
何より病弱な自分が発作に襲われることもなく駆け回り、大賢者と呼ばれるなんてありえない。
「夢……だよね」
消沈する思いと共に、突き上げるようにして伸ばした両腕をゆっくりと下ろした。
そうだ。
夢だったのだ。
手術は本当に怖い。
けれども、元気にはなりたい。
矛盾する思いが見せた、現実逃避の都合のよい夢。
悲しい気持ちに、深く長いため息が漏れた。
自然に頭が垂れる。
途端、視界一杯に薄紫の波が広がる。
入院が決まってパジャマに着替えた。
けれども、こんなに華やかなパジャマに着替えた覚えはない。
心臓が大きく拍動する。
慌てて胸元に視線を向けた。
見たこともない貴石を胸にあしらった双頭の鷲が、大きく両翼を広げていた。
呆然となりんがらも手に取る。
ひんやりとした白銀の重さが、夢見た世界が現実であることを物語っていた。
「夢じゃ……なかった?」
エヴァンスの、輝く太陽のような笑顔を思い出す。
ジュリアスの、聡明な眼差しが懐かしい。
アヴェリュスの優しさに、胸が締め付けられる。
フレイアの柔らかな声音が、耳に心地好く広がる。
何もかも、夢ではなかったのだ。
今、この瞬間、次元を越えた世界で彼等は生きているのだ。
悩み迷い苦しみながらも、明るい未来を夢見てただひたすらに。
懸命でまっすぐな彼等が生き生きと蘇り、愛おしさに胸の奥が熱くなる。
緩んだ涙腺から涙が溢れるのを、タケルは感じた。
「どうした! タケル!?」
病室のドアが開く音を、悲鳴に近い父親の声が掻き消した。
心配する心情が足取りに表れたかのように、大きな足音と共に父親が近づいてくる。
その後を、今にも倒れそうなほど真っ青な顔をした母親が続く。
「苦しいのか!?」
「大丈夫!? タケル!」
父親の声に母親の声が重なった。
瞬きを忘れた薄茶の瞳をゆっくりと動かす。
間近に心の底から心配した様子の、震える父親の眼差しがあった。
その傍らに今にも涙が零れ落ちそうな眼差しで、不安げに見つめる母親の姿があった。
愛されていることは知っていた。
二人が、自分の幸せを心から願っていることも。
だが、知っていることと理解することは違う。
夢の国でタケルは生まれて初めて、誰かの幸福を心から願う気持ちを知った。
誰かを幸せにすることは、自分が幸せになるよりも難しい。
思うようにならずに、もどかしく感じることもある。
両親もきっとそうだろう。
見つからない治療方法に苛立ち、絶望を感じたに違いない。
それでも、両親は諦めなかった。
タケルが太陽の下、元気一杯に駆け回る日がくることを心から願い信じていた。
その切望が、今なら痛いほど分かる。
「父さん」
エヴァンスとジュリアスが結ばれた時、泣きそうになるくらい嬉しかった。
アヴェリュスとフレイアの結婚が決まった時、二人に出会えて良かったと心から思った。
思う相手が幸福になった時、自分が幸せになる以上の喜びを感じるのだと皆から教えられた。
「なんだ?」
全ての災厄から守ってくれる力強い声が、タケルを包み込む。
「母さん」
「なあに?」
自分に良く似た薄茶の瞳が、柔らかく問いかける。
「俺、手術受ける」
夢の国で自分は幸せだった。
元気に駆け回れて。
何より、大好きな人達を幸せに出来て。
両親にも、自分と同じように幸せになってほしかった。
誰よりも大切で、誰よりも大好きな両親に。
両親の願いは、タケルが元気になること。
だから、決心した。
小さな驚きの声と共に父親も母親も大きく目を見開いたまま、接着剤で固定したように動かなくなってしまった。
絶句し瞠目する仕草から、驚きの深さが見て取れる。
無理もない。
あれほど嫌がっていた手術だ。
現にこちらの世界では、ほんの一時間程前まで幼子のように泣き喚いて嫌がっていたのだから。
言葉を忘れたように見つめる両親に、大きく微笑みかける。
「手術受けて、元気になる」
それが全力で愛してくれる両親に出来る、最大限の恩返しだと思った。
何より元気になって長く生きたいと思った。
以前は、二十歳まで生きられればいいと思っていた。
夢もなく、心から愛する人もいない。
だから、いつ死んでもいいと思っていた。
けれども、今は違う。
夢の国に、愛すべき人達がいる。
彼等と、もう一度会いたい。
そのためには、時を越えなければならない。
その偶然は、いつ起こるか分からない。
明日起こるか。
一年先か。
あるいは、十年先か。
彼等と再び出会う未来を紡ぐのに、いつ絶えるか分からない今の身体では無理がある。
だから、元気になりたいと思った。
元気になって長生きして、彼等に会えるチャンスを一つでも多くしたかった。
夢の国での出会いがタケルに手術を決意させ、夢の国への思いが臆する心を後押しする。
「必ず元気になる」
失敗の確率など吹き飛ばす、迷いのない笑みをタケルは浮かべた。
途端、父親に強く抱きしめられた。
「よく……決心したな」
いつも力強い父親の声が揺れていた。
「よく、決心した」
「うん」
傍らに座り込んだ母親が、優しくタケルの頭を撫でる。
その瞳からは、舞い落ちるように涙が溢れていた。
「必ず元気になるわ」
「うん」
包み込むような母親の声に、タケルは大きく返事をした。
抱きしめる父親の腕に力がこもる。
その腕の強さに、タケルは悟った。
父親もまた、成功の確率50%の手術に恐怖を抱いているのだということを。
「大丈夫だよ、父さん」
以前は、失敗する確立の方にばかり目が向いていた。
けれども今は、成功する確率しかタケルには見えていなかった。
「必ず元気になる」
タケルの言葉に、抱きしめる父親の腕に更に力がこもった。
震える父親の背に手を回す。
「元気になるからね」
約束の言葉と共に、父親の背中に回した腕に力をこめた。




