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猫係令嬢は宰相閣下にも懐かれる  作者: 九葉(くずは)


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8/8

番外編・後編 二十九枚には座っておいた

 散歩というものを、わしは好かない。


 だが、胴輪をつけられて中庭に出るのは、嫌いではなくなった。


 娘が来るからだ。


 火曜と木曜と土曜の、午後三時。


 娘が門をくぐる頃になると、あの男は判で押したように中庭へ出てくる。脱走経路の確認、だそうだ。


 わしはこの十年、あの男が中庭で日に当たっているところを見たことがない。


 わしが脱走しなくても、あの男が外に出る。


 これは、なかなかの発見だった。


 歩数は、わしが決めている。


 最初の日は、一歩も歩かなかった。横倒しになれば、娘がわしを抱き上げる。抱き上げられれば、散歩は城下まで延びる。あの男も付いてくる。


 寝転がっているだけで、二人が長く一緒にいる。わしの仕事は、それで足りる。


 二週目からは、少しずつ歩くことにした。


 十二歩歩いた日、あの男は「前回より三歩多い」と言った。


 数えていたのだ。


 あの男の楽しみを奪わないよう、歩数は一度に三歩までしか増やさないことにしている。


 劇場通りで、娘は紙の猫を見つけた。


 あの十六匹だ。


 あの男が、娘の描いたわしの絵を見た日から、線の主に目星をつけていたことも、わしは知っている。その夜、書庫で張り紙をめくりながら、やはりこの線だ、と独り言を言っていたからだ。


 娘は五年分の話をし、あの男は黙って聞いていた。


 それから、娘が声を上げて笑った。


 腕の中から見上げると、あの男は、笑う娘の顔から目を離さなかった。


 あんな顔は、十年一緒にいて初めてだ。


 帰り道、掲示板に紙の猫が一匹増えていた。


 耳の位置が、左右でずれている。


 鼻を近づけると、安い糊と、劇場の白粉のにおいがした。


 あの十六匹とは違う。鉛筆のにおいがしない。


 描いた者は、猫をよく見ていない。


 木曜は雨だった。


 雨の日のわしは、少し平たくなる。重さが下に溜まるのだ。


 娘の膝の上で平たくなっていると、娘はわしを描き始めた。


 あの男は机で書類を読むふりをしていた。頁が、一枚もめくられていない。


 やがて、あの男は報告を始めた。


 劇場のことを話し、それから、執務の効率がどうのと言い出した。


 原因は、おおむね特定できている。


 そこまで言って、あの男は黙った。


 わしは片耳を向けてやった。言え、という意味だ。


 あの男は口を開き、閉じた。


「報告は、以上だ」


 以上ではない。


 わしは呆れて、娘の膝の上でさらに平たくなった。


 ところが、娘の手元を見ると、わしの絵の隣に、机に向かう男の横顔が描き足されていた。


 眉間に皺が一本。


 娘の膝が、少しだけ熱くなった。


 なるほど、と思った。


 報告は、以上でも足りていたらしい。


 土曜、娘の屋敷の門の前で、あの男は馬車の中から出なかった。


「私が入れば、彼女の話ではなくなる」


 わしに向かってそう言い、それきり膝を指で叩き続けた。


 とん、とん、とん。


 予算の会議でも、閣議の最中でも、この男の指はこんなふうに動かなかった。


 わしは、あの男の膝に乗ってやった。


 指が止まる。


 代わりに、わしの背を撫で始めた。十年前の雨の夜と、同じ撫で方だった。


 門が開いて、娘が出てきた。


 終わったか。終わりました。そうか。


 あの男はそれ以上何も聞かず、わしを両手で持ち上げて、娘の膝へ移した。


 普段なら文句の一つも言うところだが、今日は黙って丸くなってやった。


 娘の膝は、少し震えていた。


 今日のわしは、湯たんぽの役だ。


 それから十日ほど、あの男は夜更けまで執務室に残った。


 書類ではない。


 机の上に白い紙を広げ、鉛筆を握って、何かを描いている。


 丸いもの。それを抱えた人。


 丸いものは、たぶんわしなのだろう。耳の位置が左右でずれていた。


「書記官殿。どれがいいと思う」


 あの男は、描き上がった紙を床に並べた。


 一枚、また一枚。夜が更けるにつれて、床は紙で埋まっていった。


 全部で三十枚。


 わしは、端から順に座っていった。


 二十九枚には、座っておいた。


 座らなかった一枚を、あの男はじっと見下ろした。


「……これか」


 そうだ。


 ほかのより上手いわけではない。耳は相変わらずずれている。


 ただ、抱えている人の手に、鉛筆が握らせてあった。


 あの男は翌朝、それを自分の手で掲示板に貼った。


 本人は、自分で一番ましなのを選んだと思っているらしい。


 まあいい。そういうことにしておいてやる。


 娘が執務室に来た時、わしは机の端で丸くなっていた。


 あの男は立っていた。座らず、書類も持たずに。


 娘が、見つかりましたわ、と言った。


 届け先は、こちらで合っておりますかしら。


 あの男の眉間の皺が、ほどけた。


 わしは片目を開けて、それを見た。


 十年一緒にいて、一度も見たことのない顔だった。


 下手な笑い方だった。口の端が、左右でわずかにずれている。あの男の描く猫の耳のように。


 両手が、また中途半端な高さで止まっている。


 今度は、わしが蹴ってやるまでもなかった。娘の方から、片方の手を取った。


 扉の外で、文官どもが雪崩れる音がする。


 わしは、大きなあくびをしてやった。


 その日の散歩で、わしは二十一歩歩いた。


 三歩ずつという決まりは、この日だけ破った。祝いの分だ。数えるのは、あの男に任せる。


 あれから、わしは一度も脱走していない。


 する理由がない。


 火曜と木曜と土曜の午後三時になれば、あの男は黙っていても中庭へ出てくる。隣には娘がいて、鉛筆のにおいがする。


 宰相府の掲示板には、今も張り紙が二枚、重ねて留められている。


 下手な猫と人の絵。


 その隅に、笑う男の絵と、見つかりました、の一行。


 掲示板の下の棚が、近ごろのわしの昼寝場所だ。


 紙の上ではないが、悪くない。


 上を見れば、もう逃げなくていい猫と、もう探さなくていい人が、並んで貼られているので。

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