番外編・後編 二十九枚には座っておいた
散歩というものを、わしは好かない。
だが、胴輪をつけられて中庭に出るのは、嫌いではなくなった。
娘が来るからだ。
火曜と木曜と土曜の、午後三時。
娘が門をくぐる頃になると、あの男は判で押したように中庭へ出てくる。脱走経路の確認、だそうだ。
わしはこの十年、あの男が中庭で日に当たっているところを見たことがない。
わしが脱走しなくても、あの男が外に出る。
これは、なかなかの発見だった。
歩数は、わしが決めている。
最初の日は、一歩も歩かなかった。横倒しになれば、娘がわしを抱き上げる。抱き上げられれば、散歩は城下まで延びる。あの男も付いてくる。
寝転がっているだけで、二人が長く一緒にいる。わしの仕事は、それで足りる。
二週目からは、少しずつ歩くことにした。
十二歩歩いた日、あの男は「前回より三歩多い」と言った。
数えていたのだ。
あの男の楽しみを奪わないよう、歩数は一度に三歩までしか増やさないことにしている。
劇場通りで、娘は紙の猫を見つけた。
あの十六匹だ。
あの男が、娘の描いたわしの絵を見た日から、線の主に目星をつけていたことも、わしは知っている。その夜、書庫で張り紙をめくりながら、やはりこの線だ、と独り言を言っていたからだ。
娘は五年分の話をし、あの男は黙って聞いていた。
それから、娘が声を上げて笑った。
腕の中から見上げると、あの男は、笑う娘の顔から目を離さなかった。
あんな顔は、十年一緒にいて初めてだ。
帰り道、掲示板に紙の猫が一匹増えていた。
耳の位置が、左右でずれている。
鼻を近づけると、安い糊と、劇場の白粉のにおいがした。
あの十六匹とは違う。鉛筆のにおいがしない。
描いた者は、猫をよく見ていない。
木曜は雨だった。
雨の日のわしは、少し平たくなる。重さが下に溜まるのだ。
娘の膝の上で平たくなっていると、娘はわしを描き始めた。
あの男は机で書類を読むふりをしていた。頁が、一枚もめくられていない。
やがて、あの男は報告を始めた。
劇場のことを話し、それから、執務の効率がどうのと言い出した。
原因は、おおむね特定できている。
そこまで言って、あの男は黙った。
わしは片耳を向けてやった。言え、という意味だ。
あの男は口を開き、閉じた。
「報告は、以上だ」
以上ではない。
わしは呆れて、娘の膝の上でさらに平たくなった。
ところが、娘の手元を見ると、わしの絵の隣に、机に向かう男の横顔が描き足されていた。
眉間に皺が一本。
娘の膝が、少しだけ熱くなった。
なるほど、と思った。
報告は、以上でも足りていたらしい。
土曜、娘の屋敷の門の前で、あの男は馬車の中から出なかった。
「私が入れば、彼女の話ではなくなる」
わしに向かってそう言い、それきり膝を指で叩き続けた。
とん、とん、とん。
予算の会議でも、閣議の最中でも、この男の指はこんなふうに動かなかった。
わしは、あの男の膝に乗ってやった。
指が止まる。
代わりに、わしの背を撫で始めた。十年前の雨の夜と、同じ撫で方だった。
門が開いて、娘が出てきた。
終わったか。終わりました。そうか。
あの男はそれ以上何も聞かず、わしを両手で持ち上げて、娘の膝へ移した。
普段なら文句の一つも言うところだが、今日は黙って丸くなってやった。
娘の膝は、少し震えていた。
今日のわしは、湯たんぽの役だ。
それから十日ほど、あの男は夜更けまで執務室に残った。
書類ではない。
机の上に白い紙を広げ、鉛筆を握って、何かを描いている。
丸いもの。それを抱えた人。
丸いものは、たぶんわしなのだろう。耳の位置が左右でずれていた。
「書記官殿。どれがいいと思う」
あの男は、描き上がった紙を床に並べた。
一枚、また一枚。夜が更けるにつれて、床は紙で埋まっていった。
全部で三十枚。
わしは、端から順に座っていった。
二十九枚には、座っておいた。
座らなかった一枚を、あの男はじっと見下ろした。
「……これか」
そうだ。
ほかのより上手いわけではない。耳は相変わらずずれている。
ただ、抱えている人の手に、鉛筆が握らせてあった。
あの男は翌朝、それを自分の手で掲示板に貼った。
本人は、自分で一番ましなのを選んだと思っているらしい。
まあいい。そういうことにしておいてやる。
娘が執務室に来た時、わしは机の端で丸くなっていた。
あの男は立っていた。座らず、書類も持たずに。
娘が、見つかりましたわ、と言った。
届け先は、こちらで合っておりますかしら。
あの男の眉間の皺が、ほどけた。
わしは片目を開けて、それを見た。
十年一緒にいて、一度も見たことのない顔だった。
下手な笑い方だった。口の端が、左右でわずかにずれている。あの男の描く猫の耳のように。
両手が、また中途半端な高さで止まっている。
今度は、わしが蹴ってやるまでもなかった。娘の方から、片方の手を取った。
扉の外で、文官どもが雪崩れる音がする。
わしは、大きなあくびをしてやった。
その日の散歩で、わしは二十一歩歩いた。
三歩ずつという決まりは、この日だけ破った。祝いの分だ。数えるのは、あの男に任せる。
あれから、わしは一度も脱走していない。
する理由がない。
火曜と木曜と土曜の午後三時になれば、あの男は黙っていても中庭へ出てくる。隣には娘がいて、鉛筆のにおいがする。
宰相府の掲示板には、今も張り紙が二枚、重ねて留められている。
下手な猫と人の絵。
その隅に、笑う男の絵と、見つかりました、の一行。
掲示板の下の棚が、近ごろのわしの昼寝場所だ。
紙の上ではないが、悪くない。
上を見れば、もう逃げなくていい猫と、もう探さなくていい人が、並んで貼られているので。




