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猫係令嬢は宰相閣下にも懐かれる  作者: 九葉(くずは)


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番外編・前編 においのしない十六匹

 わしは、書記官殿と呼ばれている。


 宰相府の書類の上でしか眠らないから、というのが文官どもの言い分だ。


 間違ってはいない。紙の上は温かい。インクのにおいも悪くない。何より、わしが乗っている間は、あの男が仕事をやめる。


 あの男というのは、ヴィンフリートのことだ。


 今でこそ宰相などと呼ばれて偉そうにしているが、十年前は、袖の擦り切れた下っ端の書記官だった。


 雨の夜のことだ。王城の雨樋の下で震えていたわしを、あの男は拾った。


 上着の内側に押し込んで、書類と一緒に抱えて帰った。


 書類は濡れて駄目になり、あの男は翌朝、上役にこっぴどく叱られたらしい。


 それでも、わしを放り出しはしなかったのだ。


 だからわしは、あの男の書類の上で眠ることにしている。恩返しのようなものだ。本人は迷惑がっているが。


 あの男は、笑わない。


 社交界でそう噂されているのは知っている。文官どもが廊下で話しているからだ。


 実際、笑わない。机に向かうと、眉間に皺を一本刻んで、夜が明けるまで動かない。


 ただ、夜中にわしの背を撫でながら、ぼそぼそと喋ることはある。


「今日は、侯爵を三人黙らせた」


「北の橋の予算が、また削られた」


「書記官殿。お前はいいな。紙の上で寝ていればいい」


 よくはない。紙の上は、わしの仕事場だ。


 それに、わしが寝ていなければ、この男は朝まで紙から顔を上げない。


 ひと月に一度、わしは脱走する。


 獣医は運動不足だの退屈だのと言っているが、違う。


 わしがいなくなると、あの男は机を離れて外を探し回る。三日も机を空ければ、少しは日に当たる。


 ただ、近ごろは文官どもを四十人も使うようになった。本人はあまり出てこない。出世とは、つまらないものだ。


 今回の脱走も、三日目に入っていた。


 わしは劇場通りの掲示板の前で、日向ぼっこをしていた。


 この通りには、昔から妙な猫が住んでいる。


 掲示板に貼られた、紙の猫だ。


 白いのが二匹、茶色の縞が一匹、黒が一匹、三毛が一匹。錆柄もいる。数えれば、全部で十六匹。


 どれも、においがしない。


 当たり前だ。紙だから。


 けれど、描かれた耳の欠けや、尻尾の曲がり具合は、本物の猫よりよほど本物らしかった。


 この五年、脱走するたびに、わしはこの十六匹の前を通ってきた。


 貼られるのは、決まって、劇場の前に馬車がずらりと並ぶ夜だった。


 貼りに来るのは、若い男だ。貼り終えると、猫を探しもせずに劇場へ入っていく。女と一緒に。


 人間というのは、よくわからない。


 探しもしない猫の絵を、なぜあんなに丁寧に貼るのか。


 それに、描いた者は誰なのか。


 この線を描く人間は、猫をよく見ている。わしにはそれがわかった。


 一度会ってみたいものだと、ずっと思っていた。


 その日の午後、一台の馬車が劇場通りをゆっくり進んできた。


 小窓が開いている。


 中から、においがした。


 鉛筆の芯のにおい。紙のにおい。それから、ほんの少しの紅茶と、薔薇。


 わしは起き上がった。


 あの十六匹の紙の猫と、同じ鉛筆のにおいだった。


 馬車の屋根に飛び乗るのは、造作もない。


 着地の音が少し大きかったのは、わしが太っているからではない。屋根が薄いのだ。


 小窓から滑り込むと、柔らかい膝があった。


 膝の上には、紙の束。


 紙の束からは、あの十六匹と、もう一匹。できたての灰色の猫のにおいがする。


 なるほど、と思った。


 この娘だ。


 膝は、上等だった。


 宰相府のどの書類よりも温かく、どの長椅子よりも具合がいい。


 娘は、わしを抱き上げようとした。わしは全身の力を抜いて、下へ流れた。


 抱き上げられてたまるか。わしはここが気に入ったのだ。


 娘の侍女が、行き先を王城に変えさせた。


 首輪の紋章を見られたらしい。仕方がない。


 宰相府の門では、門番が騒ぎ、文官どもが駆け出してきた。


 寝不足の顔が、揃いも揃ってわしに手を伸ばす。


 唸ってやった。


 三人目は、手を出す前に諦めた。賢明だ。


 執務室の扉が開いた時、あの男は、いつものように眉間に皺を刻んで座っていた。


 わしを見るなり、椅子を倒した。


 書類の山が崩れた。


 それでも顔だけは平らなまま、ご苦労、などと言う。


 そのくせ、両手は宙に浮いたままだ。


 受け取ればいいものを、受け取る姿勢を見せるのは格好が悪いとでも思ったのだろう。十年経っても、そういうところは変わらない。


 わしは、娘の袖に顔を埋めた。


 あの男の両手が、しょんぼりと下りた。


 悪いとは思わない。


 この男は、三日わしを探しただけだ。この娘は、五年も紙の猫を描き続けていた。


 どちらの膝に座るべきかは、考えるまでもない。


 娘は長椅子に座らされ、わしはその膝で昼寝をした。


 あの男は、机で書類に署名をしている。


 しているが、十枚に一度はこちらを見る。


 わしを見ているつもりなのだろう。


 だが、わしの位置から見上げれば、あの男の視線がどこで止まっているかは、よくわかった。


 わしの背中を通り越して、鉛筆を動かす娘の手元。


 それから、娘の横顔。


 同じ頁に、二度署名していた。文官に言われるまで気づいていなかった。


 夕方、寝返りを打った拍子に、わしは膝から転がり落ちた。


 不覚。


 すかさず、あの男に抱き上げられる。まあいい。十年分の義理がある。今日のところは、腕の中に収まってやった。


 ところが、娘が礼をして、扉の方へ歩いていく。


 あの男は何も言わない。


 言わないまま、娘の背中を見ている。


 このまま娘が帰れば、あの男は明日からまた、夜明けまで紙から顔を上げないのだろう。


 眉間の皺を一本刻んで、誰にも笑わずに。


 それは、わしがつまらない。


 わしは、あの男の腕を思い切り蹴った。


 床に降りる。走る。


 太っていても、走れば速い。わしは本気を出していないだけだ。


 娘の裾に飛び乗って、座り込んだ。


 ここからは動かない。


 背後で、文官どもが天井を仰いだのがわかった。


 あの男は、空っぽの腕を下ろして、長いこと黙っていた。


 やがて、眉間の皺を一本も緩めないまま、娘に向き直る。


「一つ、仕事の話をしてもいいだろうか」


 わしは娘の裾の上で、目を閉じた。


 よし。


 ここから先は、あの男の仕事だ。

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