第六話 探しています
話し合いから十日が経った。
ホーエンエック家の噂は、相変わらずハンネが運んでくる。
「若様は、家督を弟君にお譲りになるそうです。ご自身は領地の館で、新しい使用人頭の下について、奥向きの仕事を一から覚え直されるとか」
「そう」
「招待状の書き方からだそうですよ」
オティーリエは、スケッチ帳から顔を上げなかった。
招待状の文面なら、五年分の控えが侯爵家の書き物机に残っているはずだ。役に立てばいい、と思う。それ以上のことは、もう思わなかった。
「ミンナ様の方は、子爵様のお言いつけで、劇場通りに残った張り紙をご自分で剥がして回っておられるそうです。それが済んだら、東区の猫の保護院でしばらくご奉仕を」
「本物の猫のお世話を?」
「本物の猫のお世話を」
ハンネは、少しだけ意地の悪い顔をした。
オティーリエは、鉛筆を置いた。
剥がされていく自分の絵を思う。惜しくはなかった。あの絵はどれも、帰る場所のない猫だった。
「ハンネ、そろそろ出るわ。今日は火曜日だもの」
宰相府の門をくぐると、様子がおかしかった。
玄関の広間に、文官たちが人垣を作っている。
皆、壁の掲示板を見上げていた。
オティーリエに気づいた一人が、慌てて隣の袖を引く。人垣が、潮が引くように左右へ割れた。
掲示板の真ん中に、張り紙が一枚。
大きく、角張った、几帳面すぎる字だった。
『探しています
特徴 鉛筆を一日に一本使い切る
猫の耳の欠けを、聞いただけで描ける
腹を立てる前に、自分に呆れる
書記官殿が、膝を選んだ人
見つけた場合は、宰相執務室まで
生涯の伴侶として、お迎えしたい
ヴィンフリート・シュテルク』
字の下に、絵が添えてあった。
丸いものを抱えた人の絵だ。
丸いものは、たぶん書記官殿だろう。耳の位置が左右でずれている。抱えている人の方は、目が顔の外にはみ出しかけていた。
お世辞にも、上手いとは言えない。
それでも、耳は二つ。尻尾は一本。抱えている人の手には、ちゃんと鉛筆が握らせてある。
オティーリエは、張り紙の前で長いこと立っていた。
後ろで文官の誰かが、洟をすする音がした。
執務室の扉を叩くと、中から「入れ」と声が返る。
宰相は、執務机の前に立っていた。
座っていない。書類も手にしていない。机の上はいつになく片付いていて、端に書記官殿が一匹、文鎮のように丸まっているだけだった。
「……見つけたか」
「はい。宰相府の掲示板に、ずいぶん特徴の正確な張り紙が」
「そうか」
宰相は眉間に指を当てかけて、途中で下ろした。
「張り紙は、君の絵を嘘に使った道具だ」
「ええ」
「君が五年で描いた十六枚は、一匹の猫も連れて帰らなかった。劇場の前で雨に打たれて、剥がれていっただけだ」
宰相の声は、いつも通り平坦だった。
けれど、その手は机の縁を掴んでいる。
「だから、一枚くらいは、ちゃんと届く張り紙があってもいいと思った。嘘のない特徴を書いて、本当に探しているものを探す張り紙が」
「それで、ご自分で絵まで」
「文官に頼むのは筋が違う」
「耳の位置が、ずれておりましたわ」
「知っている。三十枚描いて、あれが一番ましだった」
机の端で、書記官殿が片目を開けた。
宰相は机の縁から手を離し、オティーリエの前まで歩いてきた。
二歩手前で、止まる。
「こういう報告は、苦手だ」
「存じております」
「だから、張り紙にした。返事は、急がない」
オティーリエは、鞄からスケッチ帳を取り出した。
ブランシュ、マロン、ゲオルク卿。帰ってこなかった猫たちの頁を、今日は一枚ずつめくらなかった。まとめて通り過ぎて、白紙の頁を開く。
十八枚目。
「閣下。迷い猫の張り紙には、決まりがございますでしょう」
「決まり」
「見つけた人が、届けに行くのです」
宰相が、一度だけ瞬きをした。
「見つかりましたわ。届け先は、こちらで合っておりますかしら」
宰相は、すぐには答えなかった。
眉間の皺が、ゆっくりとほどけていく。
ほどけたところから、口元へ、何かが静かに広がっていった。
「合っている」
笑った。
二十七で宰相になり、三人の侯爵を黙らせ、社交界で一度も笑った顔を見せなかった人が、ひどく不器用に、けれど確かに笑っていた。
その両手が、いつかと同じ中途半端な高さで止まっている。受け取りたいのに、受け取る姿勢を見せられない高さ。
オティーリエは、その片方を自分から取った。
鉛筆だこのある指と、ペンだこのある指が、ぎこちなく重なる。
扉の隙間から、どさどさと何かが崩れる音がした。
覗いていた文官たちが、押し合って倒れたらしい。
机の上の書記官殿が、呆れたように大きなあくびをした。
その日の散歩で、書記官殿は二十一歩歩いた。
横倒しになったのは中庭の真ん中で、オティーリエが抱き上げようとすると、宰相が先に屈んだ。
書記官殿は、今度は尻尾で払わなかった。
宰相の腕に収まり、どこか仕方なさそうな顔で喉を鳴らしている。
「報告がある」
「はい」
「君が来るようになってから、書記官殿の脱走は一度もない」
「まあ」
「逃げる理由が、なくなったのだと思う」
宰相はそう言って、抱えた書記官殿ごと、オティーリエの隣に腰を下ろした。
夕方の中庭で、オティーリエは十八枚目を描いた。
石のベンチ。丸い灰色の猫。猫を抱えて、少しだけ笑っている人。
描き上がった頁を見下ろして、オティーリエは鉛筆を置いた。
スケッチ帳には、帰ってこなかった猫が十七匹いる。
十八匹目は、逃げない猫だった。
帰る場所を、自分で選んだ猫。
隣で少しだけ笑っている人も、たぶん同じだ。描いている自分も。
翌朝、宰相府の掲示板の前に、また人垣ができた。
宰相の張り紙の隅に、小さな紙が一枚、重ねて留められている。
描かれているのは、丸い灰色の猫と、その猫を抱えて笑う男の人。
宰相府の誰も、見たことのない顔だった。
絵の下には、丁寧な字で一行だけ。
『見つかりました』
その張り紙は、宰相府の掲示板で、いちばん長く剥がされずに残ったという。




