第五話 十七匹とも、わたくしが描きましたの
話し合いの前日、ブラント伯爵家に小さな包みが届いた。
差出人は、ミンナ・ザイラー。
中には、劇場の半券が十七枚と、便箋が一枚入っていた。
『ベルトルトは、全部わたくしのせいにしているそうですね。けれど、あの人もわたくしと一緒に芝居を観ていました。猫は、最初の一匹のほかはおりません。わたくしだけが悪者になるのは嫌です』
筆跡は乱れていて、ところどころインクが滲んでいる。
オティーリエは便箋を畳み、半券を包みに戻した。
同情はしなかった。ただ、ベルトルトがあの庭のお茶会に、もう呼ばれていないことだけはわかった。
当日の午後一時。
ブラント家の応接間に、ホーエンエック侯爵夫人とベルトルトが並んで座っていた。
夫人は記憶より痩せていた。ベルトルトは記憶より、髪が乱れている。
屋敷の門の外には、宰相府の紋章の入った馬車が一台停まっていた。
今日は土曜で、散歩の日だった。
「終わったら、散歩だ」
朝、そう言って馬車を寄越したのは宰相で、中で書記官殿と待っているらしい。
話し合いの席には入らない、と本人から言われていた。君の話だから、と。
「オティーリエさん」
侯爵夫人が、膝の上で手を重ねた。
「このたびのことは、息子の不始末です。けれど、行き違いもあったと思うの。どうか、もう一度だけ」
「母上、僕から話します」
ベルトルトが身を乗り出した。
「ティリー。ミンナとは、もう会っていない。猫のことも、全部終わった。これからは君だけを見る。だから」
「ベルトルト様」
オティーリエは、テーブルの上にスケッチ帳を置いた。
隣に、宰相府の書庫から借りてきた十六枚の張り紙。
最後に、劇場通りの街灯から剥がしてきた一枚を並べる。
耳の位置が左右でずれた、不格好な灰色の猫。
「フリーダちゃんの張り紙です。この絵は、どなたが?」
ベルトルトの視線が、張り紙の上で止まった。
「……僕が描いた。君がいなかったから」
「フリーダちゃんは、あの日のうちに戻ってきたと伺いましたけれど」
「……出かける理由が、要ったんだ」
「それで、ご自分で描いて、劇場通りに貼られたのですね。初日の夜に」
「それは」
「その夜は、どちらに」
「フリーダを、探して」
オティーリエは、包みから半券を一組取り出し、張り紙の隣に置いた。
日付は、フリーダの張り紙と同じ日。
席は、ホーエンエック家の桟敷。
侯爵夫人が、小さく声を漏らした。
ベルトルトは半券を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、両手で顔を覆う。
「……最初の一匹は、本当にいたんだ」
くぐもった声だった。
「ブランシュは本当に逃げた。僕は本当に探した。探し回っているうちに夜になって、西の劇場通りまで出ていた。そこでミンナが、気晴らしに少しだけ観ていこうと言って」
「それが、五年」
「二匹目からは、わかっていた。猫なんていないって」
ベルトルトは顔を上げた。目の縁が赤い。
「でも、君といると息が詰まったんだ。君は何でもできる。母上の相談にも乗れるし、招待状の文面も考えられるし、絵まで上手い。僕が何をしても、君の方が先に終わらせている」
「それで、猫を」
「猫を探している間だけは、僕が必要とされていた」
応接間が、静まり返った。
侯爵夫人は俯いて、膝の上の手を強く握り合わせている。
オティーリエは、ベルトルトの顔を見ていた。
腹は立っている。けれどそれ以上に、知らない人を見ているような気がした。
五年間、この人の隣にいたはずなのに。
「それなら、なぜ今になって戻れとおっしゃるの」
「……家が、回らないんだ」
ベルトルトは、絞り出すように言った。
「招待状も、冬支度も、使用人の采配も。君がいなくなってから、何一つ片づかない。母上も倒れかけた。ティリー、家には君が要るんだ」
オティーリエは、スケッチ帳を開いた。
ブランシュ、マロン、ゲオルク卿。一頁ずつめくって、ベルトルトの前に置いていく。
「十七匹とも、わたくしが描きましたの」
ベルトルトが顔を上げる。
「耳の欠けも、尻尾の曲がりも、足先の色も。ミンナ様の使いから聞いた通りに、一匹ずつ。いつか見つかって、あなたが喜ぶ顔が見られたらと思って」
最後の頁の、灰色の猫で手を止める。
「一匹も、見つかりませんでしたけれど」
「ティリー」
「家に要るのは、奥向きを回せる方でしょう。それなら、新しい使用人頭をお雇いになって。腕の良い方は王都にいくらでもおりますわ」
オティーリエは、スケッチ帳を閉じた。
「わたくしは、あなたの家のために雇われるつもりはございません。どうせ雇われるなら、猫の散歩係の方が性に合っておりますの」
「散歩係……?」
ベルトルトは、意味がわからないという顔をした。
説明する気にはならなかった。
オティーリエは、テーブルの上の不格好な張り紙を手に取り、ベルトルトの前へ滑らせた。
「次の猫は、どうぞご自分でお描きになって」
それが、最後だった。
ベルトルトは張り紙を見つめたまま、動かなかった。
先に立ち上がったのは、侯爵夫人だった。
「……伯爵。オティーリエさん。お時間をいただいて、申し訳ありませんでした」
夫人は深く頭を下げ、それから息子の腕を取った。
ベルトルトは、母親に引かれるまま立ち上がった。扉のところで一度だけ振り返りかけて、結局振り返らずに出ていった。
テーブルの上には、耳のずれた灰色の猫が一枚、残された。
「よく言った」
それまで一言も口を挟まなかった父が、低く言った。
「三年目あたりで、言ってほしかったがな」
「わたくしもそう思いますわ、お父様」
門を出ると、宰相府の馬車の扉が内側から開いた。
宰相は座席に座ったまま、膝に書記官殿を載せていた。
書記官殿の方は、載ってやっている、という顔をしていた。
「終わったか」
「終わりました」
「そうか」
宰相はそれ以上何も聞かなかった。
ただ、オティーリエが向かいの席に座ると、膝の上の書記官殿を両手で持ち上げ、そっとこちらの膝へ移した。
書記官殿は文句も言わずに丸くなる。
重たくて、温かかった。
応接間にいる間、門の外にこの馬車があると思うだけで、背筋がまっすぐになっていた。
窓の外を、王都の街並みが流れはじめる。
オティーリエは書記官殿の背中に手を置いたまま、しばらく黙っていた。
黙っているうちに、五年分の言葉が喉のあたりまで上がってくる。
「……閣下。わたくし、今日はたくさんお喋りしてしまいそうですわ」
「では、散歩の距離を延ばそう」




