第四話 報告は、以上だ
散歩係を始めて、二週間が過ぎた。
書記官殿は、胴輪をつけてから横倒しになるまでに、十二歩歩くようになっていた。
「前回より三歩多い」
中庭の石畳を見下ろして、宰相が言った。
「数えていらしたのですか」
「数えている」
宰相は毎回、なぜか中庭にいる。
火曜と木曜と土曜の、午後三時。オティーリエが宰相府に着く時刻に、ちょうど脱走経路の確認をしているらしい。
二週間、一度も確認が終わらない経路だった。
文官たちも、何かを察しているようだった。
最初の週は、オティーリエ一人分だった中庭の茶器が、二週目から二人分になった。
誰が指示したのかは、誰も言わない。
十二歩を歩き終えた書記官殿を抱き上げると、宰相が一歩前に出た。
「報告がある」
「はい」
「城下の画材店で、君が使っている鉛筆と同じ銘柄を確認した。在庫は三箱。うち二箱を確保した」
差し出された包みを、オティーリエは両手で受け取った。
重さからして、本当に二箱入っている。
「なぜ二箱ですの」
「一箱は、他の客のために残した」
「お優しいのですね」
「独占は、市場を歪める」
宰相は真顔だった。
オティーリエは、包みを胸に抱えたまま下を向いた。笑っているのを見られたくなかった。
この人は、贈り物を渡す時まで報告書の口調になる。
それが、最近は少しも嫌ではない。
その頃、ホーエンエック侯爵家では、細かなほころびが次々に見つかっていた。
話を運んでくるのは、主にハンネだった。侍女同士の噂話は、王都のどんな伝令より早い。
「秋の狩猟会の招待状、半分も返事が出ていないそうですよ」
「まあ」
「冬物の寝具の注文も、まだだとか。それに先日の侯爵夫人のお茶会では、秋なのに夏の菓子が出たそうです」
オティーリエは、刺繍の手を止めた。
招待状の返事の文面を考えていたのは、オティーリエだった。
季節ごとの寝具の手配も、出入りの菓子店に献立を伝えるのも。
侯爵夫人は体が弱く、奥向きのことを嫁いでくる娘に少しずつ任せたいと言っていた。
少しずつ、のはずだった。
ベルトルトが猫を探しに出るたびに、その「少しずつ」は増えていった。婚約者がいない間、屋敷で夫人の相談に乗るのは、いつもオティーリエだったから。
五年もやっていれば、手が勝手に覚える。
覚えた手が、急にいなくなったのだ。
「使用人頭も、先週辞めたそうです。若様に指示を仰いでも、猫の話しかなさらないと」
「……猫の話」
「新しい猫が見つからない、と」
オティーリエは、刺繍針を布に刺したまま、しばらく動かなかった。
同情していいのか、呆れていいのか、よくわからない。
ただ一つ確かなのは、あの家の冬支度はもう、自分の仕事ではないということだった。
木曜は、朝から雨だった。
散歩は中止になり、オティーリエは宰相の執務室の長椅子で、書記官殿を膝に載せていた。
宰相は机で書類を読んでいる。
読んでいるはずだが、頁がさっきから一枚もめくられていない。
オティーリエは、贈られた鉛筆で書記官殿を描いていた。
雨の日の書記官殿は、晴れの日より一回り平たくなる。新しい発見だった。
「一つ、報告がある」
宰相が、書類から顔を上げずに言った。
「例の劇場の件だ。張り紙の日付は、十六回とも初日の夜で間違いない」
「そうでしたか」
「それと、劇場の案内係が覚えていた。初日の夜は決まって、ホーエンエック家の桟敷に若い男女が座るそうだ。毎回、同じ二人が」
鉛筆の先が、紙の上で止まった。
同じ二人。
知っていたような気もするし、知りたくなかったような気もする。
「お調べくださって、ありがとうございます」
「礼を言われることではない。個人的に、気になっただけだ」
「閣下が個人的に、ですか」
「そうだ」
宰相は書類を机に置いた。
置いてから、眉間に指を当てる。何かを言う前の癖だと、この二週間で覚えた。
「もう一つ、報告がある」
「はい」
「ここ二週間、火曜と木曜と土曜の午後三時以降、私の執務の効率が著しく落ちている」
オティーリエは顔を上げた。
宰相は真っ直ぐにこちらを見ている。眉間の皺は、いつもより深い。
「原因を調べた。書記官殿ではない。書記官殿は、以前から執務の邪魔をしている」
「……はい」
「原因は、おおむね特定できている」
雨の音だけが、しばらく部屋を満たした。
膝の上で、書記官殿が片耳をこちらへ向ける。
宰相は何か続けようとして、口を開き、閉じた。
それから、何事もなかったような顔で書類を取り直した。
「報告は、以上だ」
オティーリエは、描きかけのスケッチ帳に目を落とした。
雨の日の平たい書記官殿の横に、机に向かう人の横顔が描き足されていた。描いた覚えは、半分しかない。
眉間に皺が一本。
鉛筆を握ったまま、頬が熱くなるのをどうすることもできなかった。
その日、屋敷に帰ると、父が応接間で一通の手紙を広げていた。
封蝋には、ホーエンエック侯爵家の紋章。
「お帰り、ティリー」
「お父様、それは」
「婚約解消は双方の行き違いによるもので、改めて話し合いの場を設けたい、とある」
父は老眼鏡を外し、手紙を指先で弾いた。
「当日は、ベルトルト殿も同席なさるそうだ。侯爵夫人の直筆で、便箋が四枚」
「四枚も」
「読んでみるといい。冬支度の話が三枚半ある」
差し出された便箋を、オティーリエは受け取らなかった。
父は肩をすくめて、手紙を畳んだ。
「猫の話は、一行も書いてないな」




