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猫係令嬢は宰相閣下にも懐かれる  作者: 九葉(くずは)


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3/8

第三話 猫は、芝居がお好きなようで

「散歩係、ですか」


「そうだ」


 宰相は執務机の前に立ったまま、足元の灰色の塊を見下ろした。


 書記官殿は、オティーリエのドレスの裾を座布団にして、すでに目を閉じている。


「書記官殿は、ひと月に一度は脱走する。原因は運動不足と退屈だと、王城の獣医は言っている」


「まあ」


「だが私が連れ出そうとすると、この通りだ」


 宰相が屈んで手を伸ばすと、書記官殿は目を閉じたまま、尻尾だけで床を一度叩いた。


 宰相の手が引っ込む。


「週に三日、午後に宰相府へ来て、書記官殿を散歩させてほしい。報酬は相場の倍を出す」


「わたくし、猫の散歩の相場を存じ上げませんけれど」


「私も知らない。今から調べさせる」


 控えていた文官が、本当に手帳を開こうとしたので、オティーリエは慌てて止めた。


 報酬の問題ではなかった。


 婚約を解消したばかりの伯爵令嬢が、屋敷にこもっていれば何を言われるか、想像はつく。


 出かければ出かけたで、噂の的になるのも目に見えている。


 どうせ噂されるなら、猫の散歩をしている方がいくらか気が楽だった。


「お引き受けいたします。ただし、書記官殿が歩いてくださるかどうかは、保証いたしかねますわ」


「それは誰にも保証できない」


 宰相は至極真面目な顔で頷いた。


 その夜、事の次第を聞いた父は、長いこと黙っていた。


「……宰相府で、猫の散歩」


「はい」


「ホーエンエックの家の猫騒ぎから、ようやく解放されたと思ったのだがな」


「今度の猫は、本当におりますもの」


「そこか」


 父は額を押さえ、それでも最後には「失礼のないようにな」とだけ言った。


 三日後。


 本来なら、今日が結婚式の日だった。


 オティーリエがそれを思い出したのは、宰相府の中庭に着いてからで、そのことに自分で少し驚いた。


 宰相府の中庭で、オティーリエは書記官殿に特注の胴輪をつけた。


 紺の革に、宰相府の紋章。首輪と揃いで、王城の革職人に作らせたものらしい。


 書記官殿は胴輪をつけられるなり、石畳の上で横倒しになった。


 動かない。


 引いても、呼んでも、鼻先で焼き菓子の欠片を振っても動かない。


「閣下。これは、散歩と呼べるのでしょうか」


「外の空気には触れている」


 なぜか宰相も中庭にいた。


 脱走経路の確認のため、というのが本人の説明だった。確認しているにしては、書記官殿の横倒しの姿ばかり見ている。


 結局、オティーリエが書記官殿を抱き上げ、城下を歩くことになった。


 抱えられた書記官殿は、機嫌よく喉を鳴らしている。


 散歩係の仕事というより、重たい荷物の運搬係だった。


 王城を出て、大通りを西へ。


 宰相は半歩後ろを歩きながら、時おり抱える役を代わろうと手を出し、そのたびに尻尾で払われていた。


 劇場通りに差しかかったところで、オティーリエは足を止めた。


 通りの掲示板に、張り紙が何枚も重ねて貼られている。


 色あせたもの、半分破れたもの、雨で波打ったもの。


 そのうちの一枚に、見覚えのある三毛猫がいた。


 『探しています 三毛の猫 名前はポンム』


 絵は、オティーリエの線だった。


「それは」


 宰相が、張り紙とオティーリエの顔を見比べる。


「君の絵か」


「……ええ。以前、知人の猫がいなくなった時に」


「やはりそうか」


 宰相は掲示板の前に立ち、重なった張り紙を指で一枚ずつめくっていった。


 白猫。黒猫。錆柄。また白猫。


 どれも、オティーリエが描いた猫だった。


「閣下、なぜおわかりに」


「見たことがあると言っただろう」


 宰相は掲示板から目を離さないまま答えた。


「書記官殿が脱走するたび、城下の猫の張り紙を集めさせている。迷い猫も、拾い猫もだ。灰色の猫を拾った者が、届け先を探して貼るかもしれないから」


「まあ」


「この五年分が、宰相府の書庫にある」


 宰相府の書庫に、迷い猫の張り紙。


 オティーリエは、その光景をうまく想像できなかった。


「それで、この線は何度も見た。特徴の拾い方が正確だ。耳の欠け、尻尾の曲がり、足先の色。これを描いた人間は、猫をよく見ていると思っていた」


「実物は、一度も見たことがございませんの」


「……どういうことだ」


 オティーリエは書記官殿を抱え直し、五年分の話をした。


 ミンナの猫がいなくなるたびに、特徴を聞いて似顔絵を描いてきたこと。


 十七匹のうち、見つかった猫は一匹もいないこと。


 三日前の、庭のテーブルと二つのカップのことも。


 宰相は途中で一度も口を挟まず、最後まで聞いていた。


 聞き終えてから、もう一度掲示板へ目を向ける。


「ザイラー子爵家は、王都のどこにある」


「東区です。王城を挟んで、ちょうど反対側に」


「では、なぜ張り紙がここにある」


 オティーリエは、掲示板を見た。


 劇場通り。王都の西の端。


 ザイラー家からは、馬車でも半刻はかかる。


「猫が、ずいぶん遠くまで逃げたと思ったのかしら」


「十六匹とも、か」


 宰相は掲示板の前を離れ、通りの向こうを顎で示した。


 王立劇場の正面に、新しい演目の大きな看板が掲げられている。


「王立劇場の新しい演目は、上演の許可に私が署名している。書庫の張り紙の日付を見るたびに、覚えのある日ばかりだと思っていた」


「覚えのある日、と申しますと」


「初日だ。どれも、この劇場の」


「偶然なら、十六回続く偶然だな」


 腕の中で、書記官殿の尻尾がゆらりと揺れる。


 オティーリエは、何を言えばいいのかわからなかった。


 五年間、描き続けてきた。どの子も可愛く描けたと思っていた。


 その絵が、劇場の前に貼られていた理由を、考えたこともなかった。


「猫は、芝居がお好きなようですわね」


 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。


 宰相は、眉間の皺をわずかに深くした。


「君は、怒っていい」


「怒っておりますわ。たぶん」


「たぶん」


「怒るより先に、呆れてしまって。自分に」


 宰相は少し考えるように黙り、それから、抱えている書記官殿の頭を指先でそっと撫でた。


 書記官殿は、今度は尻尾で払わなかった。


「呆れる必要はない。君は頼まれたものを、頼まれた通りに正確に描いた。それを妙な場所に貼った者がいるだけだ」


 宰相の声は相変わらず平坦で、慰めているのか事実を述べているのか判然としない。


 それなのに、オティーリエの胸のどこかが、少しだけ軽くなった。


「閣下は、慰めるのがお下手ですのね」


「よく言われる」


「どなたに?」


「書記官殿に」


 オティーリエは声を上げて笑った。


 腕の中の書記官殿が迷惑そうに身じろぎし、宰相はなぜか、笑うオティーリエの顔を黙って見ていた。


 帰り道、劇場通りの角を曲がろうとしたところで、宰相が足を止めた。


 街灯の柱に、新しい張り紙が貼られている。


 糊がまだ乾いていない。今日貼られたものだ。


 『探しています 灰色の猫 尻尾の先だけ白い 名前はフリーダ』


 添えられた絵は、オティーリエの線ではなかった。


 耳の位置が左右でずれた、不格好な灰色の猫。


 隣の劇場の看板には、大きな文字でこう書かれていた。


 本日初日。

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