第二話 笑わない宰相と、降りない猫
「お嬢様。この子、降りる気がまったくございませんね」
「そのようね」
馬車の中で、オティーリエは膝の上の灰色の塊を見下ろした。
抱き上げようとすると、猫は四肢をだらりと伸ばし、全身の重みをスケッチ帳に預けてくる。
持ち上がらない。
正確には、持ち上げると溶けたように下へ流れていく。
「宰相府の紋章でしたら、届け先ははっきりしておりますけれど」
「ええ。行き先を王城へ変えてちょうだい」
ハンネが御者台の小窓を叩き、行き先を告げる。
オティーリエは、猫の背をそっと撫でた。
五年で十七匹の似顔絵を描いて、一匹も見つからなかった。
それなのに、探してもいない猫が屋根から降ってくるのだから、世の中はよくわからない。
「宰相閣下といえば、あの方でございますよね」
ハンネが声をひそめる。
「ヴィンフリート・シュテルク様。二十七で宰相になられて、社交界では『笑わない宰相』と」
「存じているわ」
噂なら、オティーリエの耳にも届いていた。
夜会にはほとんど顔を出さない。出しても、壁際で誰かと税の話をしている。
予算の会議では、三人の侯爵を黙らせたらしい。
笑った顔を見た者はいない、というのが定説だった。
「その方の猫、ということになりますかしら」
「紋章を見る限りは」
膝の上で、猫が大きなあくびをした。
笑わない宰相の猫にしては、ずいぶんと緩んだ顔をしている。
王城の東棟、宰相府の門で馬車を降りた瞬間、門番の顔色が変わった。
「そ、それは、書記官殿では」
「書記官殿?」
「その猫です。宰相府の書類の上でしかお休みにならないので、皆そう呼んでおります」
門番の叫びを合図に、奥から文官たちが次々と駆け出してきた。
インクの染みた袖、耳に挟んだ羽根ペン。そろって寝不足の顔だった。
「三日ぶりだ」
「ご無事で」
「閣下にお知らせを」
口々に言いながら、一人が書記官殿へ手を伸ばす。
書記官殿は低く唸り、オティーリエの袖に顔を埋めた。
文官の手が止まる。
別の文官が挑む。唸り声が一段低くなる。
三人目は、手を伸ばす前に諦めた。
「……恐れ入りますが、ご令嬢。そのまま閣下の執務室まで、お運びいただけますでしょうか」
オティーリエは、腕の中の重みを抱え直した。
人生で一番重い届け物になりそうだった。
執務室の扉が開くと、大きな机の向こうに、黒に近い焦げ茶の髪の青年が座っていた。
灰色の瞳は手元の書類に落とされたまま。眉間には、刻んだような皺が一本。
机の前には文官が三人並び、何かの数字を読み上げている。
「閣下。書記官殿が、お戻りに」
その一言で、青年が顔を上げた。
椅子が大きな音を立てて後ろへ倒れた。
机の端に積まれていた書類の山が、雪崩のように床へ滑り落ちていく。
文官たちは慣れた様子で、それを拾い始めた。
青年は倒れた椅子に目もくれず、机を回り込んでこちらへ来た。
そして、オティーリエの前で急に足を止める。
「……ご苦労」
声だけは、驚くほど平坦だった。
ただ、両手が中途半端な高さで宙に浮いたままになっている。
猫を受け取りたいのに、受け取る姿勢を見せるのは威厳に関わる、とでもいうような高さだった。
「ブラント伯爵家の、オティーリエと申します。こちらの猫が、わたくしの馬車に」
「ヴィンフリート・シュテルクだ。宰相をしている」
存じております、とはさすがに言わなかった。
「書記官殿は、三日前の夜から所在不明だった。捜索に割いた人員は延べ四十二名。王城の敷地内は三度さらった」
「まあ」
「どこで見つけた」
「見つけたと申しますか。馬車の屋根から、降っていらっしゃいまして」
「屋根」
「はい」
「……馬車の」
「はい」
宰相は黙って、書記官殿を見下ろした。
書記官殿は、宰相を見上げもしなかった。オティーリエの袖に、さらに深く顔を埋めていく。
宙に浮いていた宰相の両手が、ゆっくりと下りた。
その下り方があまりにしょんぼりしていて、オティーリエは口元に力を入れる必要があった。
「閣下、お受け取りになりませんと」
「今は機嫌が悪い。無理に引き離すと、明日の閣議資料の上で報復される」
「報復」
「前に一度、予算案の一頁目が駄目になった」
後ろで書類を拾っていた文官たちが、そろって深く頷いた。
結局、オティーリエは応接用の長椅子に座らされ、膝に書記官殿を載せたまま待つことになった。
宰相は執務机に戻り、倒れた椅子を自分で起こして、書類への署名を再開した。
再開したものの、十枚に一度はこちらを見る。
いや、見ているのは書記官殿の方だ。見ては、また書類に戻る。
「閣下。その頁、先ほども署名なさいました」
「……わかっている」
文官に指摘され、宰相は書き損じの紙を脇へよけた。
眉間の皺は相変わらず深い。けれど、噂ほど冷たい人には見えなかった。
手持ち無沙汰になったオティーリエは、鞄からスケッチ帳を取り出した。
膝の上の丸い背中を、そのまま写していく。
たっぷりとした頬、短く太い前足、機嫌よく畳まれた耳。
今日だけで二匹目の猫だが、こちらは本物が目の前にいる。聞いた特徴から想像するより、ずっと描きやすかった。
机の向こうで、ペンの音が止まった。
「それは」
宰相が立ち上がり、長椅子の横からスケッチ帳を覗き込んでいる。
「書記官殿か」
「はい。お待ちする間の手慰みに」
「似ている」
宰相は、灰色の瞳でしばらく絵を見つめていた。
「よく似ている。この頬の余り具合まで」
「ご本人の前で、余り具合などとおっしゃっては」
「事実だ」
書記官殿が、片耳だけをこちらへ向けた。聞こえているらしい。
宰相は、絵から目を離さないまま小さく首を傾げた。
「……この線は、どこかで見た気がする」
「え?」
「いや。こちらの話だ」
それきり、宰相は執務机へ戻っていった。
日が傾き始めた頃、書記官殿はようやくオティーリエの膝から降りた。
降りたというより、寝返りを打った拍子に床へ転がり落ちた。
その隙に、宰相がすかさず抱き上げる。書記官殿は不満げに一度だけ鳴いたが、今度は腕の中に収まっている。
「世話になった。礼は、改めて伯爵家へ届けさせる」
「お気遣いなく。お届けしただけですもの」
オティーリエは一礼し、扉へ向かった。
侍女と並んで廊下へ出た瞬間、背後で、どさりと重たい音がした。
振り返ると、宰相の腕の中は空で、灰色の塊が床を蹴ってこちらへ走ってくるところだった。
丸い体からは想像もつかない速さ。
書記官殿はオティーリエの足元まで来ると、裾の上に座り込み、動かなくなった。
文官たちが、揃って天井を仰ぐ。
宰相は空っぽの腕を下ろし、長いこと黙っていた。
やがて、眉間の皺を一本も緩めないまま、オティーリエへ向き直った。
「ブラント伯爵令嬢」
「はい」
「一つ、仕事の話をしてもいいだろうか」




