第一話 十七匹目の似顔絵
「ホーエンエック様、ザイラー家の猫がいなくなったそうです」
仕立て屋の奥の間に、使いの少年の声が響いた。
オティーリエ・ブラント伯爵令嬢は、頭にヴェールを載せたまま、鏡越しにその少年を見た。
結婚式まで、あと三日。
今日はヴェールの丈を決める、最後の合わせの日だった。
「またか」
椅子に座っていたベルトルト・ホーエンエックが、ため息まじりに立ち上がる。
ため息をついているわりに、動きは早い。上着にはもう片腕が通っている。
「すまない、ティリー。ミンナは今ごろ泣いているだろうから」
「ええ。存じております」
オティーリエは、針子にヴェールを外してもらいながら答えた。
存じているどころではない。
この五年で、ミンナ・ザイラー子爵令嬢の猫は十六回いなくなっている。
最初は、白い長毛の「ブランシュ」。
次が、茶色の縞の「マロン」。
三匹目は黒猫で、名前は「ゲオルク卿」だった。なぜ卿なのかは、今も知らない。
それから先は、柄も大きさも名前も、毎回違った。
共通しているのは三つだけ。
ミンナが泣いていること。
ベルトルトが駆けつけること。
そして、猫が一匹も見つからないこと。
「特徴を伺っても?」
オティーリエは、足元に置いていた鞄からスケッチ帳を取り出した。
使いの少年は慣れた様子で答える。
「灰色で、尻尾の先だけ白くて、目は金色だそうです。名前はフリーダ」
「承知いたしました」
鉛筆を走らせる。
丸い頭、細い尾。その先端だけを塗り残して白に。
オティーリエは昔から絵が得意だった。一度聞いた特徴を、見てきたように描ける。
だからミンナの猫がいなくなるたびに、似顔絵を描いてベルトルトに渡してきた。張り紙に使ってもらうためだ。
ザイラー家まで付いていったことは、一度もない。婚約者の幼馴染の家へ押しかける女、と噂されるのが嫌だったからだ。
スケッチ帳をめくれば、五年分の猫が並んでいる。
ブランシュ、マロン、ゲオルク卿。
どの子も、可愛く描けたと思う。
どの子も、帰ってこなかった。
尾を描き終えたところで、鉛筆が止まった。
三日後には、この人の妻になる。
妻になっても、猫はいなくなるのだろう。十八匹目も、十九匹目も。
そのたびに自分は、どこかの応接間で似顔絵を描いて待つのだろう。
ヴェールを畳む針子の手元を眺めながら、それはちょっと、と思う。
ちょっとどころではない。かなり嫌だ。
「ベルトルト様」
扉に手をかけていた婚約者が振り返る。
「今日は、わたくしも参ります」
「え」
「いつも似顔絵をお渡しするだけでしたもの。たまには捜索にも加わりませんと」
「いや、でも、君はヴェールの合わせが」
「もう終わりましたわ」
針子が心得たように、畳んだヴェールを箱へしまって一礼した。
ベルトルトの視線がさまよう。
「ミンナは、知らない人がいると落ち着かないんだ。猫も怯える」
「五年のお付き合いですのに、まだ知らない人ですの?」
「そういう意味じゃない」
「それに、猫はもう逃げているのですから。怯えさせる心配はございませんわ」
ベルトルトは何か言いかけて、結局口を閉じた。
婚約者の同行を断る理由を、とっさには思いつかなかったらしい。
オティーリエはスケッチ帳を閉じ、鞄を持って立ち上がった。
控えていた侍女のハンネが、音を立てずに小さく手を叩いている。
ザイラー子爵家までは、馬車で四半刻ほど。
その間、ベルトルトは窓の外ばかり見ていた。
猫を探しているにしては、ずいぶん遠くを見ている。
屋敷に着くと、出迎えた執事がオティーリエの姿を見て、わずかに動きを止めた。
「……ブラント伯爵令嬢も、ご一緒で」
「ええ。猫探しのお手伝いに」
「さようで、ございますか」
執事は一度だけ庭の方へ目をやり、それから、申し訳なさそうな顔で二人を案内した。
庭園には、薔薇の垣根のそばに白いテーブルが据えられていた。
焼き菓子の皿と、湯気の立つ茶器。
カップは二つ。
その片方を手に、ミンナ・ザイラーが座っている。
淡い桃色のドレスに、よく手入れされた巻き髪。泣いた跡は、どこにも見当たらない。
「ベルトルト、遅かったじゃない。お茶が冷めて」
顔を上げたミンナが、オティーリエを見て固まった。
「あら。ティリー様まで」
「ごきげんよう、ミンナ様。フリーダちゃんがいなくなったと伺いまして」
「え、ええ。そうなの。とても心配で」
ミンナはカップを置き、ハンカチを目元へ当てた。
向かいの席のカップには、まだ誰も口をつけていない。ベルトルトの分なのだろう。
猫が逃げて泣いている家で、婚約者の到着に合わせて紅茶が淹れてある。
オティーリエは、その空席をしばらく見つめていた。
「ミンナ、フリーダはどこで見失ったんだ」
ベルトルトが、急に捜索隊長のような声を出す。
「ええと、お部屋で。窓が開いていて」
「どちらのお部屋ですの? 窓の下から探しましょう」
オティーリエが尋ねると、ミンナの目が泳いだ。
「あ、でも、もう戻ってきたの。ついさっき」
「まあ、よかった。どちらに?」
「お昼寝……しているわ。お部屋で」
「では、ひと目だけ拝見できますかしら。似顔絵が合っているか、確かめたいので」
「今は、起こすと可哀想だから」
オティーリエはにこりと笑った。
そして鞄からスケッチ帳を取り出し、焼き菓子の皿の隣に開いて置いた。
ブランシュ。マロン。ゲオルク卿。
ページをめくるたびに、猫が一匹ずつ現れる。
白、茶、黒、三毛、錆柄、また白。長い毛に短い毛、先の曲がった鍵尻尾。
十六匹目でめくる手を止める。その次のページには、描き上がったばかりの灰色の猫。
ミンナの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
ベルトルトも、黙ってページを見下ろしていた。
「五年で、十七匹ですわね」
「ティリー、それは」
「ミンナ様は猫がお好きなのでしょう。ですから、逃げられても次の子を迎えていらした。そこまでは、わかりますの」
オティーリエは、灰色の猫のページを指でなぞった。
「ただ、どの子も見つかったというお話を、わたくしは一度も伺っておりません」
ミンナは何も言わない。
ベルトルトは、口を開けては閉じるのを二度繰り返した。
「それで、ずっと考えておりましたの。いなくなった十七匹は、今どこにいるのかしら、と」
「ティリー、ミンナは本当に心配して」
「ええ。ですから、これからも探して差し上げてくださいませ」
オティーリエはスケッチ帳を閉じ、胸に抱えた。
「どの子もまだ見つからないようですので、どうぞお二人で、ごゆっくり」
「待ってくれ。何を言っているんだ。式は三日後だろう」
「三日後の式のことは、父から改めてお話しさせていただきます」
ベルトルトの顔から、表情が抜け落ちた。
「……それは、どういう」
「婚約を解消したいと申し上げております」
一礼して、踵を返す。
背後でミンナの「そんなつもりじゃ」という声がして、ベルトルトの「ティリー」という声が続いた。
振り返らなかった。
振り返ったところで、見えるのは冷めていく二つのカップだけだ。
門の外では、ハンネが馬車の扉を開けて待っていた。
「お嬢様」
「なあに」
「お見事でした」
「ハンネ、声が弾んでいるわ」
「弾みもいたします。五年分ですから」
馬車が動き出す。
オティーリエはスケッチ帳を膝に載せ、背もたれに体を預けた。
手は震えていない。
もっと泣くのかと思っていた。怒りで声が裏返るのかとも。
実際には、ヴェールの丈を決めるより簡単だった。
あれほど迷って、五年も続けてきたことなのに。
「お父様には、なんとお話ししようかしら」
「旦那様なら、三年目あたりから『まだ猫か』とおっしゃっていましたよ」
「……そうだったわね」
笑うと、肩から力が抜けた。
窓の外を、王都の街並みが流れていく。
馬車は劇場通りに差しかかっていた。通りの掲示板には色あせた張り紙が何枚も重なっていて、いちばん上の一枚に、見覚えのある猫がいる。
『探しています 茶色の縞の猫 名前はマロン』
添えられた絵は、オティーリエが三年前に描いたものだ。
見なかったことにしよう。そう決めて目を閉じかけた時、馬車の屋根で、ごとん、と重たい音がした。
「な、何かしら」
ハンネが窓へ身を乗り出すより早く、開いていた小窓から、灰色の塊がずるりと滑り込んでくる。
塊はオティーリエの膝に着地し、スケッチ帳の上で一度だけ体を丸め直した。
猫だった。
ずいぶん大きい。ずいぶん丸い。どこからどう見ても、よく食べている猫だ。
灰色の毛並みは艶やかで、首には深い紺の首輪が巻かれている。
留め金には、小さな紋章が刻まれていた。
羽根ペンと天秤。
王都の貴族なら、誰でも知っている印。
宰相府の紋章だった。




