第9話:台所番
十日後、払いの日が来た。
宮の外にある役所の窓口で、銅貨を五十枚数えて置いた。書記が数えなおして、受け取りの紙を書いた。弟の名と、日付と、次の期限が書いてある。
残りは三十枚になった。
「弟の様子は」
わたしは聞いた。
「その定めがございません」
あの窓のない部屋で聞いたのと同じ答えだった。書いている人間は違うのに、返ってくる言葉が同じだ。
「では、一つだけ」
わたしは言った。
「この銭は、何に使われますか」
書記は台帳の欄を指でたどった。
「宮の台所と、薪方に回ります」
台所。
わたしはその言葉を持って、役所を出た。
ニコを見つけて、頼んだ。
「うちの台所番だった女を探してください。五十を越えていて、手の甲が火傷で白くなっています。宮の台所に入っているはずです」
「銅貨三枚だ」
ニコは手を出した。
「前は貸しだったけど、あれはもう終わったからな。次からは先払いだ」
「二枚では」
「三枚。西の門まで行くんだよ」
わたしは三枚渡した。残りは二十七枚になった。
粉屋への借りは、別にある。朝ごとに二つを十日ぶん、二十個で六十枚だ。
手元にある銭より多い。
ニコは翌日には見つけてきた。
宮の裏の勝手口。夕方、台所の者が下がってくる時刻だった。
石段に腰をかけて待っていると、四人ばかり出てきた。その中の一人が、火傷の手で前掛けを外していた。
顔を上げて、わたしを見た。
女は前掛けを落として、後ろへ下がろうとした。
わたしは追わなかった。
「弟の膳のことを、伺いたいのです」
女の足が止まった。
追及されると思っていたのだ。思っていたことと違うことを言われたので、止まった。
「……お嬢様」
「その呼び方はもう使えません」
わたしは石段に座ったままだった。
「アガタさん。あなたが宮の台所にいると聞きました。弟の部屋に膳を上げる番があると」
アガタは前掛けを拾って、握っていた。
「……三日に一度です」
声が小さかった。
「上げるだけです。中には入れません。扉の前に置いて、下がります」
「皿は」
「え」
「下げるとき、皿は空になっていますか」
アガタは少し考えた。
「空です。いつも空です」
わたしは息を吐いた。
食べている。アガタが上げた膳を、あの子は食べている。
それだけでいい、と思った。
「膳には、何が載っていますか」
アガタが黙った。
その黙り方で、分かった。
「麦の粥です」
アガタは前掛けを見ていた。
「あとは、根菜を煮たものが少し。パンは出ません。肉は、あの部屋に移されてから一度もありません」
「薪は」
「……あの部屋は、薪方の割り当てから外れています」
わたしは石段の縁を握った。
北向きの部屋だ。あの宮の東側は日が入らない。朝はもう冷える。あとひと月で霜が降りる。
わたしは払っている。
食事と、薪と、薬の代として、窓口で銅貨を数えて置いている。受け取りの紙も持っている。あの紙には、あの子の名前が書いてある。
払った銭で、麦の粥が出ている。薪は入っていない。
合わない。
誰かが抜いているのだと思った。ドランと同じだ。集めた額と、届いた額が違う。
「割り当てから外れている、というのは」
わたしは聞いた。
「名簿にないんです」
アガタは言った。
「薪方は、名簿にある部屋にだけ薪を入れます。あの部屋は、去年まで物置でした。だから、載っていません」
「では、わたしが払った銭は」
「台所の勘定に入ります。宮の台所ぜんぶの勘定です」
わたしは石段に座りなおした。
誰も盗んでいない。
わたしの銭は台所の大きな勘定に入って、宮にいる全部の人間の膳になっている。そのうちの一つが、麦の粥として北向きの部屋へ運ばれる。帳面は合っている。誰も嘘をついていない。
あの子は、名簿に載っていないだけだ。
爪が掌に入った。
地獄に落としてやる。
そう思って、そこで止まった。誰を、とは言えなかった。
落とす相手がいない。
書いた人間もいない。盗んだ人間もいない。ただ、去年まで物置だった部屋に子どもを入れて、名簿を書き直さなかった。それだけで、あの子は霜の降りる朝に薪のない部屋にいる。
大広間では相手が全部見えていた。エマも、殿下も、証言した五人も。あの人たちは笑っていた。笑うだけの人間がいるほうが、まだましだった。
息を吐いた。
名簿に載せればいい。
それは、わたしにできることだった。誰かを潰すのではなく、紙に一行足せばいい。どこの誰が書く紙なのかを、まだ知らないだけだ。
「お嬢様」
アガタが言った。
「あたしを、責めに来たんじゃないんですか」
「膳のことを伺いに来ました」
「あたしは、あの日、嘘を言いました」
アガタは前掛けを握ったまま、喋りはじめた。
訊いていない。
「息子がいるんです。二十二になります。仕立屋の下働きで、そんなに器用じゃないんですけど、置いてもらってて」
声が震えていた。第2話の証言台と同じ震え方だった。
「あの子、一緒になる約束をしてる娘がいて。来年の春に、って。来年の春に、って言ってて」
「はい」
「若い方が来て、言われたんです。断れば、お前の息子を罪人にすると」
アガタは顔を上げなかった。
「罪人の家に、娘はやってもらえません。やってもらえないんです。あの話が消えます。……消えたら、あの子、もう」
言葉が途切れた。前掛けを握る手に、力が入っていた。
わたしは何も言わなかった。
「だから、書いてある通りに喋りました。途中で詰まったのは、覚えきれなかったからです。何度も読んでもらったのに、あたしは字が読めないから、耳で覚えるしかなくて」
息子の恋を守るために、この女はわたしの首に縄をかけた。
責める言葉が出てこなかった。
持っていないのだ。グレタのときと同じだった。娘を売った母を責める言葉も、息子の恋を守った女を責める言葉も、わたしは持っていない。
「その方は、どんな人でしたか」
わたしは聞いた。
「若い男の方です。二十五、六くらいで。紙を持っておられました」
「紙」
「みなさんぶんの紙です。あたしの分も、御者さんの分も、その方が書いたものです。一枚ずつ渡して、これを覚えろと」
五人ぶんを、一人が書いた。
大広間では、四人だと思っていた。
書いた人間はあの場にいなくて、わたしはその人の顔を知らないまま死ぬのだと思った。
「顔は、覚えていますか」
「暗かったので……」
アガタは首を振った。
それから、思い出したように言った。
「馬車に、紋がついていました」
「どんな紋です」
「鳥です。翼を開いた鳥に、麦の穂が三本」
わたしは石段から立ち上がった。
エインズワース男爵家の紋だった。
井戸の土地の名義と、同じ家だ。
「アガタさん」
わたしは言った。
「あなたが嘘を言ったことを、いま覆せとは言いません」
アガタが顔を上げた。
「覆せば、あなたの息子は罪人になります。そうしたら、その娘との話が消えます。──いま覆させたら、あの子の話を潰すのはわたしになります」
「……お嬢様」
「その日が来たら、教えます」
わたしは言った。
「それまで、何もしないでください。誰にもこの話をしないでください。それだけです」
アガタは前掛けを握って、それから頷いた。
「なぜ、あたしを責めないんですか」
わたしは少し考えた。
答えがあるとは思っていなかった。ないと思って口を開いたら、出てきた。
「あの日、あなただけが、書かれた通りに喋っていなかったからです」
アガタが、わたしを見た。
「四人は、順序も言い方も同じでした。誰かに書かれた通りに読んでいました。あなただけ、夕方と言って、それから昼と言い直しました」
「あれは、覚えきれなかっただけです」
「はい」
わたしは言った。
「だから、あなたを崩しませんでした」
アガタが口を開こうとした。わたしは先に言った。
「許したわけではありません。いまは、弟の膳が先です」
言ってから、そういうことだったのかと思った。
あの日、口を開こうとして、閉じた。なぜやめたのか自分でも分からなかった。門の前で女を庇ったときも、理由が言えなかった。
答えは、たぶん、こんなに小さいものだったのだ。
嘘が下手な人間を、わたしは崩せない。
アガタは前掛けで目を押さえた。それから台所の中へ戻って、しばらくして出てきた。
布の包みを差し出した。
「焼き菓子です。今日、余ったので」
余っていないのだと分かった。台所から持ち出している。小さな盗みだ。
「いくらお払いすればいいですか」
わたしは聞いた。
アガタが笑った。泣きながら笑う顔だった。
「銭は取りませんよ」
包みを押しつけてきた。
「……お嬢様。あんた、そういうことを聞く女になったんですね」
屋敷にいたころのわたしは、聞かなかった。
台所から出てきたものは、そこにあるものだった。誰が持ち出して、誰が数を合わせていたかを、考えたこともなかった。
「それと」
アガタは勝手口の戸に手をかけて、言った。
「あたしの番の日は、一つ多く載せとくよ」
戸が閉まった。
焼き菓子より、その一言のほうが大きかった。
三日に一度、あの部屋の扉の前に、一つ多く置かれる。誰にも知られずに、記録にも残らずに。
共犯者が、一人できた。
その夜、粉屋の前に座って、パンを食べた。
取り置きの二つだ。オズワルドは臼を回していて、背を向けていた。石の擦れる音が、路地の壁に響いている。
わたしはパンを半分食べて、それから声に出した。
「証人が五人います」
臼の音は止まらなかった。
「それから、証言を書いた人が一人。判を捺した人が一人。名簿に一行足せる人が、どこかに一人」
誰に向けて言ったのでもない。
言ってみたかったのだ。ずっと頭の中にしか置いていなかったものを、一度だけ、外に出してみたかった。
「わたしは、全部覚えています」
臼の音が、一度止まった。
それから、また回りだした。
オズワルドは何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。
残りのパンを食べて、立ち上がって、粉置き場へ帰った。
あそこは店の建物だ。夜のあいだ、戸を見張るのがわたしの役目になっている。だから戸は開けたままにする。閉めるのは雨のときだけだ。
開けたままの場所は、噂にならない。ベスがそう言った。
臼の音が一度止まったことだけ、なぜか耳に残った。
止まったから聞こえたのではない。止まる前から、わたしはあの音を聞いていた。




