第8話:井戸
井戸の前に、椅子が置いてある。
男が座っていた。四十くらいで、上着は擦れているが、靴は新しい。膝に帳面を載せて、桶を持って来た者から銭を受け取っている。
水一杯につき、銅貨一枚。
ドランという男だと、桶の女が教えてくれた。
「昔はただだったんだよ」
女は言った。
「去年の夏からだ。土地に権利があるって、あの人が言い出してね」
列に並ばない者もいた。
マーサがそうだった。桶を担いで、門を出て、水路のほうへ歩いていく。
わたしはついていった。
水路の水は動いていない。マーサは縁にしゃがんで、上のほうの水をすくった。濁っている。
「煮れば飲めるよ」
マーサは言った。訊いてもいないのに言った。
「薪はいるけどね」
わたしは銅貨を出した。
「井戸の分をお出しします」
マーサは桶を持ち上げて、わたしを見た。
「あんたの銭で汲んだ水を、うちの子に飲ませられるかい」
それだけ言って、路地へ入っていった。
わたしは銅貨を握ったまま、そこに立っていた。
この女は、誰も騙していない。
税吏に毛布を持っていかれて、娘が朝に起きてこなかった。それからずっと、水を煮て飲んでいる。エマのパンには頭を下げた。息子が鞭で打たれるところも見た。
正しくしていて、何も返ってこない。
正しさは、水を汲めないのだ。
わたしは井戸へ戻った。
三日、井戸のそばに通った。
水を汲みに来る人間の数を数えた。一日に百三十から百五十。多い日は百七十。
ドランの帳面も見た。膝の上に開いているのだから、隣に座れば見える。盗まなくていい。数字は覚えられる。
二日目に、ニコが来た。
「あんた、なにやってんだ」
「座っています」
「見りゃ分かる」
ニコは井戸の縁に腰をかけた。
「あの男のこと調べてんだろ」
わたしは答えなかった。
「調べてやるよ」
ニコは足を振った。
「どこ行って、誰と会って、いつ帰るか。おれ、そういうのは得意だ。──あのパンの貸し、これで返したことにしてくれ」
「一つでは足りません」
「じゃあ二つ」
三日目には、こちらの数字と、ニコが集めてきた話が揃った。
ドランは奇跡の庭に住んでいない。西の橋を渡った先に家がある。妻がいる。子はいない。
だが週に二度、別の路地へ寄る。夕方に入って、暗くなってから出てくる。
その話を、洗い場でベスにした。
「洗い賃だよ」
ベスは手を止めずに言った。
「あの男は、二軒ぶん払ってる」
「二軒」
「西の橋の家と、水路寄りの路地の家。どっちも同じ男の銭で洗ってる。うちの帳面につけてるんだから、間違いないよ」
ベスは布を桶から出して、絞った。
「それと、路地のほうからは赤ん坊の布が出る。西の橋の奥さんに、子はいないよ」
わたしは黙っていた。
わたしは井戸の帳面を読んだ。この人は洗い場の帳面を読んでいた。
同じことだった。ただ、わたしには洗い場の帳面を見る資格がない。名鑑を全部覚えていても、誰がどの家の洗い賃を払っているかは、どこにも書いていない。
「それでいいのかい」
ベスが聞いた。
「助かります」
「なら、いいけどね」
ベスは布を絞った。それから、少し声を落とした。
「あんた、あの人を潰すのかい」
わたしは答えなかった。
答えなかったことが、答えになった。ベスはそれ以上聞かなかった。
帳面のことも分かった。
ドランが集めた銭は、三日で四百二十枚だった。わたしが数えた人数と、桶の数から出る額とほぼ合う。
だが、帳面に書いてある数は三百枚だった。
差の百二十枚は、どこにも行っていない。
この男は、街から取って、地主にも渡していない。両方から盗んでいる。
井戸の土地の名義は、エインズワース男爵家だった。
役所へは行かなかった。行かなくても知っている。五年、婚約者の周りの家の縁と、誰がどこの土地を持っているかを覚えていた。あの家は都の北に三か所、地面を持っている。そのうちの一つがここだ。
エマがパンを配りに来た街の水を、エマの家が売っている。
三十個の白いパンと、水一杯につき銅貨一枚。
わたしはドランの前に立った。
人が見ている場所を選んだ。井戸に列があって、桶が七つ並んでいる時刻だ。
「ドランさん」
「並んでくれ。順番だ」
「水は要りません」
わたしは言った。
「三日で四百二十枚でした。帳面には三百枚と書いておられます」
男の手が止まった。
「一日に百四十人ほど来ます。桶の数も数えました。四百二十枚のほうが正しいはずです」
「……何の話だ」
「それから、あなたは洗い賃を二軒ぶん払っておられますね」
男は帳面を閉じた。
「西の橋のお宅と、水路寄りの路地のお宅です。路地のほうからは、赤ん坊の布が出ると聞きました」
列が静かになった。
「あなたの奥様のご実家は、東通りの皮革の商家ですね」
わたしは言った。
「うちの屋敷に鞍を入れていました。旦那さんは几帳面な方で、納めの日を一度も間違えませんでした」
「それから、あのお店は、エインズワース家にも革を納めておられます」
男の顔から色が引いた。
妻の実家に届けば、地主にも届く。三日で四百二十枚と三百枚の差も、そこから先へ行く。
わたしは畳んだ紙を出した。
「これを、ご実家に届けます」
開いて見せなかった。
「今日でなくてもかまいません。あなたが街を出るまで、こちらで持っています」
男は何も言わなかった。
殴りかかってもこなかった。椅子から立ち上がって、帳面を抱えて、そのまま西の橋のほうへ歩いていった。
翌朝、家は空になっていた。荷車一台で出ていったらしい。
妾の家にも寄らなかったらしい。その家に、二つになる子がいる。
紙には、何も書いていなかった。
白紙のままだった。わたしは商家の主人の顔も名前も知っているが、この服で訪ねて、話を聞いてもらえるはずがない。
届けられない紙で、人を一人、街から出した。
井戸に列ができた。
銭を集める者がいないので、順番だけが残った。桶が七つ並んで、八つ目が来て、水があふれて足元が濡れた。誰も怒鳴らなかった。
子どもが二人、桶を担いで走っていった。担いだまま走るから半分こぼしている。それでも走っていた。
ニコが余分に汲んで、路地の奥へ持っていった。マーサの家の前に置いて、何も言わずに戻ってきた。
マーサは戸口に出てきて、桶を見て、それから中に入れた。
わたしの名は出なかった。
その日から、大人がわたしを見なくなった。
挨拶をしなくなったのではない。もともとしていない。目を合わせなくなった。
水を汲む列のそばを通ると、話が止まる。通り過ぎると、また始まる。
当たり前だと思った。
あの女は、人の女房の実家に手紙を出すと言った。妾の存在を、洗濯物から割り出した。集めた銭の数を三日座って数えていた。
次は自分かもしれない、と誰でも思う。
わたしは弁解しなかった。
汚いやり方だと分かっていて、やった。井戸は戻った。この二つは同時に本当のことで、片方だけ本当にする方法を、わたしは持っていない。
夕方、井戸のそばを通ったとき、女が二人で喋っていた。
わたしに向けて言ったのではない。隣の女に言っていた。
「あの人は悪徳令嬢だよ」
一人が言った。
「貴族がそう呼んでるんだろ。この前、妃殿下も言ってたじゃないか」
「そうだね」
「たしかに悪徳だよ」
女は桶を持ち上げた。
「──でも、井戸は戻った」
二人は歩いていった。
わたしは立ち止まっていた。
同じ言葉を、三度聞いたことになる。
一度目は大広間で、貴族が腹を抱えて笑いながら投げつけた。二度目は門の前で、エマが煽って、民衆が叫んだ。
三度目が、これだ。
水が戻ったことの説明として使われている。
悪くない呼び名だと思った。
令嬢のところだけは、いまでも合っていない。爵位はもうないし、姓も剥がされている。それでも、この街はわたしを令嬢と呼ぶ。
大広間では、呼んでおいて床を這わせるために使われた言葉だった。
ここでは、水を汲むために使われている。
粉屋の前を通ると、オズワルドが戸口に立っていた。
腕まで粉が乾いている。三日ぶん、こちらを見ていた顔だった。
「あんた」
向こうから声をかけられたのは、はじめてだった。
「次は誰を潰す気だ」
責めている声ではなかった。測っているのだと分かった。この女が味方か、それとも自分の家にも同じことをするのかを、測っている。
「まだ決めていません」
「決まったら言え」
「言いません」
オズワルドは少し黙った。
「そうか」
それから、戸の奥に手を伸ばした。
「明日から、二つ残しとく」
「え」
「パンだ。朝に二つ、取りに来い。──銭はあとでいい」
わたしは言葉が出なかった。
あとでいい、というのは、借りにしていいということだ。
四日前、この人は同じことを言って、わたしが断った。借りができますと言って、質屋へ走った。
「困ります」
「困れよ」
オズワルドは言った。
「うちのパンなら、他の店のを配られるより腹が立たない。あんたが何をやる女かは、まだ分からん。だが、水は戻った」
戸が閉まった。
わたしは、しばらくそこに立っていた。
明日から、二つ残しとく。
この街で、明日の話をされたのは、はじめてだった。
台の上の包みを、裏返してみた。
輪の中にM。焼き印が押してある。
押してあるものは、あの店が出したものだ。あとで銭を払えば、それで済む。




