表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/10

第8話:井戸

 井戸の前に、椅子が置いてある。


 男が座っていた。四十くらいで、上着は擦れているが、靴は新しい。膝に帳面を載せて、桶を持って来た者から銭を受け取っている。


 水一杯につき、銅貨一枚。


 ドランという男だと、桶の女が教えてくれた。


「昔はただだったんだよ」


 女は言った。


「去年の夏からだ。土地に権利があるって、あの人が言い出してね」


 列に並ばない者もいた。


 マーサがそうだった。桶を担いで、門を出て、水路のほうへ歩いていく。


 わたしはついていった。


 水路の水は動いていない。マーサは縁にしゃがんで、上のほうの水をすくった。濁っている。


「煮れば飲めるよ」


 マーサは言った。訊いてもいないのに言った。


「薪はいるけどね」


 わたしは銅貨を出した。


「井戸の分をお出しします」


 マーサは桶を持ち上げて、わたしを見た。


「あんたの銭で汲んだ水を、うちの子に飲ませられるかい」


 それだけ言って、路地へ入っていった。


 わたしは銅貨を握ったまま、そこに立っていた。


 この女は、誰も騙していない。


 税吏に毛布を持っていかれて、娘が朝に起きてこなかった。それからずっと、水を煮て飲んでいる。エマのパンには頭を下げた。息子が鞭で打たれるところも見た。


 正しくしていて、何も返ってこない。


 正しさは、水を汲めないのだ。


 わたしは井戸へ戻った。


 三日、井戸のそばに通った。


 水を汲みに来る人間の数を数えた。一日に百三十から百五十。多い日は百七十。


 ドランの帳面も見た。膝の上に開いているのだから、隣に座れば見える。盗まなくていい。数字は覚えられる。


 二日目に、ニコが来た。


「あんた、なにやってんだ」


「座っています」


「見りゃ分かる」


 ニコは井戸の縁に腰をかけた。


「あの男のこと調べてんだろ」


 わたしは答えなかった。


「調べてやるよ」


 ニコは足を振った。


「どこ行って、誰と会って、いつ帰るか。おれ、そういうのは得意だ。──あのパンの貸し、これで返したことにしてくれ」


「一つでは足りません」


「じゃあ二つ」


 三日目には、こちらの数字と、ニコが集めてきた話が揃った。


 ドランは奇跡の庭に住んでいない。西の橋を渡った先に家がある。妻がいる。子はいない。


 だが週に二度、別の路地へ寄る。夕方に入って、暗くなってから出てくる。


 その話を、洗い場でベスにした。


「洗い賃だよ」


 ベスは手を止めずに言った。


「あの男は、二軒ぶん払ってる」


「二軒」


「西の橋の家と、水路寄りの路地の家。どっちも同じ男の銭で洗ってる。うちの帳面につけてるんだから、間違いないよ」


 ベスは布を桶から出して、絞った。


「それと、路地のほうからは赤ん坊の布が出る。西の橋の奥さんに、子はいないよ」


 わたしは黙っていた。


 わたしは井戸の帳面を読んだ。この人は洗い場の帳面を読んでいた。


 同じことだった。ただ、わたしには洗い場の帳面を見る資格がない。名鑑を全部覚えていても、誰がどの家の洗い賃を払っているかは、どこにも書いていない。


「それでいいのかい」


 ベスが聞いた。


「助かります」


「なら、いいけどね」


 ベスは布を絞った。それから、少し声を落とした。


「あんた、あの人を潰すのかい」


 わたしは答えなかった。


 答えなかったことが、答えになった。ベスはそれ以上聞かなかった。


 帳面のことも分かった。


 ドランが集めた銭は、三日で四百二十枚だった。わたしが数えた人数と、桶の数から出る額とほぼ合う。


 だが、帳面に書いてある数は三百枚だった。


 差の百二十枚は、どこにも行っていない。


 この男は、街から取って、地主にも渡していない。両方から盗んでいる。


 井戸の土地の名義は、エインズワース男爵家だった。


 役所へは行かなかった。行かなくても知っている。五年、婚約者の周りの家の縁と、誰がどこの土地を持っているかを覚えていた。あの家は都の北に三か所、地面を持っている。そのうちの一つがここだ。


 エマがパンを配りに来た街の水を、エマの家が売っている。


 三十個の白いパンと、水一杯につき銅貨一枚。


 わたしはドランの前に立った。


 人が見ている場所を選んだ。井戸に列があって、桶が七つ並んでいる時刻だ。


「ドランさん」


「並んでくれ。順番だ」


「水は要りません」


 わたしは言った。


「三日で四百二十枚でした。帳面には三百枚と書いておられます」


 男の手が止まった。


「一日に百四十人ほど来ます。桶の数も数えました。四百二十枚のほうが正しいはずです」


「……何の話だ」


「それから、あなたは洗い賃を二軒ぶん払っておられますね」


 男は帳面を閉じた。


「西の橋のお宅と、水路寄りの路地のお宅です。路地のほうからは、赤ん坊の布が出ると聞きました」


 列が静かになった。


「あなたの奥様のご実家は、東通りの皮革の商家ですね」


 わたしは言った。


「うちの屋敷に鞍を入れていました。旦那さんは几帳面な方で、納めの日を一度も間違えませんでした」


「それから、あのお店は、エインズワース家にも革を納めておられます」


 男の顔から色が引いた。


 妻の実家に届けば、地主にも届く。三日で四百二十枚と三百枚の差も、そこから先へ行く。


 わたしは畳んだ紙を出した。


「これを、ご実家に届けます」


 開いて見せなかった。


「今日でなくてもかまいません。あなたが街を出るまで、こちらで持っています」


 男は何も言わなかった。


 殴りかかってもこなかった。椅子から立ち上がって、帳面を抱えて、そのまま西の橋のほうへ歩いていった。


 翌朝、家は空になっていた。荷車一台で出ていったらしい。


 妾の家にも寄らなかったらしい。その家に、二つになる子がいる。


 紙には、何も書いていなかった。


 白紙のままだった。わたしは商家の主人の顔も名前も知っているが、この服で訪ねて、話を聞いてもらえるはずがない。


 届けられない紙で、人を一人、街から出した。


 井戸に列ができた。


 銭を集める者がいないので、順番だけが残った。桶が七つ並んで、八つ目が来て、水があふれて足元が濡れた。誰も怒鳴らなかった。


 子どもが二人、桶を担いで走っていった。担いだまま走るから半分こぼしている。それでも走っていた。


 ニコが余分に汲んで、路地の奥へ持っていった。マーサの家の前に置いて、何も言わずに戻ってきた。


 マーサは戸口に出てきて、桶を見て、それから中に入れた。


 わたしの名は出なかった。


 その日から、大人がわたしを見なくなった。


 挨拶をしなくなったのではない。もともとしていない。目を合わせなくなった。


 水を汲む列のそばを通ると、話が止まる。通り過ぎると、また始まる。


 当たり前だと思った。


 あの女は、人の女房の実家に手紙を出すと言った。妾の存在を、洗濯物から割り出した。集めた銭の数を三日座って数えていた。


 次は自分かもしれない、と誰でも思う。


 わたしは弁解しなかった。


 汚いやり方だと分かっていて、やった。井戸は戻った。この二つは同時に本当のことで、片方だけ本当にする方法を、わたしは持っていない。


 夕方、井戸のそばを通ったとき、女が二人で喋っていた。


 わたしに向けて言ったのではない。隣の女に言っていた。


「あの人は悪徳令嬢だよ」


 一人が言った。


「貴族がそう呼んでるんだろ。この前、妃殿下も言ってたじゃないか」


「そうだね」


「たしかに悪徳だよ」


 女は桶を持ち上げた。


「──でも、井戸は戻った」


 二人は歩いていった。


 わたしは立ち止まっていた。


 同じ言葉を、三度聞いたことになる。


 一度目は大広間で、貴族が腹を抱えて笑いながら投げつけた。二度目は門の前で、エマが煽って、民衆が叫んだ。


 三度目が、これだ。


 水が戻ったことの説明として使われている。


 悪くない呼び名だと思った。


 令嬢のところだけは、いまでも合っていない。爵位はもうないし、姓も剥がされている。それでも、この街はわたしを令嬢と呼ぶ。


 大広間では、呼んでおいて床を這わせるために使われた言葉だった。


 ここでは、水を汲むために使われている。


 粉屋の前を通ると、オズワルドが戸口に立っていた。


 腕まで粉が乾いている。三日ぶん、こちらを見ていた顔だった。


「あんた」


 向こうから声をかけられたのは、はじめてだった。


「次は誰を潰す気だ」


 責めている声ではなかった。測っているのだと分かった。この女が味方か、それとも自分の家にも同じことをするのかを、測っている。


「まだ決めていません」


「決まったら言え」


「言いません」


 オズワルドは少し黙った。


「そうか」


 それから、戸の奥に手を伸ばした。


「明日から、二つ残しとく」


「え」


「パンだ。朝に二つ、取りに来い。──銭はあとでいい」


 わたしは言葉が出なかった。


 あとでいい、というのは、借りにしていいということだ。


 四日前、この人は同じことを言って、わたしが断った。借りができますと言って、質屋へ走った。


「困ります」


「困れよ」


 オズワルドは言った。


「うちのパンなら、他の店のを配られるより腹が立たない。あんたが何をやる女かは、まだ分からん。だが、水は戻った」


 戸が閉まった。


 わたしは、しばらくそこに立っていた。


 明日から、二つ残しとく。


 この街で、明日の話をされたのは、はじめてだった。


 台の上の包みを、裏返してみた。


 輪の中にM。焼き印が押してある。


 押してあるものは、あの店が出したものだ。あとで銭を払えば、それで済む。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ