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第7話:消えた娘

 濡れたパンは、その日のうちに十三個ぜんぶなくなった。


 ニコが井戸のところで食べているのを見て、子どもが二人来て、そのあと洗い場の女が来た。誰も断らなかった。ニコが食べたものは、この街では食えるものらしい。


 配り終えてから、ニコの案内で路地の奥へ入った。


 壁と壁のあいだに板を渡した家だった。戸の代わりに麻布が下がっている。


「グレタだよ」


 ニコが言った。


 中に女がいた。四十くらいで、手が水でふやけて白い。洗い場で働いているらしい。


「リナがいないんだ」


 グレタは座ったまま言った。


「三日前の朝から。十四になる娘だよ」


「役所へは」


「行った。紙が違うって返された」


 わたしは戸口に立ったまま、部屋の中を見た。


 狭い。寝床が二つ。桶と鍋。壁に釘が三本打ってあって、外套が一つ下がっている。


 娘のものがない。


 十四の娘がいなくなった家に、櫛も、靴も、着替えの一枚もない。


 わたしは何も言わなかった。


 グレタは泣いていなかった。泣き終わった顔だった。


「探します」


 わたしはそう言って、外へ出た。


 アリョーナの店へ行った。


「噂を買いたいのですが」


「銭は」


「二十枚まで出せます」


「二十枚ぶん話すよ」


 老婆は帳面を閉じた。


「三日前の夜、水路の船着き場に幌の荷車が来た。荷は積んでない。降ろしてもいない」


「人ですか」


「そうは言ってないよ。──それと、奉公の口を集めてる男がいる。ヤーコプってのが名前だ」


「どこへ納めているのですか」


「都の中だよ。あの男は外へは出さない。外へ出すと、戻せないからね。戻せない品は値が下がる」


 品と言った。老婆は言い直さなかった。


 わたしは銅貨を二十枚置いた。残りは十一枚になった。


「値切らないのですね」


「情報は値切れないよ」


 老婆は銭を数えた。


「嘘か本当か、あとで分かるからね。嘘を売ったら、二度目が売れない」


 紙と羽根を貸してくれと言った。老婆は一枚と一本を出して、帳面に何か書いた。貸したものまで書いている。


 奉公の口をまとめて買う家は、金に困っている家だ。


 去年の秋、領地の水車を手放した家が二つある。片方は北の伯爵家で、家令を三人置いている。人を安く集める必要がない。


 もう一方は、去年うちの舞踏会で借金の話をしていた家だ。夫人が耳飾りを付け替えていて、春につけていたものと違っていた。


 わたしは名鑑を持っていない。屋敷ごと差し押さえられている。


 全部、頭の中にあった。


 五年、わたしはそういうことばかり覚えていた。誰の家が傾いていて、誰が誰に借りていて、誰の妻がいつ石を売ったか。


 それが今日、はじめて役に立った。


 水車を手放した男爵家の勝手口で、紙を渡した。


 中に取り次いでくれと言っても、この服では通らない。だから紙にした。


 書いたのは三行だけだ。去年の秋に手放した水車のこと。今年の春に売った耳飾りのこと。そして、ヤーコプという名前。


 待っているあいだ、奥から女の声が聞こえた。


 誰かに紅茶を持ってこさせている声だった。語尾の上がり方に覚えがあった。


 あの日、大広間の壁ぎわで扇を持っていた女だ。わたしが床を這って真珠を拾ったとき、腹を抱えて笑っていた男の隣にいた。


 この家だ。


 水車を手放して、耳飾りを売って、それでも扇を持って大広間に来て、笑っていた。


 そして買った娘を、三か月ごとに別の家へ貸し出して、賃を取っている。奉公人として貸すのだ。年季の紙は書き換えない。書き換えれば手続きの銭がかかる。


 家令が出てきた。


 五十くらいの、髪を後ろで縛った男だった。紙を持っていた。指が少し震えていた。


「……どちらの、御方でしょうか」


「名は申し上げられません」


 わたしは言った。


「三日前に、この家に入った娘のことで参りました。リナという名です。十四になります」


 家令は紙を見て、それからわたしの服を見て、また紙を見た。


「奉公の契約は、正しく交わしております」


「では、見せてください」


「……お見せする定めがございません」


「では、こちらから申し上げます」


 わたしは言った。


「その契約書には、母親の署名があるはずです」


 家令は答えなかった。


「グレタという女です。字が書けません。役所へ出す紙も、人に書いてもらっています」


 家令の指が止まった。


「あの署名は、本人の手ではありません」


 わたしは続けた。


「偽りの署名で人を置いている家の名は、役所の台帳に載ります。載れば、他家が知ります」


 脅していない。事実を並べただけだ。


 わたしは名を出せない女で、この家を訴える力もない。台帳に載せることもできない。


 だが、この家の人間はそれを知らない。


 そして貴族の家がいちばん怖いのは、名が出ることだ。牢でも斧でもない。他家が知ることだ。


 家令は紙を畳んだ。


「……お待ちください」


 リナは厨房にいた。


 皿を洗っていた。痩せてはいたが、痣もなかった。前掛けを付けていて、髪も結んであった。


 連れ出すとき、家令が事務的に言った。


「あと三か月したら、別の家へ回されるところでした」


 それだけだった。


 その言い方のほうが、殴られていたと聞くより怖かった。


 帰り道は長かった。


 リナはよく歩いた。三日で足が弱るような娘ではなかった。


 水路の橋を渡るところで、リナが言った。


「母さんが、売ったんだよ」


 わたしは知っていた。


 あの家に娘のものが一つも残っていなかった。三日前に消えた娘の櫛が片づけられている家は、消えたのではなく、送り出した家だ。


「知っています」


「知ってて、行ったのか」


「はい」


 リナは黙って歩いた。それから、もう一つ言った。


「あたし、あの人と一緒に、都を出るつもりだったんだ」


 わたしは足を止めなかった。


「あたしと同じ年の、荷運びの見習いでね。親方について南の関まで行くんだ。二人で決めてた。三日前の夜に、船着き場で落ち合うことになってた」


 三日前の夜。幌の荷車が来た夜だ。


「母さん、それを知ったんだよ」


 リナは前を見て歩いていた。


「知って、あたしが出る前に売った」


 それから、足が速くなった。


「待ってたのに」


 橋の途中で立ち止まって、また歩きだした。


「船着き場で、あの人、待ってたのに。あたしが行かなかったから、待ってたのに」


 声が裏返った。


「母さん、知ってたんだよ。全部知ってて、あたしを先に売ったんだ」


 リナは水路を見て歩いていた。


「その二日前に、税吏が来たんだ」


 足が止まりそうになった。


「母さん、払えなかった。鍋を持っていかれそうになって、そしたら次は寝床だって言われて」


 わたしは何も言わなかった。


 母は、娘を売って、娘を都に留めたのだ。


 そして、その銭で税を払った。残りでパンを買った。


 ネルは毛布を取られて、雨に濡れて死んだ。リナは売られた。同じ一枚の布告が、二つの家で二人の娘を壊している。


 妃殿下のお腹のお子を祝うために。


 都を出れば、二度と戻れない。病気になっても、飢えても、死んでも、誰も知らせに来ない。あの女はそれを知っている。だから、売った。


 娘は、都の中に残った。


 わたしにはその理屈が分かった。


 分かることが、痛かった。わたしも都から出られない女だ。出れば弟の首が落ちる。首輪を付けられている人間には、首輪を付ける人間の考え方が分かってしまう。


「あんな家に売るくらいなら」


 リナが言った。


「あたしは、出たかった」


 それで終わりにした。わたしはそれ以上聞かなかった。


 奇跡の庭の門を入る前に、粉屋に寄った。


「パンを、六つ」


 オズワルドは臼から手を離した。


「十八枚だ」


 わたしは銅貨を出した。十一枚しかない。


「足りません。一つ質に入れてきます」


「持っていけ」


 オズワルドは紙にパンを載せて、包んだ。


「あとで持ってくればいい」


「困ります」


「なんで」


「借りができます」


 オズワルドの手が止まった。それから、少し笑ったように見えた。笑ったのかは分からない。


「誰に聞いた、それ」


「ベスさんです」


「あの人はうるさいからな」


 オズワルドは包みを台に置いた。


「じゃあ、十八枚だ。今日でも明日でもいい。──その子か」


 戸の外に立っているリナを見ていた。


「はい」


「そうか」


 それだけだった。


 オズワルドは臼に戻る前に、包みの口を開けた。中から一つ出して、奥の棚から取ったものと替えた。


 替えたほうが大きかった。


 六つで十八枚だ。値は変わらない。


 わたしは数えた。数えても、値は同じだった。


 借りができますと言ったら、あの人の手が止まった。


 止まったのが分かる程度に、わたしはあの手を見ていたのだと思う。


 質屋で真珠を一つ売った。四つになった。


 銅貨で八十五枚。十八枚をオズワルドに払って、残りは弟の払いに取っておく。期限まであと十四日だ。


 グレタの家に入って、まずパンを置いた。


 六つ、麻布の上に並べた。


「食べてください」


 グレタは娘を見て、それから何か言おうとして、口を開けたまま止まった。


 リナは母を見なかった。


 わたしはパンを一つ割って、二人の前に置いた。


「食べてから、話してください」


 母が食べはじめた。二口目で泣いた。それでも食べていた。


 リナはしばらく座っていて、それから手を出した。


 わたしは母を責めなかった。


 なぜ売ったのですか、とも聞かなかった。もう分かっていたし、聞いても言葉が返ってこない。責める言い方を、わたしは持っていない。


 一つだけ言った。


「次は、先に言ってください」


 グレタが顔を上げた。


「売る前に」


 わたしはそう言って、外に出た。


 外に出ると、路地に人が五人ほど立っていた。


 中から声が聞こえてきた。母と娘が怒鳴り合っていた。何を言っているかは聞き取れない。娘の声のほうが大きかった。


 それから静かになった。


 何も聞こえなくなってからも、路地の人間は動かなかった。


「……ありがとうよ」


 一人がそう言った。


 知らない顔だった。肩に桶を担いでいる。井戸から帰る途中で足を止めたらしい。


 わたしは礼を言われたことがある。屋敷の門で麦を配ったときだ。あれは頭を下げながら言うものだった。


 これは違った。真正面から言われた。


「いえ」


 それしか出てこなかった。


 女は桶を下ろして、手を出した。掌に銅貨が二枚あった。


「取っといて」


「……いえ、これは」


「取っといてくれ」


 わたしは受け取った。


 二枚だった。パン一つにも足りない。


 だが受け取るのが正しいのだと、ベスが教えてくれていた。もらえば借りができる。買えば、それで終わる。


 礼は扱えない。代金なら扱える。


 わたしは銅貨を二枚、外套の裾に入れた。真珠と同じところに入れた。


 女は桶を担ぎなおして、それから言った。


「あんた。井戸のことも、なんとかならないかね」


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