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第6話:施しは通じない

 二日後の朝、粉屋の戸を叩いた。


 弟の払いの次の期限まで、あと十四日ある。銅貨は三枚しか残っていない。


 戸が開いて、オズワルドが出てきた。腕まで粉が乾いている。左腕の赤い線は、まだ消えていなかった。


「雇いだと言われましたので、参りました」


 わたしは言った。


「粉挽きは重い仕事だと、妃殿下に申し上げていたでしょう。何をすればよいですか」


 オズワルドは戸枠に手をかけたまま、しばらく黙っていた。


「あれは方便だ」


「はい」


「分かってるなら来るな」


「賃銀は要りません」


「もっと悪い」


 オズワルドは言った。


「うちが貴族をタダで使ってると言われる。この街で、そう言われた家がどうなるか分かるか」


 分からなかった。


 戸の奥から、女が出てきた。息子の腕を見て、それからわたしを見た。


「あんたのせいで、うちの子が打たれたんだ」


 それだけ言って、奥へ戻った。


「母さん」


 オズワルドが背中に言った。届いていなかった。


「……マーサさんです」


 わたしが黙っていると、オズワルドは戸枠から手を離した。


「石を投げた女の名前くらい、覚えとけ」


 戸が閉まった。


 わたしは門の外へ出て、水路沿いを歩いた。


 角に質屋がある。看板の字が、この国の字ではなかった。東のほうの文字らしかった。


 中は狭く、天井から鍋と外套と靴が下がっていた。奥の台に老婆が座っている。小さい人で、座ると台の上に頭が半分しか出ていない。


 額に古い傷があった。骨のかたちが左右で違う。刃物ではなく、重いもので割られた跡だ。


「アリョーナだよ」


 老婆は言った。顔も上げなかった。


「持ってきたものを、そこに置きな」


 わたしは真珠を一つ、台に置いた。


「一つで、いくらになりますか」


 老婆は粒を指で転がした。爪で表面を擦って、灯にかざして、それから台に戻した。


「銅貨で八十」


「八十ですか」


「八十だよ」


「都の宝飾屋なら、この質で一粒三百はします」


「相場かい」


 老婆は台の帳面をめくった。


「どこの相場だい。ここの相場は、あたしだよ」


「アッシュフォードの紋の入った箱で買ったものです」


「箱は持ってきたのかい」


「……ありません」


「じゃあ、ただの粒だ」


「この粒の質は、わたしが分かっています。真珠は上と下の差が大きい。あなたも分かっているはずです」


「分かってるよ」


「では」


「分かってても、八十だ」


「なぜです」


「あんたが売るからだよ」


 老婆は帳面に何か書きこんだ。


「困ってない人間は売らない。売りに来た粒は、それだけで値が落ちる。理屈は食えないんだ」


 わたしは黙った。


 五年、貴族の座の順番と借金の筋を覚えて生きてきた。その全部が、この台の前では一枚の銅貨にもならない。


「……わたしが誰か、ご存じですか」


 言ってしまってから、失敗だと分かった。


「悪徳令嬢だろ」


 老婆は顔を上げた。


「門の前で泥を飲んだと聞いたよ。あんた、あれは損な芝居だね。飲んでも誰も助からない」


「助かりました。飲まなかった人が一人」


「そうかい」


 老婆は少し笑った。歯が三本しかなかった。


「あたしはね、もう一度斧が来ても、たいして困らないんだよ。だから脅しは無駄だ。値も動かない」


 わたしは額の傷を見た。


 老婆は指でそこを叩いた。


「昔、金に困った若造に強盗に入られてねえ」


 それだけだった。話は続かなかった。


「九十」


 わたしは言った。


「八十五」


「……いただきます」


 銅貨を数えて受け取った。言われた値で売ったのは、生まれてはじめてだった。


 帳面が閉まる音がした。


「あんた」


 老婆が言った。


「粒の質は分かってるね。次は先に言いな。そこからなら話が早い」


「はい」


「それと、噂を買いたいならうちが一番安いよ。この街のことは、銭より噂で回ってるんだ」


 わたしは足を止めた。


「覚えておきます」


「覚えるのは無料だ。使うときは銭を持ってきな」


 西通りのパン屋で、黒パンを二十買った。一つ三枚だった。


 銅貨は六十枚使って、残りが二十八枚になった。弟の払いには足りない。もう一つ売ることになる。


 籠を借りて、奇跡の庭の井戸のそばに置いた。


「どうぞ」


 わたしは言った。


「お代は要りません」


 誰も来なかった。


 井戸の列がそのまま動いていた。桶を持った女がこちらを見て、目をそらした。


「毒婦のパンなんか」


 誰かが言った。


「何を取られるんだ」


 別の誰かが言った。


「あんた、この前そこで泥水を飲んでたじゃないか」


 それが一番効いた。


 籠の前に、爺さんが一人立った。杖をついている。パンを覗きこんで、鼻を近づけて、それから隣の女に言った。


「毒が入ってるかもしれん」


「入ってても食うよ、あたしは」


 女が言った。


「じゃあ食え」


「あんたが先に食え」


 二人は少し言い合って、それから二人とも受け取らずに行った。


 わたしは籠のそばに立っていた。


 貴族のころ、屋敷の門で麦を配ったことがある。並んだ人間は頭を下げて、こちらの名を呼んで礼を言った。あれは施しだった。


 同じことをしている。誰も受け取らない。


 どこが違うのか、分からなかった。


 二日前にエマが配った白いパンは、三十全部が持っていかれた。あの娘の名目で毛布を取られた人たちが、頭を下げて受け取っていった。


 その差が、わたしには分からなかった。


 女が一人、籠の前に来た。


 二日前に、パンを半分くれた女だった。門の前で鞭を向けられて、わたしが名乗り出た女だ。


 女はパンを一つ取った。


 それから、銅貨を三枚、籠の縁に置いた。


「お代は要りません」


 わたしは言った。


 女は首を振った。


「もらったら、あんたに借りができる」


 それだけ言って、少し考えて、続けた。


「この街じゃ、借りは怖いんだよ。何を返させられるか分からない。子どもを出せって言われるかもしれない。だから、もらわない」


「買えば、それで終わり。だから買う」


 わたしは銅貨を見た。


 三枚だった。黒パンの値と同じだった。この女は値を知っていて、正しく置いていった。


「ベス」


 女は言った。


「洗い場にいる。名を知らないと、買いにも来られないだろ」


 ベス。


 わたしはその名を覚えた。本人から名乗られた、最初の名前だった。


 水が飛んできたのは、そのすぐあとだった。


 籠に、まっすぐかかった。桶一杯ぶんだった。パンが黒く濡れて、上の三つが崩れた。


 オズワルドが桶を下げて立っていた。


「うちの客が減る」


 静かな声だった。


「タダで配られたら、明日誰もパンを買わない。明後日もだ。三日で潰れる家が、この路地に四軒ある」


 わたしは何も言えなかった。


「それに、それは西通りの粉だ」


 オズワルドは籠を見た。


「うちの前で、他の店のパンをタダで配ったんだ。あんた、おととい、うちが何をしたか覚えてるか」


 覚えている。


 左腕に鞭を受けて、わたしをうちの雇いだと言った。


「施しで人を買う女は、貴族と同じだ」


「……次は、売ります」


 わたしは言った。


「配りません。売ります」


 オズワルドはこちらを見て、それから桶を持ちなおした。


 それから、行きかけて、止まった。


「……次は、うちで買え」


 背中で言った。


「他の店のを配られるより、そっちのほうが腹が立たない」


「なぜ、そこまでしてくださるのですか」


 わたしは言った。


 背中が止まった。


「してねえよ。売るって言ってるだけだ」


「三日前、お母上を止めてくださいました」


 しばらく、臼の音だけがしていた。


「妹が死んだ日、おれは粉を納めに出てた」


 オズワルドは言った。


「帰ったら、鍋も椅子も毛布もなかった。妹は三日寝て、四日目に起きてこなかった」


 わたしは何も言えなかった。


「わたしの家も、取り立てておりました」


「知ってる」


 臼が回っていた。


「東領と、南の水車場だろ。粉屋は水車の名前を覚えてる」


 わたしは俯かなかった。俯く資格がないと思った。


「あんた、あの税を止めると言ったな」


「言いました」


「言ったやつは、あんたが初めてだ」


 オズワルドは袋の口を縛った。


「妹が死んだとき、おれは誰も止めなかった。だから、あんたにやらせる」


「……使うということですか」


「そうだ」


「もう一つ、伺います」


「なんだ」


「雨のしのげる場所を貸してくださる方を、ご存じですか。銭は払います」


「いくら出せる」


「月に十枚まで」


 オズワルドは臼の縁を見た。


「粉置き場の隅が空いてる」


「おいくらです」


「十枚だ」


「安すぎます」


「粉が湿るのを見張れ」


 オズワルドは言った。


「夜、雨が来たら戸を閉めろ。朝、風を入れろ。それで十枚だ」


 仕事をつけて、値をつけた。


 もらったら借りができる。買えば、それで終わる。


 この人は、それを知っている。誰に教わったのかは、聞かなかった。


 戸が閉まった。


 わたしは籠を持って、その場に立っていた。


 この人はわたしを助けていない。使っている。


 それなら、扱える。


 助けられると、こちらは払い方が分からない。使われるなら、値がつく。


 濡れた籠が残った。パンは十九あって、上の三つは崩れていた。


 日が高くなって、表が乾きはじめても、誰も来なかった。


 足音がして、子どもが来た。


 十二くらいの、痩せた子だ。上着の袖が肘までしかない。


 その子は籠を覗いて、崩れていない一つを取って、そのまま食った。


「まずい」


 子どもは言った。


 それから二つ目を取った。


「濡れてるし、まずい」


 三つ目も取った。四つ食べて、五つ目を懐に入れた。


「なぜ、受け取ったの」


 わたしは聞いた。


「腹が減ってる」


 子どもは言った。


 それが答えだった。


 施しでも、取引でもない。腹が減っているから食う。わたしは今まで、それを考えたことがなかった。


「西通りの粉だろ」


 子どもは口の端を拭いた。


「灰が多い。ミラーのとこのは、こんな味しない」


 わたしは籠のパンを一つ取って、裏を見た。


 何もついていない。


 粉屋の台にあるパンには、底に焼き印がある。輪の中にMが一つ。あれが押してあるものだけを、この街は信用する。


 わたしが配ったものには、それがない。


「あなたも分かるの」


「分かるよ。この庭の子はみんな分かる」


 子どもは籠の縁に腰をかけた。


「ニコだ」


「ロザリーです」


「知ってる。あんた、字が読めるんだろ」


 わたしは顔を上げた。


「読めます」


「うちの路地の女が、あんたを探してた」


 ニコは足を振った。


「娘がいなくなったって。十四になる子。三日前からだ。役所に行ったけど、紙が違うって返された。字が読める人間を知らないかって、そこらで聞いてた」


 わたしは籠を見た。


 数えた。十四あった。


「その人は、どこにいますか」


「連れてってやるよ」


 ニコは立ち上がって、それから手を出した。


「話をつないだんだから、パン一個は貸しな」


 わたしは濡れたパンを一つ渡した。


 ニコは受け取って、袖で拭いて、懐に入れた。


「貸しだからな。返してもらうよ」


 この街で、はじめて話がついた。


 次は、うちで買え。


 あの一言を、その夜も数えていた。断られた言葉なら、一度数えて終わる。


 あれは、数え終わらなかった。


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