表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/13

第5話:三十個の白いパン

 翌朝、役所へ行くつもりだった。


 昨日、石を投げた女に聞いた税の名を、書付で確かめる。それだけのことだ。


 門を出る前に、外で鐘が鳴った。


 人が動いた。井戸の列が崩れて、女たちが前へ出ていった。子どもが走った。誰も何も言わないのに、行く先が決まっている動きだった。


 崩れた石の門の外に、白と金の馬車が止まっていた。四頭立てで、前を騎馬が四騎。この路地には入れない大きさだから、門の外に置いている。


 侍女が二人、籠を降ろしていた。白いパンが積んである。


「王太子妃さまだ」


 誰かが言った。


「聖女さまが、施しに来られたんだ」


 馬車の窓が開いた。


 エマがいた。


 髪を上げて、耳に石を下げている。ハンカチは持っていない。よく笑っていた。


「みなさんの暮らしのことは、わたくしも存じております」


 エマは言った。声を張らない。張らなくても、静かだから通る。


「今年の冬は、去年より寒いと聞きました。わたくしにできることを、少しだけ」


 列ができた。


 わたしは門の内側の壁に寄って、それを見ていた。


 エマは馬車から降りなかった。窓から手を出して、通る者に声をかけている。


「まあ、こんなに小さいお子が。──ちゃんと洗ってさしあげてね。病は不潔から入りますのよ」


 母親が頭を下げた。


「お礼はいいのよ。わたくしはただ、見ておきたかったの」


 受け取る手は速かった。頭を下げる背も低かった。


 だが、誰も目を合わせていなかった。


 受け取ってすぐ路地へ戻る者がいた。半分に割って懐へ入れる者がいた。一人だけ何か言いかけて、隣の女に袖を引かれて黙った。


 列の後ろに、石を投げた女がいた。


 目をそらしたが、それでも見えた。籠の前で頭を下げて、パンを二つ受け取って、路地へ戻っていった。誰とも目を合わせなかった。


 誰も責められない。パンは食べ物だ。


 毛布を持っていく名目になったのはこの娘の腹で、その腹を祝うために取られた銭が、いま白いパンになって配られている。それを言える人間は、ここに一人もいない。


 言えば、次に税吏が来るのは自分の家だからだ。


 粉屋の戸は閉まっていた。臼の音もしなかった。


 列がはけて、侍女が籠を片づけはじめた。


 馬車が動くのを待って出よう、と思った。


 その前に、エマの声が変わった。


「──待って」


 窓から身を乗り出していた。


「あの女。そこの、髪をまとめている」


 騎馬の一人が馬を降りた。


 人垣の中から、女が引き出された。


 二十くらいの女だ。髪の色がわたしと近い。背丈も近い。洗い場で会ったことがある。井戸の水を運ぶのを頼んだ女だった。


「あなた」


 エマが言った。


「顔を上げてごらんなさい」


 女は顔を上げた。


 エマの目が細くなった。


「……ずいぶん、いい目をしているのね」


 エマは騎馬の男に手を出した。男が鞭を渡した。


 窓から腕が伸びた。


 わたしは壁から離れた。


「その人ではありません」


 鞭が止まった。


「わたしです」


 わたしは言った。


 エマがこちらを見た。


 それから、目の高さが変わった。髪の布を見て、麻の上下を見て、泥のついた足元を見て、それから顔に戻ってきた。


 息を吸う音がした。


 次に出てきたのは、笑い声だった。


「──まあ」


 こらえていない笑いだった。窓枠を叩いて、体を折って笑っていた。侍女が驚いて主人を見ていた。


「まあ、まあ! ご覧になって、みなさん」


 エマは声を上げた。


「アッシュフォード侯爵家のロザリー様よ。五年、わたくしの上にいらした方。──それが、これですって」


 人が振り返った。まだ二十人ほど残っていた。


「どうなさったの、そのお召し物。麻? 麻をお召しになるの? お髪はどこへ?」


 笑い声が続いた。それから、ふいに止まった。


「みなさん、ご存じ?」


 エマは道の両側に向かって言った。


「この方が、わたくしのお腹の子を殺そうとした方よ。ご自分でお認めになったの。王宮の大広間で、みなさまの前で」


 空気が変わった。


 誰かが、悪徳令嬢、と言った。


 大広間で聞いた言葉だ。あの日に貴族が投げつけた言葉が、六日でこの門の前まで降りてきていた。


 声が増えた。毒婦、と誰かが言った。パンを持った手が、また上がった。


 わたしは動かなかった。走れば追われる。この人数からは逃げきれない。


 鞭が、もう一度上がった。


「顔にはしませんわ。春に人前へお出しになるお首ですから」


 腕が振り下ろされた。


 粉屋の戸が開く音は、その前に聞こえていたのだと思う。


 鞭が肩に当たらなかった。


 わたしの前に背中があった。麻の上着に、粉が乾いて白くなっている。


 オズワルドだった。


 打たれたのは左の腕だった。振り払わなかった。動かなかった。


 それから、頭を下げた。


「妃殿下」


 声は静かだった。


「この女は、うちの雇いです。粉を挽かせております。傷をつけられますと、明日のパンが遅れます」


 誰も何も言わなかった。


 嘘だ。わたしはこの男に一度も雇われていない。昨日、ここにいると危ないから行けと言われただけだ。


 エマは鞭を持ったまま、その背中を見ていた。


「……粉屋」


「はい」


「あなた、この女がどういう女か、ご存じ?」


「妃殿下のお腹のお子を狙った女だと、たったいま伺いました。うちで挽かせておきます。粉挽きは重い仕事です」


 オズワルドは頭を上げなかった。


 人垣のどこかで、息を吐く音がした。笑いをこらえた音に近かった。


 エマの目が、少し動いた。


 鞭を騎馬の男に返した。


「そうね。働かせておいて」


 それから、エマはさっき引き出された女を見た。


「──では、そちらの方に」


 女の肩が跳ねた。


 エマが侍女に何か言った。侍女が水の桶を持って、馬車から降りた。


 水が地面に落ちた。轍の窪みに溜まって、土と一緒に濁った。


「ロザリー様が庇ってくださった方ですもの。ロザリー様の代わりに、お飲みになって」


 人が笑った。


 女は動かなかった。動けなかったのだと思う。


「わたしが飲みます」


 わたしは言った。


 エマがこちらを見た。


「あなたが?」


「わたしが飲みます」


 エマの口が、ゆっくり開いた。


「……まあ」


 笑いが戻った。さっきより嬉しそうな笑いだった。


「そのほうが、よろしいわね」


 オズワルドが顔を上げた。


「妃殿下。井戸の水なら──」


「粉屋。あなたには聞いていないわ」


 わたしは膝をついた。


 オズワルドが振り返った。何か言おうとして、言えなかった。


 土が熱かった。夏の終わりの日に焼かれた土だ。


 顔を下げて、その水を飲んだ。


 土の味がした。埃と、蹄の匂いと、鉄の味がした。二口飲んで、口の中に砂が残った。


 歓声が上がった。どこかで手を叩く音がした。


 人の後ろに、あの女が立っていた。パンを二つ持ったままだった。笑っていなかった。息子の背中を見ていた。


 わたしは膝をついたまま、馬車の窓を見た。


「妃殿下」


 わたしは言った。


「この庭には、三千人ほど住むと聞いております」


 エマの笑みが止まった。


「門は二つです。表と、水路の側。妃殿下がお連れなのは、騎馬が四騎と侍女が二人」


「……何の話?」


「パンは三十でした」


 わたしは言った。


「足りない者が、いま二千九百七十人おります」


 誰も何も言わなかった。


 パンを受け取れなかった手が、いくつも下がったままになっていた。さっき毒婦と叫んだ声も、そのままだった。


 エマが窓の中で、少し後ろへ下がった。


 侍女が主人の顔を見て、それから騎馬の男を見た。男は馬の向きを変えはじめていた。


「──もう、よろしいわ」


 エマが言った。声が、さっきより小さかった。


「弟君には、お姉様は今日もお元気でしたと伝えておきます」


 窓が閉まった。


 馬車が動いた。騎馬が四騎ついていった。来たときより速かった。


 人が散った。誰かがパンの屑を踏んだ。


 わたしは口の中の砂を、袖に吐いた。


 立ち上がろうとして、うまく立てなかった。焼けた土に膝の皮が張りついていた。


 目の前に桶が置かれた。


 井戸の水だった。


「すすげよ」


 オズワルドが言った。手は貸さなかった。


「立てるか。そこで寝てると踏まれる」


 わたしは桶の水で口をすすいだ。歯のあいだの砂が落ちた。


「腕を、ありがとうございました」


「客が減る」


 オズワルドは腕をまくって、打たれたところを見た。赤い線が一本、粉の上に走っていた。


「あんた」


 オズワルドは腕を見たまま言った。


「数えてたのか」


「はい」


「何を」


「パンを」


 わたしは言った。


「三十でした。籠に十五ずつ入っていました」


 オズワルドは何も言わなかった。それから、袖を下ろした。


「うちの粉で焼いたパンを、王太子妃があんたの前で配ったんだ。うちが受け取ってるみたいに見える」


 そういうことにしておく、と言われているのだと分かった。


「なあ」


 オズワルドはこちらを見た。


「なんであの女を庇った」


 わたしは答えなかった。


「二度だ。鞭のときも、水のときも。あんた、あの女と何の関係がある」


「ありません」


「じゃあ、なんでだ」


 わたしは答えられなかった。


 答えを持っていなかった。


「……分かりません」


 わたしは言った。


「ただ、あの娘の遊びで人が膝をつくのを、二度は見たくありませんでした」


 言うつもりの言葉が一つも出てこなかったのは、あの日、牢に立った台所番の女に何も言わなかったときと同じだった。


「……失礼します」


 オズワルドは何も言わなかった。桶を置いたまま、粉屋に戻っていった。


 桶は、そこに置いたままだった。持って帰らなかった。


 あとで取りに来るつもりなら、そうする。取りに来ないつもりなら、置いていかない。


 どちらなのかを、わたしはその夜、考えていた。


 戸口にあの女が立っていた。息子が入るのに場所を空けて、それからわたしを一度だけ見て、戸を閉めた。


 少し歩くと、前に人が立った。


 さっき引き出された女だった。


 女は何も言わなかった。


 パンを二つに割って、片方をわたしの前に差し出した。


 わたしは受け取った。


 女は歩いていった。


 白いパンだった。四日ぶりに、砂の味以外のものを噛んだ。


 この税を止める。


 そう決めた。


 殿下のためではない。エマのためでもない。あの二人がどう幸せになろうと、わたしの首はどうせ春に落ちる。


 だが、次の冬が来る。ネルと同じ年ごろの娘が、また朝に起きてこない。一度起きたことは、また起きる。


 そして、うちも取っていた。東領と南の水車場は、アッシュフォードのものだった。


 殿下にも王妃様にも、わたしはもう近づけない。残っているのは、この街だけだ。


 だがわたしは、昨日この門の前で石を投げられた女で、たったいま泥水を飲んだ女だ。


 まず、信用されなければならない。


 パンの最後を噛んで、それから足が止まった。


 エマの仕草を思い出した。窓から手を出して、腹を撫でていた。下から見せるように、ゆっくりと。


 あの娘の懐妊が触れ回られたのは、七月の末だった。屋敷にもその布令が来た。わたしは受け取って、日付を書き写して、綴じた。


 殿下が北の国境から都に戻ったのは、五月の末だ。


 婚儀は七月の三日だ。


 世間から見れば、婚儀の夜に授かった妃だ。


 大広間で産婆が言った。あと少しで流れておりました、と。四月目の腹だ。


 四月目なら、始まったのは六月のはじめになる。


 殿下より、ひと月早い。


 ただ、それだけでは何にもならない。婚約のあいだに手が早かったのだと言われれば、そこで終わる。


 わたしは数えただけだ。数えただけのものは、紙にならない。


 手が冷たくなった。


 殿下は数えない人だった。誕生日も、約束の刻も、わたしが覚えていた。あの人は覚える必要がなかった。


 あの腹の子は、殿下の子ではない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ