第5話:三十個の白いパン
翌朝、役所へ行くつもりだった。
昨日、石を投げた女に聞いた税の名を、書付で確かめる。それだけのことだ。
門を出る前に、外で鐘が鳴った。
人が動いた。井戸の列が崩れて、女たちが前へ出ていった。子どもが走った。誰も何も言わないのに、行く先が決まっている動きだった。
崩れた石の門の外に、白と金の馬車が止まっていた。四頭立てで、前を騎馬が四騎。この路地には入れない大きさだから、門の外に置いている。
侍女が二人、籠を降ろしていた。白いパンが積んである。
「王太子妃さまだ」
誰かが言った。
「聖女さまが、施しに来られたんだ」
馬車の窓が開いた。
エマがいた。
髪を上げて、耳に石を下げている。ハンカチは持っていない。よく笑っていた。
「みなさんの暮らしのことは、わたくしも存じております」
エマは言った。声を張らない。張らなくても、静かだから通る。
「今年の冬は、去年より寒いと聞きました。わたくしにできることを、少しだけ」
列ができた。
わたしは門の内側の壁に寄って、それを見ていた。
エマは馬車から降りなかった。窓から手を出して、通る者に声をかけている。
「まあ、こんなに小さいお子が。──ちゃんと洗ってさしあげてね。病は不潔から入りますのよ」
母親が頭を下げた。
「お礼はいいのよ。わたくしはただ、見ておきたかったの」
受け取る手は速かった。頭を下げる背も低かった。
だが、誰も目を合わせていなかった。
受け取ってすぐ路地へ戻る者がいた。半分に割って懐へ入れる者がいた。一人だけ何か言いかけて、隣の女に袖を引かれて黙った。
列の後ろに、石を投げた女がいた。
目をそらしたが、それでも見えた。籠の前で頭を下げて、パンを二つ受け取って、路地へ戻っていった。誰とも目を合わせなかった。
誰も責められない。パンは食べ物だ。
毛布を持っていく名目になったのはこの娘の腹で、その腹を祝うために取られた銭が、いま白いパンになって配られている。それを言える人間は、ここに一人もいない。
言えば、次に税吏が来るのは自分の家だからだ。
粉屋の戸は閉まっていた。臼の音もしなかった。
列がはけて、侍女が籠を片づけはじめた。
馬車が動くのを待って出よう、と思った。
その前に、エマの声が変わった。
「──待って」
窓から身を乗り出していた。
「あの女。そこの、髪をまとめている」
騎馬の一人が馬を降りた。
人垣の中から、女が引き出された。
二十くらいの女だ。髪の色がわたしと近い。背丈も近い。洗い場で会ったことがある。井戸の水を運ぶのを頼んだ女だった。
「あなた」
エマが言った。
「顔を上げてごらんなさい」
女は顔を上げた。
エマの目が細くなった。
「……ずいぶん、いい目をしているのね」
エマは騎馬の男に手を出した。男が鞭を渡した。
窓から腕が伸びた。
わたしは壁から離れた。
「その人ではありません」
鞭が止まった。
「わたしです」
わたしは言った。
エマがこちらを見た。
それから、目の高さが変わった。髪の布を見て、麻の上下を見て、泥のついた足元を見て、それから顔に戻ってきた。
息を吸う音がした。
次に出てきたのは、笑い声だった。
「──まあ」
こらえていない笑いだった。窓枠を叩いて、体を折って笑っていた。侍女が驚いて主人を見ていた。
「まあ、まあ! ご覧になって、みなさん」
エマは声を上げた。
「アッシュフォード侯爵家のロザリー様よ。五年、わたくしの上にいらした方。──それが、これですって」
人が振り返った。まだ二十人ほど残っていた。
「どうなさったの、そのお召し物。麻? 麻をお召しになるの? お髪はどこへ?」
笑い声が続いた。それから、ふいに止まった。
「みなさん、ご存じ?」
エマは道の両側に向かって言った。
「この方が、わたくしのお腹の子を殺そうとした方よ。ご自分でお認めになったの。王宮の大広間で、みなさまの前で」
空気が変わった。
誰かが、悪徳令嬢、と言った。
大広間で聞いた言葉だ。あの日に貴族が投げつけた言葉が、六日でこの門の前まで降りてきていた。
声が増えた。毒婦、と誰かが言った。パンを持った手が、また上がった。
わたしは動かなかった。走れば追われる。この人数からは逃げきれない。
鞭が、もう一度上がった。
「顔にはしませんわ。春に人前へお出しになるお首ですから」
腕が振り下ろされた。
粉屋の戸が開く音は、その前に聞こえていたのだと思う。
鞭が肩に当たらなかった。
わたしの前に背中があった。麻の上着に、粉が乾いて白くなっている。
オズワルドだった。
打たれたのは左の腕だった。振り払わなかった。動かなかった。
それから、頭を下げた。
「妃殿下」
声は静かだった。
「この女は、うちの雇いです。粉を挽かせております。傷をつけられますと、明日のパンが遅れます」
誰も何も言わなかった。
嘘だ。わたしはこの男に一度も雇われていない。昨日、ここにいると危ないから行けと言われただけだ。
エマは鞭を持ったまま、その背中を見ていた。
「……粉屋」
「はい」
「あなた、この女がどういう女か、ご存じ?」
「妃殿下のお腹のお子を狙った女だと、たったいま伺いました。うちで挽かせておきます。粉挽きは重い仕事です」
オズワルドは頭を上げなかった。
人垣のどこかで、息を吐く音がした。笑いをこらえた音に近かった。
エマの目が、少し動いた。
鞭を騎馬の男に返した。
「そうね。働かせておいて」
それから、エマはさっき引き出された女を見た。
「──では、そちらの方に」
女の肩が跳ねた。
エマが侍女に何か言った。侍女が水の桶を持って、馬車から降りた。
水が地面に落ちた。轍の窪みに溜まって、土と一緒に濁った。
「ロザリー様が庇ってくださった方ですもの。ロザリー様の代わりに、お飲みになって」
人が笑った。
女は動かなかった。動けなかったのだと思う。
「わたしが飲みます」
わたしは言った。
エマがこちらを見た。
「あなたが?」
「わたしが飲みます」
エマの口が、ゆっくり開いた。
「……まあ」
笑いが戻った。さっきより嬉しそうな笑いだった。
「そのほうが、よろしいわね」
オズワルドが顔を上げた。
「妃殿下。井戸の水なら──」
「粉屋。あなたには聞いていないわ」
わたしは膝をついた。
オズワルドが振り返った。何か言おうとして、言えなかった。
土が熱かった。夏の終わりの日に焼かれた土だ。
顔を下げて、その水を飲んだ。
土の味がした。埃と、蹄の匂いと、鉄の味がした。二口飲んで、口の中に砂が残った。
歓声が上がった。どこかで手を叩く音がした。
人の後ろに、あの女が立っていた。パンを二つ持ったままだった。笑っていなかった。息子の背中を見ていた。
わたしは膝をついたまま、馬車の窓を見た。
「妃殿下」
わたしは言った。
「この庭には、三千人ほど住むと聞いております」
エマの笑みが止まった。
「門は二つです。表と、水路の側。妃殿下がお連れなのは、騎馬が四騎と侍女が二人」
「……何の話?」
「パンは三十でした」
わたしは言った。
「足りない者が、いま二千九百七十人おります」
誰も何も言わなかった。
パンを受け取れなかった手が、いくつも下がったままになっていた。さっき毒婦と叫んだ声も、そのままだった。
エマが窓の中で、少し後ろへ下がった。
侍女が主人の顔を見て、それから騎馬の男を見た。男は馬の向きを変えはじめていた。
「──もう、よろしいわ」
エマが言った。声が、さっきより小さかった。
「弟君には、お姉様は今日もお元気でしたと伝えておきます」
窓が閉まった。
馬車が動いた。騎馬が四騎ついていった。来たときより速かった。
人が散った。誰かがパンの屑を踏んだ。
わたしは口の中の砂を、袖に吐いた。
立ち上がろうとして、うまく立てなかった。焼けた土に膝の皮が張りついていた。
目の前に桶が置かれた。
井戸の水だった。
「すすげよ」
オズワルドが言った。手は貸さなかった。
「立てるか。そこで寝てると踏まれる」
わたしは桶の水で口をすすいだ。歯のあいだの砂が落ちた。
「腕を、ありがとうございました」
「客が減る」
オズワルドは腕をまくって、打たれたところを見た。赤い線が一本、粉の上に走っていた。
「あんた」
オズワルドは腕を見たまま言った。
「数えてたのか」
「はい」
「何を」
「パンを」
わたしは言った。
「三十でした。籠に十五ずつ入っていました」
オズワルドは何も言わなかった。それから、袖を下ろした。
「うちの粉で焼いたパンを、王太子妃があんたの前で配ったんだ。うちが受け取ってるみたいに見える」
そういうことにしておく、と言われているのだと分かった。
「なあ」
オズワルドはこちらを見た。
「なんであの女を庇った」
わたしは答えなかった。
「二度だ。鞭のときも、水のときも。あんた、あの女と何の関係がある」
「ありません」
「じゃあ、なんでだ」
わたしは答えられなかった。
答えを持っていなかった。
「……分かりません」
わたしは言った。
「ただ、あの娘の遊びで人が膝をつくのを、二度は見たくありませんでした」
言うつもりの言葉が一つも出てこなかったのは、あの日、牢に立った台所番の女に何も言わなかったときと同じだった。
「……失礼します」
オズワルドは何も言わなかった。桶を置いたまま、粉屋に戻っていった。
桶は、そこに置いたままだった。持って帰らなかった。
あとで取りに来るつもりなら、そうする。取りに来ないつもりなら、置いていかない。
どちらなのかを、わたしはその夜、考えていた。
戸口にあの女が立っていた。息子が入るのに場所を空けて、それからわたしを一度だけ見て、戸を閉めた。
少し歩くと、前に人が立った。
さっき引き出された女だった。
女は何も言わなかった。
パンを二つに割って、片方をわたしの前に差し出した。
わたしは受け取った。
女は歩いていった。
白いパンだった。四日ぶりに、砂の味以外のものを噛んだ。
この税を止める。
そう決めた。
殿下のためではない。エマのためでもない。あの二人がどう幸せになろうと、わたしの首はどうせ春に落ちる。
だが、次の冬が来る。ネルと同じ年ごろの娘が、また朝に起きてこない。一度起きたことは、また起きる。
そして、うちも取っていた。東領と南の水車場は、アッシュフォードのものだった。
殿下にも王妃様にも、わたしはもう近づけない。残っているのは、この街だけだ。
だがわたしは、昨日この門の前で石を投げられた女で、たったいま泥水を飲んだ女だ。
まず、信用されなければならない。
パンの最後を噛んで、それから足が止まった。
エマの仕草を思い出した。窓から手を出して、腹を撫でていた。下から見せるように、ゆっくりと。
あの娘の懐妊が触れ回られたのは、七月の末だった。屋敷にもその布令が来た。わたしは受け取って、日付を書き写して、綴じた。
殿下が北の国境から都に戻ったのは、五月の末だ。
婚儀は七月の三日だ。
世間から見れば、婚儀の夜に授かった妃だ。
大広間で産婆が言った。あと少しで流れておりました、と。四月目の腹だ。
四月目なら、始まったのは六月のはじめになる。
殿下より、ひと月早い。
ただ、それだけでは何にもならない。婚約のあいだに手が早かったのだと言われれば、そこで終わる。
わたしは数えただけだ。数えただけのものは、紙にならない。
手が冷たくなった。
殿下は数えない人だった。誕生日も、約束の刻も、わたしが覚えていた。あの人は覚える必要がなかった。
あの腹の子は、殿下の子ではない。




