表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/10

第4話:奇跡の庭

 四日目の昼だった。


 北の水路の先まで来ると、匂いが変わった。水が動いていない匂いだ。


 この四日で覚えたことがある。


 宿は名を書かせる。三軒とも断られた。それから、いい服を着ていると狙われる。二日目の夜に路地で袖を掴まれて、走って逃げた。追ってこなかったのは、走れる相手だと分かったからだと思う。


 だから服を替えた。


 ドレスを売って、麻の上下と古い外套を買った。差額が残った。真珠を一つ売った金と合わせて、それが今の全部だ。質屋の店主は粒を掌で転がして、思っていた値の半分も言わなかった。名を聞かれなかったのが、そこだけありがたかった。


 残りの六つは、外套の裾の縫い目に縫い込んだ。針を持ったのは生まれてはじめてだった。三度指を刺した。


 髪は布で包んだ。


 弟の払いは、一度済ませた。宮の外にある役所の窓口で、銅貨を数えて置いて、受け取りの紙をもらった。紙には弟の名と、日付と、次の期限が書いてあった。会わせてはもらえなかった。


 次の期限まで、十七日ある。


 路地の入り口に、崩れた石の門が立っていた。


 この一帯は奇跡の庭と呼ばれている。昼は足の立たない物乞いも、夜には自分の足で帰る。だから奇跡なんだと、誰かが笑って言ったそうだ。


 門を抜けると、若い男が二人、後ろについた。


 わたしは井戸の列に並んだ。


 順番があるらしい。後ろの男が前の男の肩を押して、押された男が振り返って怒鳴った。人のいるところにいれば、手は出されない。二人は少し離れて立って、それから離れていった。


 列に並んでいるあいだに、街を見た。


 路地の上に紐が渡してある。洗濯物が下がっていた。日が当たらない。乾いていないものが何日ぶんも下がったままになっている。


 子どもが三人、樽を転がして遊んでいた。一人が笑っていた。声を上げて笑っていた。


 粉屋があった。開いた戸の奥で、男が臼を回している。粉の匂いがした。この街で、いい匂いのする場所はそこだけだった。


 その隣にパン売りの台が出ていた。


 黒パンが積んである。値が書いていない。


 わたしは列を離れて、台の前に立った。


「そちらのパンは、おいくらかしら」


 パン売りの手が止まった。


 台のそばにいた女が二人、こちらを見た。井戸の列の何人かも振り返った。


 服は替えられる。口のきき方は替えられなかった。


 粉屋の戸口から、女が出てきた。


 五十を過ぎている。手が粉で白い。その人はわたしの前まで来て、わたしの手を見た。


 水仕事をしたことのない手だった。


「あんた、貴族だね」


 答える前に、女は足元の石を拾った。


 当たった。左の額の上だった。音が先に聞こえて、痛みが遅れて来た。指で触ると、指に赤いものがついた。


「あんたら貴族が、うちの娘を殺したんだ」


 女はもう一つ石を拾った。今度は投げなかった。持ったまま喋った。


「先月だよ。税吏が来た。銭がないって言ったら、家の中のものを持っていった。鍋も、椅子も、毛布まで持っていった」


 人が集まってきた。誰も止めない。誰も続いて投げない。


「あの晩、雨がひどくてね。屋根が漏るんだ。毛布がないから、濡れたまま寝るしかなかった」


 女は石を持ちなおした。


「三日目に息が浅くなって、四日目の朝に起きてこなかった。十六だよ」


 声は震えていなかった。何度も言った話なのだと分かった。


「ネルだ」


 女は言った。


「覚えとけ。あんたらは、どうせ名前を知らないままだろ」


 女は石を持ったまま、続けた。


「あの子は、春に一緒になる話をしてたんだよ」


「……一緒に」


「鍛冶の下働きの、痩せた子でね。その子が拾ってきた櫛を、うちの娘は死ぬまで髪に挿してた。安物だよ。木の櫛だ」


 女は路地の奥を顎で示した。石を握った手から、粉が落ちた。


「その子は今も、毎朝ここを通る。何も言わずに通っていく」


 わたしは黙って聞いていた。


 好きな子がいた。その言葉を覚えた。意味は、そのときは分からなかった。


「うちの人は水車に腕を挟まれてね。それから長くは生きなかった。あたしはもう、二人送ったんだ」


 女は石を握りなおした。


「三人目は送らないよ」


「その税は、何という名です」


 わたしは女に聞いた。


 女がわたしを見た。石を持つ手が、少し下がった。


「……知らないのかい」


「知りません」


「懐妊税だよ」


 女は言った。


「王太子妃さまがご懐妊だ。めでたいから、みんなで出せってさ」


 わたしは何も言えなかった。


 四日前、窓のない部屋で読み上げられた言葉があった。東領および南の水車場、これに付随する徴収の権。


 アッシュフォードは徴税権を持っていた。


 この税を、うちも取っていたかもしれない。取っていなかったかもしれない。


 わたしは知らない。調べたこともない。


 その五日前、わたしは大広間で潔白を言い立てた。馬車が出ていないこと。瓶の底に番号があること。屋敷のことなら何ひとつ忘れていなかった。


 忘れていなかったのではない。


 覚えるものを、わたしが選んでいたのだ。


 この街の名前も、パンの値段も、うちの領地から何を取り立てていたかも、わたしは覚えていない。


 あんたら貴族が、と女は言った。


 正確だった。


「調べます」


 わたしは言った。


「その税のことも、わたしの家が何を取っていたかも、調べます」


 女は答えなかった。石を握りなおしただけだった。


 粉屋の戸口から、男が出てきた。


 背が高い。腕が粉で白かった。前腕が太い。臼を回していた男だ。


 男は女の腕を取って、石を持った手を下ろさせた。


「母さん。もう終わりだ」


「オズ。この女は」


「分かってる」


「分かってないよ。オズワルド、おまえは店に入ってな」


 男はわたしを見た。目つきは悪くない。ただ、ひどく疲れた目だった。


 左の手首に、古い傷があった。粉が入って、白く浮いて見えた。


「行けよ」


 男は言った。


「ここにいると、また誰か石を持つ。今度は当たるところが悪い」


 助けたのではない。母親を騒ぎに巻き込みたくないだけだ。声で分かった。


 女は石を放って、背を向けた。三歩ほど歩いて、止まった。


 振り返らずに言った。


「……あんた、今夜どこで寝るんだい」


 わたしは答えなかった。


 答えを持っていなかった。


 男が母親の背中を見た。何か言いかけて、言わなかった。


 二人は粉屋に入っていった。戸が閉まって、臼の音が戻った。


 額の血を、袖の裏で拭いた。


 布に赤いものが残った。


 粉屋の男は、左の手首に古い傷を持っていた。粉が入ると、白く浮いて見える。


 この街で覚えた顔は、それが一つ目だった。


 懐妊税。


 その名前を、わたしは今日はじめて聞いた。


 この染みが落ちるまでに、その税の書付を見つける。


 明日、役所へ行く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ