第4話:奇跡の庭
四日目の昼だった。
北の水路の先まで来ると、匂いが変わった。水が動いていない匂いだ。
この四日で覚えたことがある。
宿は名を書かせる。三軒とも断られた。それから、いい服を着ていると狙われる。二日目の夜に路地で袖を掴まれて、走って逃げた。追ってこなかったのは、走れる相手だと分かったからだと思う。
だから服を替えた。
ドレスを売って、麻の上下と古い外套を買った。差額が残った。真珠を一つ売った金と合わせて、それが今の全部だ。質屋の店主は粒を掌で転がして、思っていた値の半分も言わなかった。名を聞かれなかったのが、そこだけありがたかった。
残りの六つは、外套の裾の縫い目に縫い込んだ。針を持ったのは生まれてはじめてだった。三度指を刺した。
髪は布で包んだ。
弟の払いは、一度済ませた。宮の外にある役所の窓口で、銅貨を数えて置いて、受け取りの紙をもらった。紙には弟の名と、日付と、次の期限が書いてあった。会わせてはもらえなかった。
次の期限まで、十七日ある。
路地の入り口に、崩れた石の門が立っていた。
この一帯は奇跡の庭と呼ばれている。昼は足の立たない物乞いも、夜には自分の足で帰る。だから奇跡なんだと、誰かが笑って言ったそうだ。
門を抜けると、若い男が二人、後ろについた。
わたしは井戸の列に並んだ。
順番があるらしい。後ろの男が前の男の肩を押して、押された男が振り返って怒鳴った。人のいるところにいれば、手は出されない。二人は少し離れて立って、それから離れていった。
列に並んでいるあいだに、街を見た。
路地の上に紐が渡してある。洗濯物が下がっていた。日が当たらない。乾いていないものが何日ぶんも下がったままになっている。
子どもが三人、樽を転がして遊んでいた。一人が笑っていた。声を上げて笑っていた。
粉屋があった。開いた戸の奥で、男が臼を回している。粉の匂いがした。この街で、いい匂いのする場所はそこだけだった。
その隣にパン売りの台が出ていた。
黒パンが積んである。値が書いていない。
わたしは列を離れて、台の前に立った。
「そちらのパンは、おいくらかしら」
パン売りの手が止まった。
台のそばにいた女が二人、こちらを見た。井戸の列の何人かも振り返った。
服は替えられる。口のきき方は替えられなかった。
粉屋の戸口から、女が出てきた。
五十を過ぎている。手が粉で白い。その人はわたしの前まで来て、わたしの手を見た。
水仕事をしたことのない手だった。
「あんた、貴族だね」
答える前に、女は足元の石を拾った。
当たった。左の額の上だった。音が先に聞こえて、痛みが遅れて来た。指で触ると、指に赤いものがついた。
「あんたら貴族が、うちの娘を殺したんだ」
女はもう一つ石を拾った。今度は投げなかった。持ったまま喋った。
「先月だよ。税吏が来た。銭がないって言ったら、家の中のものを持っていった。鍋も、椅子も、毛布まで持っていった」
人が集まってきた。誰も止めない。誰も続いて投げない。
「あの晩、雨がひどくてね。屋根が漏るんだ。毛布がないから、濡れたまま寝るしかなかった」
女は石を持ちなおした。
「三日目に息が浅くなって、四日目の朝に起きてこなかった。十六だよ」
声は震えていなかった。何度も言った話なのだと分かった。
「ネルだ」
女は言った。
「覚えとけ。あんたらは、どうせ名前を知らないままだろ」
女は石を持ったまま、続けた。
「あの子は、春に一緒になる話をしてたんだよ」
「……一緒に」
「鍛冶の下働きの、痩せた子でね。その子が拾ってきた櫛を、うちの娘は死ぬまで髪に挿してた。安物だよ。木の櫛だ」
女は路地の奥を顎で示した。石を握った手から、粉が落ちた。
「その子は今も、毎朝ここを通る。何も言わずに通っていく」
わたしは黙って聞いていた。
好きな子がいた。その言葉を覚えた。意味は、そのときは分からなかった。
「うちの人は水車に腕を挟まれてね。それから長くは生きなかった。あたしはもう、二人送ったんだ」
女は石を握りなおした。
「三人目は送らないよ」
「その税は、何という名です」
わたしは女に聞いた。
女がわたしを見た。石を持つ手が、少し下がった。
「……知らないのかい」
「知りません」
「懐妊税だよ」
女は言った。
「王太子妃さまがご懐妊だ。めでたいから、みんなで出せってさ」
わたしは何も言えなかった。
四日前、窓のない部屋で読み上げられた言葉があった。東領および南の水車場、これに付随する徴収の権。
アッシュフォードは徴税権を持っていた。
この税を、うちも取っていたかもしれない。取っていなかったかもしれない。
わたしは知らない。調べたこともない。
その五日前、わたしは大広間で潔白を言い立てた。馬車が出ていないこと。瓶の底に番号があること。屋敷のことなら何ひとつ忘れていなかった。
忘れていなかったのではない。
覚えるものを、わたしが選んでいたのだ。
この街の名前も、パンの値段も、うちの領地から何を取り立てていたかも、わたしは覚えていない。
あんたら貴族が、と女は言った。
正確だった。
「調べます」
わたしは言った。
「その税のことも、わたしの家が何を取っていたかも、調べます」
女は答えなかった。石を握りなおしただけだった。
粉屋の戸口から、男が出てきた。
背が高い。腕が粉で白かった。前腕が太い。臼を回していた男だ。
男は女の腕を取って、石を持った手を下ろさせた。
「母さん。もう終わりだ」
「オズ。この女は」
「分かってる」
「分かってないよ。オズワルド、おまえは店に入ってな」
男はわたしを見た。目つきは悪くない。ただ、ひどく疲れた目だった。
左の手首に、古い傷があった。粉が入って、白く浮いて見えた。
「行けよ」
男は言った。
「ここにいると、また誰か石を持つ。今度は当たるところが悪い」
助けたのではない。母親を騒ぎに巻き込みたくないだけだ。声で分かった。
女は石を放って、背を向けた。三歩ほど歩いて、止まった。
振り返らずに言った。
「……あんた、今夜どこで寝るんだい」
わたしは答えなかった。
答えを持っていなかった。
男が母親の背中を見た。何か言いかけて、言わなかった。
二人は粉屋に入っていった。戸が閉まって、臼の音が戻った。
額の血を、袖の裏で拭いた。
布に赤いものが残った。
粉屋の男は、左の手首に古い傷を持っていた。粉が入ると、白く浮いて見える。
この街で覚えた顔は、それが一つ目だった。
懐妊税。
その名前を、わたしは今日はじめて聞いた。
この染みが落ちるまでに、その税の書付を見つける。
明日、役所へ行く。




