第3話:捨てられた名
翌朝。王宮の、窓のない小さな部屋だった。
机が一つ置いてある。向かいに記録官が座っていた。宮内の書記だという。名は聞かなかった。
この人は、わたしが部屋に入ってから一度も顔を上げていない。
昨日の大広間には数十人がいて、みな笑っていた。今日はこの人だけだ。そのほうがずっと冷たかった。
「アッシュフォード侯爵家の爵位を、返上とする」
記録官が書付を読み上げた。
「東領および南の水車場、これに付随する徴収の権を、返上とする」
声に抑揚がない。帳簿の数を読み上げるのと同じ調子だった。
「屋敷、家財、書物、馬。これを差し押さえる」
惜しくなかった。
屋敷は父が死んでから広すぎた。馬も書物も、なくても生きていける。
「──以後、アッシュフォードの姓を名乗ってはならない」
指が、止まった。
膝の上で組んだ手が、動かなくなった。
爵位はいい。領地もいい。屋敷も馬も書物も、全部いい。
名前は、父と母が残したものだ。
テオに教えたのも、その名前だった。
「執行について申し伝えます」
記録官は次の紙をめくった。
「王太子殿下ご夫妻のご大礼の翌朝、夜明けとする」
わたしは顔を上げた。
「大礼」
「ご婚儀は七月に済んでおられます。国中の前に立たれる儀は、春に行うものと定めがございます」
息を止めた。
「……延ばすのですか」
「祝いを血で汚すべきではない、との仰せです」
恩赦のような読み方だった。
「それまで、弟君は宮の一室に留め置きます」
組んだ指が、動いた。
「……牢ではないのですか」
「侯爵家の子を牢に入れれば、他家が騒ぎます。大礼の前ですので」
紙をめくる音がした。
「あなたは都を出てはなりません。都の外に出たことが分かれば、弟君の首が先に落ちます」
「……わたしは、どこに置かれるのですか」
「どこにも」
記録官は書付をそろえた。
「牢に置くには費えがかかります。留め置きの入り用は家の払いですが、あなたの家はもうありません」
「では」
「お好きなところに。都の内であれば」
紙が一枚、机を滑ってきた。
「払いの日には、この窓口へお越しください。顔を見せていただければ、都におられると分かります」
払いが、見張りだった。
なるほど、と思った。
放してもらえるのではない。繋がれるのだ。
牢で死ぬのでは足りないのだ。落ちるだけ落として、それから殺す。
あの娘が書かせたのだと思った。王妃様なら費えで書く。殿下は何も書かない。
「弟に、届け物はできますか」
記録官の手が止まった。この人が今日はじめて、わたしの言葉を聞いた。
「差し入れは禁じられておりません」
紙に何かを書き足しながら言った。
「ただし、費えはご自身で。食事、薪、薬。留め置きのあいだの入り用は、すべて家の払いです」
「家はもう、ありません」
「ですから、ご自身で」
記録官は書付をそろえた。
「払いが途切れれば、罪人としての扱いに移します。それが定めです」
「では、払います」
わたしは言った。
「春まで、あの子を罪人にはさせません」
記録官は書付をそろえる手を止めなかった。
「面会は」
「その定めはありません」
「あの子が生きているかどうかは、どうすれば分かりますか」
「……その定めもありません」
それ以上は聞かなかった。
「大礼は、いつです」
「来年の春です」
王家の大礼は春に行う。父から聞いていた。祖父の代もそうだったと。
あの娘は七月から妃だ。けれど国中の前に立つのは春になる。
その日に、腹はいちばん大きい。
百八十日ある、と思った。
幼い弟が、あの部屋で春まで生きられるか。
考えないことにした。考えないために、数を数えた。
「ここに署名を」
記録官が書付を回した。羽根と、砂の小壺を横に置いた。
わたしは筆を取った。
ロザリア・アッシュフォード。
一文字も間違えずに書いた。
テオは、この姓を書くとき、いつも最後の一文字を抜かした。何度教えても抜かした。
お姉さまは、どうして間違えないのですか。
あなたの名前だからよ、と答えた。
羽根を置いた。
記録官が砂を振って、余った砂を落として、紙を閉じた。
それで名前が終わった。
「指輪を」
左手の薬指から抜いた。
五年つけていた。抜けるとき、少しも引っかからなかった。跡も薄い。
記録官の手のひらに落とした。金の音がした。
何も出てこなかった。
昨日、テオの上着の前が留まっていないのを見たときは、喉が詰まった。指輪では何も詰まらない。
少し不思議だった。
「身につけているものを、すべて」
首飾りを外した。耳飾りを外した。留め具も、帯の飾りも机に置いた。
記録官はそれを数えて、木の箱に入れた。
真珠は、まだ持っていた。
昨日の朝、屋敷の侍女が七つ挿した。あの子は泣いていた。床に散らばったのを、わたしが這って拾った。
記録官は顔を上げない。書付の数と箱の中を見比べて、それで足りたようだった。
わたしは、何も言わなかった。
箱に蓋がされて、封の蝋に印章が押された。
押す位置に見覚えがあった。屋敷で受け取っていた徴税の書付と、同じ位置だ。同じ部署が作った紙なのだと分かった。
覚えておこう、と思った。なぜそう思ったのかは、自分でも分からなかった。
通用門から出された。
衛兵が扉を閉めるとき、一言だけ言った。
「……もう来るなよ」
朝の都だった。
目の前の道は、五年通った道だ。ずっと馬車で通っていた。窓から見ていた景色を、今日は地面から見ている。石畳の継ぎ目が思っていたより荒い。靴が薄いのだと、歩いてはじめて分かった。
荷車が通る。どこかでパンを焼いている匂いがする。水売りが桶を担いで、こちらを見ずに通り過ぎた。
向かいから、見覚えのある男が来た。西通りの布屋だ。屋敷に反物を運んでいた男だった。
男はわたしを見て、足を止めて、帽子に手をかけた。
供の若い者が、その袖を引いた。何か短く言った。
男の手が、帽子の途中で止まった。そのまま下ろして、目を伏せて、通り過ぎた。
三か月前に婚約が消えて、昨日、名前が消えた。
今日は、挨拶をしかけた人が途中でやめる女になった。
道の端に寄って、懐に手を入れた。
真珠を出して、掌にのせた。
七つ。
いちばん小さいものでも、粒としては上のほうだ。質屋に持ち込めば叩かれる。それでも一つで、黒パンの七日ぶんにはなるだろうか。
パンの値を、わたしは知らない。屋敷では、そういう紙は見なかった。
七日なら、七つで五十日ぶんだ。
だが、要るのはわたしのパンではない。
食事と、薪と、薬。冬を越すなら薪は毎日いる。払いが途切れれば、あの子は罪人になる。
百八十日。あの子を春まで人として扱わせるのに、いくらかかるか。
掌の中で、もう一度数えた。
足りない。
足りないが、数えられるものが手の中にあった。
どこへ行くか。
都は出られない。宿は名を書かせる。金を貸してくれる相手は、全員が昨日の大広間にいた。
名前を聞かれない場所が、都に一つだけある。
北の水路の先、川が濁って匂う一帯だ。奇跡の庭と呼ばれている。
わたしは北へ歩きだした。




