第2話:断罪
半年前。夏の終わりの、王宮の大広間だった。
わたしは磨いた床の真ん中に立たされていた。高い窓から光が落ちて、足元に白く溜まっている。まわりを貴族が囲んでいた。数十人はいる。上座に王妃様と、その隣にライオネル殿下。五年、わたしの婚約者だった人だ。
裁きの場だった。
ただ、何もかもが決まったうえでの裁きの場だった。訴状は書かれ、証人は揃い、判を捺す紙まで用意されている。この日わたしに求められているのは、認めるという一言だけだ。
貴族が呼ばれているのは、わたしを見物させるためだ。扇のかげで、くすくす笑う音がしていた。
今日ここに集まった人たちは、みな一度はわたしに頭を下げたことがある。
証言台に立っているのは、エマ・エインズワース。エインズワース男爵家の娘だ。
「……階段の、いちばん上でしたわ。ロザリー様は、わたくしの背に、手を」
エマはハンカチを目に当てて、肩を震わせていた。すみれの香水の匂いが、ここまで届いている。
嫌疑は、二つの段に分けて書かれていた。
まず、薬師から毒を買った。運ばせたのは弟だ。
使う機会がなかったので、大階段で突き落とした。身重のこの娘を、腹の子ごと。
毒だけなら、盛る前に見つかったことになる。階段だけなら、その場の弾みになる。
二つ並べれば、企てたことになる。そして弟を引き込める。
そう考えた者がいる。
婚約が解かれたのは、三月前だ。殿下が北から戻られた日に、書付が一枚来て、それで終わった。
その二月あとに、殿下はあの娘と婚儀を挙げた。階段の一件は、そのまた翌月だ。
わたしはもう何も持っていない。無位で、行き先もない。
それでも、三日前に屋敷へ兵が来た。
捨てるだけでは済まさない理由が、この人たちにはあるのだ。
今朝、屋敷の侍女がわたしの髪を結った。真珠を七つ挿して、それから泣いた。名を呼んでも返事をしなかった。
エマは声を詰まらせた。
「押されて、落ちて……お腹を、床に」
エマが下がると、殿下が肘掛けに頬を預けたまま言った。
「申し開きがあるなら、言ってみろ」
面白がっている声だった。
「わたしは階段の上にいなかった」
わたしは言った。
「あなたの腕に触れてもいないわ、エマ。あの刻、わたしは二階の東の廊にいた。大階段はひとつ下よ」
ざわめきが起きた。扇の向こうで女の声がした。まだ喋るのね、と聞こえた。
殿下が指を回した。
「では、証人を呼んでやれ。皆も暇だろう」
証人が五人、順に立った。
最初は、うちの御者の男だ。二十年、アッシュフォードの馬を見てきた男だった。
「お嬢様のご命令で、薬師のところへ馬車を出しました。夕刻でございました」
「馬車は出ていないわ」
わたしは御者に言った。
「あの日は蹄鉄を替えていたでしょう。三頭ぶん。鍛冶が来たのは昼で、帰ったのは日が落ちてから。馬車を出せる刻は、どこにもなかったわ」
男の口が止まった。顔も上げなかった。
大広間のざわめきが変わった。笑いが一つ、途中で消えた。
側近が書付から目を上げずに言った。
「罪人に、証人へ問う権利はございません」
衛兵が二人、両側から肩に手を置いた。
「次に口をきけば、塞ぎます」
それで終わりだった。
この場でわたしに許されているのは、認めるという一言だけになった。
だから、聞くだけになった。
「昼過ぎでございます。お嬢様が大階段の上においでになるのを、この目で見ました。間違いございません」
「夕刻に呼ばれました。あと少しで、流れておりました。ほんとうに、あと少しで。間違いございません」
「三日前の夕刻、お嬢様がお求めになりました。アッシュフォード家の紋が入っております。間違いございません」
エマ付きの侍女。街の産婆。王家の薬師。
三人とも、同じ運びだった。まず刻を言い、次に見たものを言い、最後に「間違いございません」で結ぶ。
御者もそうだった。
四人ぶんの証言を、一人が書いたのだ。
書いた人間は、この大広間にいない。
わたしは、その人の顔を知らないまま死ぬのだと思った。
型の中で、二つだけ引っかかった。
一つは、産婆の顔だ。
知らない顔だった。うちに出入りしていた産婆ではない。街の産婆だと名乗ったが、この娘を診た産婆を、わたしは一人も知らない。
もう一つは、薬師が掲げた瓶だった。小さな茶色の瓶で、掲げると縁で光が跳ねた。
「その瓶」
わたしは言った。
「……底を、見せて」
側近が顔を上げた。
「罪人に、証拠品へ触れる権利はございません」
衛兵の手が、口を塞いだ。革の匂いがした。
瓶は下ろされた。誰も底を見なかった。
五人目だけ、型から外れていた。
うちの台所番の女だった。年は五十を越えている。手の甲が、火傷の跡で白くなっていた。
「お嬢様が、瓶を、お渡しになるのを……見ました。あの、夕方の、いえ、昼の」
声が震えていた。順序も乱れている。
この女だけ、書かれたとおりに喋っていない。
この女が厨房を離れていたなら、昼の膳を上げたのは誰か。それを言えばいい。
声を出そうとした。塞がれていても、手を振り払えば一度くらいは音になる。遮られてもいい。誰かの耳には残る。
女が、こちらを見た。
一度だけだった。すぐに床へ落ちた。
わたしは力を抜いた。
なぜやめたのか、自分でも分からなかった。
証言が終わると、扉が開いた。
衛兵が二人、あいだに小さいのを挟んで入ってきた。
テオだった。上着の前が留まっていない。誰も留めてやらなかったのだ。
弟はわたしを見つけて、口を開きかけて、そのまま黙った。
「弟も調べさせた」
殿下が言った。
「毒を運んだそうだ。姉に命じられて」
嘘だ。テオは毒の瓶など知らない。自分の名前を書くときでさえ、最後の文字をよく間違える子だ。
殿下は面倒そうに肘をついた。
「長引かせたくない。──ロザリア。お前が認めれば、弟は放してやる」
衛兵の手が、口から離れた。
認めるためなら、喋ってよいのだ。
大広間が静かになった。
「認めれば?」
「認めれば、だ」
わたしはテオを見た。
弟も、わたしを見ていた。何も言わなかった。姉が黙っている場では黙るものだと、この子はそう覚えてしまっている。
認めれば、わたしは身重の娘の腹を狙った女になる。
父と母が二代かけて守った名前が、そういう名前になる。屋敷も領地も、その名で語られる。
そして首は確実に落ちる。さっきまでは、まだ何か覆るかもしれないと思っていた。
認めなければ、二人とも落ちる。
考える間はなかった。考えたら、選べなかったと思う。
わたしは前に出た。
「わたしがやりました」
声が、自分のものに聞こえなかった。
「全部、わたし一人です、殿下。毒を買ったのもわたし。瓶を渡したのもわたし。階段の上にいたのもわたしです。あの子は何も知りません」
言った途端に、貴族たちの目が変わった。
さっきまで、この人たちは余興を見ていた。いまは、身重の娘の腹を狙った女を見ている。
「毒婦!」
誰かが叫んだ。若い男の声だった。壁ぎわから、続けて二つ三つ、同じような声が飛んだ。
構わない、と思おうとした。思えなかった。喉の奥が熱くて、声がうまく出なかった。
膝が折れた。
折れたのではない。折った。
石が冷たかった。手をついて、額を下げた。二十四年、誰にもしたことのない姿勢だった。父の葬いでも、母の葬いでも、わたしは膝をつかなかった。
「わたしの首だけで、足りるでしょう。殿下」
声が掠れた。
「……お願いします」
誰も笑わなかった。
床しか見えない。衣擦れの音がした。すぐ前で、誰かが息を吸った。すみれの匂いが、少し動いた。
殿下の声は、それより遅れて降りてきた。
「聞いたな。認めた」
衛兵の手が、テオの腕から離れた。布が擦れる音だけで、それが分かった。
息を吐いた。
三日ぶんの息を、一度に吐いた気がした。石の冷たさが、はじめて冷たいと分かった。
あの子は生きる。
字を書けるようになった子だ。アッシュフォードの綴りだけ、いつも一文字抜ける。誰か教えてやってくれる人がいればいい。
それでいいと思った。
上座の奥から、声が降りてきた。
「共犯である以上、同様に」
王妃様だった。今日はじめて口をきいた。それまで一度も、書類から目を上げなかった方だ。
「自白は、共犯の存在を裏づけます。書き直させなさい」
書記が紙をそろえる音がした。
判を捺す音が、二つ。
わたしは顔を上げた。
「殿下。……いま、放してやると」
「ああ、そうか」
殿下はもう別の方を見ていた。エマの髪に落ちた光を、指で払っている。
「言ったな。まあ、母上が決めることだ」
約束を破ったとも思っていない声だった。守るほどのものだと、はじめから思っていない。
斬首。姉弟ともに、執行はしかるべき日に、と側近が読み上げた。
髪が崩れていた。
小さな音が、続けて落ちた。真珠が、床に散っていく音だった。
椅子が引かれる音がした。貴族たちが立ちはじめている。
白い靴先が、目の前を通った。
わたしは手を伸ばした。裾に触れれば、まだ何か言える気がした。
殿下は歩く速さを変えなかった。避けて、通り過ぎた。罵りもしなかった。
指が、石の上で空を掴んだ。
真珠が、そのすぐ横に転がっていた。
わたしは這って拾った。
柱のそばまで転がったものを、膝で追って取った。靴の並びの隙間に手を伸ばした。誰も足をどけなかった。
「悪徳令嬢!」
声が上から降ってきた。
笑いが起きた。今日いちばん大きい笑いだった。腹を抱えている男がいた。扇で顔を隠しもしない女がいた。同じ言葉が、あちこちから飛んだ。
悪徳令嬢。
うまい言い方だと思った。明日には爵位も無くなるのに、令嬢と呼んでくれる。呼んでおいて、床を這わせる。そのほうが面白いからだ。
衛兵が両脇を掴んで、わたしを立たせた。
手の中に、真珠が七つあった。
扉のところで、テオが立ち止まった。
振り返って、言った。
「お姉さま、泣かないで」
衛兵が背を押した。テオは押されたまま、扉の向こうへ消えた。
わたしは泣いていなかった。
這って頼んだ女に、あの子は泣かないでと言った。
この日、わたしは人の言葉を信じるのをやめた。
その夜、わたしはまだ、名前を持っていた。




