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第1話:処刑前夜の悪徳令嬢

「──まあ。こんなところにいらしたのね、ロザリー様」


 すみれの匂いがした。


 湿った石と、鉄の錆の匂いしかしない場所で、その甘さだけが場違いだった。松明の火が廊下の奥に揺れ、白い靴先が鉄格子の前で止まる。


 エマは、鉄格子に触れなかった。誰が見ても守ってやりたくなる顔をしている。真珠を縫いつけた白いドレスは、この床に一歩でも触れたら二度と着られないだろう。


 今日は大礼だった。国中の前に立つ儀だ。そんな日に、わざわざこの牢獄へ降りてきている。


 エマの顔に、隙のない笑みが載っていた。大広間の真ん中にいるときと同じ笑みだ。目だけが動いていない。侍女に松明を持たせ、自分は汚れが移らない距離に立っている。そして、両手を腹に置いた。


 もう隠れる大きさではなかった。裾の下で、白い布が前へ張り出している。


 世継ぎを腹に抱えて民の前に立つ。あの娘は、この日のために春まで待ったのだ。


 エマは、下からすくい上げるように、ゆっくりと腹を撫でる。わたしに見せるための手つきだった。わたしがそれを見ているかどうか、確かめるように。


「……エマ。まさか、あなたがこんなところに来るなんて」


 声が掠れた。何日も使っていない喉だった。


 エマの笑みが、ほんの少しだけ止まった。様をつけずに呼んだからだ。


 エインズワースは男爵家。爵位でいえば、いちばん下になる。五年前のわたしなら、名前で呼んで当然の相手だった。


 けれど今のわたしは無位で、この娘は王太子の子を身ごもっている。


 それでも、呼び方を変える気はなかった。


「あら、ロザリー様。まだ、そんな口のきき方をなさるのね」


 笑みが戻った。


「ごめんなさいね。どうしても、今夜のうちにロザリー様にお会いしたくて」


 彼女は胸の前で両手を重ねた。


「明日の朝には、もうお話しできなくなってしまうでしょう? だって……首だけになってしまうんですもの」


 言ってから、口元に手を当てた。笑いをこらえる仕草だった。こらえきれていない。


「エマ様。いけませんわ、そのような……」


 侍女が、笑いを含んだ声で言った。


「……もっとも、この方にはもう、お怒りになる資格もございませんけれど」


「あら、そうね」


 エマが目を丸くしてみせた。


「なんていっても、ロザリー様……。爵位も、お名前も、殿下も。──何ひとつ、お持ちでないんでしたわ……」


 二人の笑い声が、石の壁に反った。


 真珠の下の、首の細さを覚えた。


 わたしは答えなかった。


 壁を背にして座り、膝の上で指を組んでいる。手首の枷は冷たい。床から上がる冷気は、骨の内側まで届いていた。


「五年も殿下の隣にいらしたのに。最後が牢の床なんて、侯爵令嬢には少し寒すぎません?」


 エマは小さく首をかしげた。


「でも、仕方のないことだわ。あなたは、わたしのお腹の子を殺そうとしたんですもの」


 エマは腹に置いた手を、そのままにした。


「王家の世継ぎを殺そうとしたんですもの。ただの嫉妬では、済まないわ」


 この娘を階段から突き落とした。そう証言され、そう信じられた。


 社交界がこの娘を「聖女」と呼びはじめて、半年。わたしの首は、夜明けに落ちる。


「お怒りにならないの、ロザリー様?」


 エマは残念そうに目を細めた。


「わたし、あなたのことが、ずっと怖かったの。ほんとうよ」


 侍女が、松明の陰で小さく笑った。


「正しくて、冷たくて、泣きもしない。あんな方が王妃になったら、この国はどうなるのかしらって。……みなさん、同じことをおっしゃっていたわ」


 泣く場所を選んできただけだ。


 わたしはそう言わなかった。目を閉じれば、奥の牢から聞こえるはずの音を聞き逃す気がした。


「ああ、そうそう」


 エマの声が、少し弾んだ。


「ロザリー様。弟君のことは、もうお聞きになった?」


 組んだ指が、わずかにずれた。


 その一瞬を、エマは見た。目の縁がわずかに動いたので、わかった。


「テオ様。かわいそうに。あなたの共犯にされたそうよ。お姉様に命じられて毒を運び、証拠を隠したんですって」


 嘘だ。


 テオは毒の瓶など知らない。嘘をつくのも下手な子だ。自分の名前を書くときでさえ、最後の文字をよく間違える。


「この牢の、ずっと奥にいるわ。夜が明けたら、姉君と並んで、同じ処刑台に上るんですって」


 エマは声をひそめた。


「毎晩、泣いているそうよ。お姉様、お姉様、って」


 喉が、音もなく詰まった。


 ──地獄に落としてやる!


 この娘も、殿下も、証言した五人も、判を捺した誰かも、全部。


 ──でも、だめだ。


 奥歯を噛んだ。ここで音を立てたら、この娘は明日、テオの前でも同じ話をする。


 テオはまだ、袖を握って眠る子だった。


「お姉さま、もう一冊だけ」


 父と母が死んだ夜、あの子は泣かなかった。姉が泣かなかったから、弟も泣いてはいけないのだと思っただけだ。


 その夜から、わたしは弟の前で泣くことをやめた。


 字を教えたときも、アッシュフォードだけは、いつも途中で一文字抜けた。


「お姉さまは、どうして間違えないのですか」


「あなたの名前だからよ」


 父と母が残した名前だ。それが今、弟ごと処刑台へ運ばれようとしている。


「最後くらい、泣いたらいかが? ロザリー様」


 エマの声で、牢の冷気が戻った。


「弟君のために。あの子、かわいそうですもの。あなたみたいな姉を持ったばかりに」


 わたしは顔を上げなかった。


 息を吐く。


 一つ。


 吸う。


 二つ。


 喉の奥を焼くものに、名前をつけてはいけない。名前のあるものは、外へ出たがる。


 だから数えた。


 松明から油が落ちる。七つ数えるあいだに、一滴。


 侍女の息は浅い。この娘は牢が怖いのだ。


 鉄格子まで、あと一歩。エマは、その一歩だけを踏まない。


「つまらない方」


 エマはため息をついた。


「殿下もおっしゃっていたわ。ロザリー様は立派すぎて、そばにいると息が詰まるって。わたしの前では、あんなに楽しそうに笑ってくださるのに」


 松明が、ぱち、と爆ぜた。


「あなたがいなくなれば、みんな楽になるわ。殿下も、王妃様も、貴族の皆様も。もちろん、わたしも」


 彼女は腹に手を添えた。


「この子も、邪魔なもののない国で生まれてくるの」


「……そう」


 指先が、もう一度だけ動いた。


「あら、ロザリー様。お腹の子のことは気になるのね。ご自分が殺そうとした子ですものね」


 答える言葉はいくらでもあった。


 あの日、階段の上にいなかったこと。エマの腕に触れてすらいなかったこと。証言した台所番の目が、あの場で一度だけこちらへ泳いだこと。


 けれど今ここで並べても、何にもならない。


 エマは、言葉で裁かれる場所にはいない。


 エマは待っていた。


 わたしの泣き声を。罵倒を。許しを請う声を。


 何も出てこないとわかると、白い肩をすくめた。


「まあ、いいわ」


 香水の匂いが遠ざかりかけて、止まった。


「おやすみなさい、エマ」


 わたしが言うと、エマは振り返った。


 その顔から、はじめて笑みが落ちた。口が半分開いて、そのまま閉じた。


「死ぬまでお人形でいらっしゃい、ロザリー様」


 声が、はじめて高くなった。


「明日の朝、弟君の首が落ちるときにも、そのお顔でいられるといいわね」


 最後まで、エマは鉄格子に触れなかった。裾を持ち上げ、濡れた床を避けるように踵を返し、松明の光を連れて廊下の奥へ消えていく。


 足音が離れていく。角を曲がるところで侍女が笑った。鍵束が鳴る。扉が閉まる。


 その音が石壁に沈んでから、わたしは初めて顔を上げた。


 頬は濡れていない。


 目元も赤くない。


 ただ、膝の上で組んだ指だけが、骨の色になるほど白かった。


 そのときだった。


 遠くで鐘が鳴った。ひとつ。


 ふたつ。


 わたしは息を止めた。


 鐘のあと、少し置いて。


 ──かん。かん。かん。


 鉄を、短く三度。


 止めていた息を、細く吐いた。指の力が抜けて、枷が小さく鳴る。


 今夜で四回目だ。三度目までは、まだ早いと思っていた。


 衛兵たちは気づいていない。夜回りが鉄を叩いているだけだと思っている。


 外の声が、石の底まで降りてくる。


「パンをよこせ! 税を返せ! 王を出せ!」


「税吏に毛布まで持っていかれて、粉屋の娘が死んだんだぞ!」


 衛兵が怒鳴る。槍の柄が床を打つ。囚人の誰かが神の名を呼ぶ。


 わたしは返事をしなかった。


 鐘と、鉄と、足音と、外の声。奥の牢までの距離。弟の首が落ちるまでの時間。泣く代わりに数え、怒鳴る代わりに覚える。


 夜明けは近い。


 明日の朝、わたしは処刑される。


 エマも、殿下も、王妃様も、そう思っている。


 ──思っていればいい。


 ──半年前。


 わたしはまだ、ロザリア・アッシュフォードだった。


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