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第10話:感謝の値段

 三日後の昼、門の外に馬車が止まった。


 白と金の車体。四頭立て。今日は籠もパンもない。


 騎馬が六騎いた。前は四騎だった。


 わたしは井戸の列にいて、桶を担いだところだった。離れる理由がない。


 人が集まった。並ばなかった。配るものがないからだ。


 窓が開いて、エマが顔を出した。


「悪徳令嬢、とみなさんが呼んでいらっしゃると聞きましたわ」


 誰も答えなかった。


 沈黙が答えになった。


 エマは馬車の中から路地を見ていた。目の動く順番で、何を見ているのか分かった。


 井戸に列があること。銭を集める男がいないこと。粉屋の台に包みが二つ置いてあること。わたしの足元にニコが座っていること。


 この娘も数える。


「そこの粉屋」


 エマは侍女に言った。


「うちの土地でしたかしら。あとで調べておいて」


 粉屋の戸が閉まった。


 中から臼の音がしなくなった。


「ロザリー様」


 エマがこちらを見た。


「お召し物、麻のままですのね。……お知らせが二つあります」


 エマは指を折った。二つ、と言うときに、本当に二本折った。


「宮の台所に、あの家の者が残っていたそうですわ。もう下がらせました」


 わたしは桶を下ろさなかった。


「それと、その方の息子さん。仕立屋にお勤めだそうですね。お店にも、お知らせしておきましたの」


「……何を」


「母親が偽りの証言をしていたかもしれない、と」


 エマは首をかしげた。


「お知らせしただけですわ。あとはお店がお決めになることです」


 三日前、あの女は焼き菓子を包んだ。「あたしの番の日は一つ多く載せとくよ」と言った。台所から一皿ぶん盗む約束だった。


 わたしが訪ねたからだ。あれをしなければ、あの人はまだ台所にいて、息子は仕立屋にいた。


 あの一言は、もうない。わたしが取り上げた。


「もう一つ、ごめんなさいがあります」


 エマは声を落として、言った。


「井戸のこと。わたくしのせいで、この街の方が水に困っておられたのね。存じませんでした。ごめんなさい」


 列に並んでいた女が、桶を持ちなおした。


「……でも、うちの土地ですから。きちんと人を置きますわ。銭を取る者がいないと、勝手に汲まれてしまうでしょう?」


 誰も何も言わなかった。


 殿下が馬車の反対側から出てきた。


 白い上着で、靴が新しかった。路地の泥を見て、少し立ち位置を選んだ。


「エマは優しいからな」


 殿下は言った。


「わざわざ謝りに来たんだ。おれは止めたんだがな」


 大広間で見て以来だった。少し太っていた。


 三日かけて数えた井戸の数字と、白紙の紙で追い出した男と、この街で覚えた名前が、全部この娘の家の地面に載っていた。


 勝ったつもりだった。借りていただけだ。


「ロザリア」


 殿下が言った。


 その名で呼ばれたのは、大広間の日以来だった。


 五年、この人だけがそう呼んだ。エマはロザリー様と呼び、街の人間はロザリーと呼ぶ。


 他人の名前のように聞こえた。


「まだ間に合う」


「……何に、間に合うのでしょう」


「大礼の日に、皆の前でエマに謝れ。そうしたら、弟だけは助けてやってもいい」


 わたしは桶を地面に置いた。


「殿下」


「なんだ」


「一度、同じことを申し上げました」


 殿下の眉が動いた。


「あのとき、認めれば弟は放してやるとおっしゃいました」


「……言ったか?」


「言いました」


「ああ、そうか」


 殿下はエマの髪に落ちた光を、指で払った。


「だが、母上が決めることだ」


 あの日と、一言も違わなかった。


 覚えていないから、同じ言い方になる。


「お断りします」


 わたしは言った。


「なに」


「殿下のお約束は、一度いただきました。二度目は要りません」


 先の約束というのは、代金だけ先に払わされて、品が来ない買い物のことだ。


 殿下の顔が赤くなった。


「おれもつらいんだ」


 わたしは何も言わなかった。


 つらい、という言葉を、この人はどこで覚えたのだろうと思った。


 五年隣に立っていたが、この人が何かを我慢しているところを、わたしは一度も見たことがない。


「そうでしょうね」


 わたしは言った。


「殿下のおつらいことは、たいてい他の方が代わりに済ませてくださいます」


「五年だぞ。おれだって、こんなことをしたくはない。お前が素直に頭を下げれば、それで済む話じゃないか」


「五年、殿下のご日程を書き写しておりました」


 わたしは言った。


「楽しかったかどうかを書く欄は、ございませんでした。次の方には、そういう帳面をお作りになるとよろしいかと存じます」


 殿下の口が半分開いた。


 エマが殿下の腕に手をかけた。庇う形だった。庇われる側が庇っている。


「ロザリア」


 殿下は少し声を落とした。


「お前はまだ、おれのことを」


 わたしは殿下の顔を見ていた。


 何も出てこなかった。


 指輪を外したときと同じだ。五年隣に立っていた人が目の前で赤い顔をしているのに、名前をつけられる感情が一つもない。


 エマが、こちらを見た。


 目が細くなった。何かに気づいた顔だった。


「……ロザリー様。あなた、殿下のことを」


「行こう」


 殿下が遮った。


 エマは口を閉じた。それから、少し笑った。


「その前に、一つだけ」


 馬車の扉が開いた。エマが降りてきた。


 白い靴が、路地の土に載った。


「一つだけなら、戻してさしあげてもよろしいわ。台所の女の職。息子さんのお店。それと、井戸」


 エマは指を三本立てた。


「どれにいたします?」


 列の音が消えた。


「息子さんのお店を」


 エマの手が止まった。


「……水は?」


「息子さんのお店を、お願いします」


 井戸は取り返せる。三日座って数を数えれば、また同じことができる。


 あの子の奉公の年は、わたしには戻せない。


「まあ」


 エマは路地の人間のほうを向いた。


「みなさん、お聞きになりました? 水はよろしいそうですわ。──三千人でしたかしら。この方は、お一人をお選びになりました」


「三千二百です」


 わたしは言った。


「先月、二人生まれて、四人死にました。妃殿下のご領分ですから、お控えにお載せかと存じました」


 門の前で二千九百七十人と言ったのは、三千と聞いていたからだ。


 わたしは、そのときまだ数えていなかった。


 エマの口が閉じた。


 誰も反応しなかった。


 列に並んでいた女が桶を持ちなおした。それだけだった。


 エマの声が、少し高くなった。


「では、そのように。……ただ、ひとつだけ」


 侍女が紙と羽根を用意しはじめた。その場で書くつもりなのだ。書けば、あの子は店に戻れる。


「お礼を」


 エマは言った。


「わたくしに、お礼を」


 わたしは膝をついた。


 二度としないと決めていた。大広間で一度やって、断られた。それでもう終わりにしたはずだった。


 井戸のそばの土は、水があふれて泥になっている。桶が七つ並んで八つ目が来ると、いつも足元が濡れる。わたしが取り返した水だ。


「そこで」


 エマが言った。


「地面はお慣れでしょう?」


「妃殿下ほどではございません」


 わたしは言った。


「ご実家の土ですもの。わたしよりも、よくご存じでしょう」


 エマの息が止まった。


 額をつけた。


 土の匂いがした。冷たくはなかった。人が何十人も踏んだ泥は、上のほうが温い。


「ありがとうございます」


「そんなお顔で?」


 顔は見えていない。地面についている。


「もう一度」


「ありがとうございます」


「……お顔を上げて」


 顔を上げた。泥が頬から落ちるのが分かった。


「そう。もっと嬉しそうに」


 笑うのは得意ではなかった。


 五年、笑うなと言われて育った。妃になる者が人前で歯を見せるものではない、と。だから笑い方を思い出すのに、少し時間がかかった。


 エマは待っていた。


 わたしは笑った。


 礼の言い方も知らない。屋敷では、礼は受けるものだった。


 言えない言葉を、思い出した笑い方で言っている。


「妃殿下。ありがとうございます」


「それから、みなさんに」


 エマが言った。


「わたくしがこの街のことを考えていると、みなさんにおっしゃって」


 わたしは路地のほうを向いた。


 顔は上げたままだった。泥のついた顔で、笑っていた。


「妃殿下は、この街のことを考えてくださっています」


 声が出た。


「この街の地面は、妃殿下のご実家のものです。ご自分の地面のことを、お考えにならない方はおられません」


 路地が静かになった。


「わたしが申し上げるのですから、間違いありません」


 誰も何も言わなかった。


 命じられた通りに言った。一言も足していない。


 嘘も言っていない。


 そのあと、頭を押さえられた。


 手ではなかった。靴だった。


 後頭部の右寄りに、かかとが載った。押されて、額がまた泥についた。


「もう一度」


 わたしは同じことを言った。泥が口に入って、言葉が濁った。


 髪を掴まれるほうがましだと思った。


 髪なら、手だ。手なら、この娘もわたしに触れたことになる。


 靴は、触れていない。


 この娘は牢でも鉄格子に触れなかった。桶の水も侍女に撒かせた。汚れが移らない距離を、いつも正確に測っている。


 その足の下にいるわたしは、道端の土と同じものだ。土なら踏んでいい。


 喉の奥が焼けた。


 叫べば終わる。石が三つ飛んで、騎馬が抜いて、この街の人間が五人か六人死ぬ。そして、弟の首が先に落ちる。


 息を吸った。泥ごと飲んだ。歯のあいだで砂が鳴った。


 それから、数えた。


 息の音が聞こえた。エマの息だ。速くなっていた。声の高さが、さっきと違っていた。


 見えるのは泥と、靴の先と、人の足だけだった。


 石を拾う音がした。


 右のほう、井戸の裏側。それから左。それから、後ろでもう一つ。


 三つ。


 誰も投げなかった。


 足が一つ、前に出た。


 その靴を知っていた。踵が片方だけ潰れている。水を汲みに水路まで歩く女の靴だ。マーサだった。


 わたしは首を横に振った。二度、小さく。


 足が止まった。


「殿下」


 騎馬の一人が言った。隊長らしい声だった。


「人が多すぎます」


「……エマ」


 殿下の声がした。


「もういいだろう。帰るぞ」


 かかとは動かなかった。


 エマの息が、まだ速かった。


 それから、重さが消えた。


 頭が軽くなった。わたしは肘をついて、顔を上げた。


 エマは、わたしを見ていなかった。


 路地のほうを見ていた。口が開いていた。


 人の数を数えている顔だった。


 わたしと同じことをしている。


 三千二百のうち、いま門の前にいるのは百人ほどだ。騎馬は六騎。門は二つで、馬車が入れるのは一つ。


 その計算が終わったとき、エマの足が下がった。


 石を投げた者はいない。誰も声を上げていない。


 それでも、止まった。


 そして、誰も笑わなかった。


 門の前に百人いて、一人も笑わなかった。


 わたしはその顔を覚えた。口の開き方も、足の高さも、息の速さも。あとで思い出せるように、順番に見た。


 春に会う。


 誰も喋らなかった。馬の脚が土を掻く音だけがしていた。


 侍女が、主人の腕を取った。


「帰りましょう」


 エマは侍女を見た。それから足元を見た。


 白い靴のかかとに泥が入っていた。飾りの一つが取れて、なくなっていた。


 エマの顔が変わった。


「……もう、よろしいわ」


 息子の奉公先へ出す紙は、馬車の中で書かれた。侍女が書いて、封をして、路地に投げるように置いていった。


 馬車が動く前に、窓からエマが言った。


「弟君のお部屋、寒くはないかしら」


 窓が閉まった。


 騎馬が六騎ついていった。


 わたしは泥の上に座っていた。


 人が散らなかった。


 井戸の列も、そのままだった。


 あの日から、この街の大人はわたしと目を合わせなくなっていた。井戸のそばを通ると話が止まって、通り過ぎるとまた始まった。


 その人たちが、そこにいた。


 ベスが出てきて、わたしの桶を担いだ。何も言わなかった。


 わたしはたったいま、この人たちに向かって、エマのための言葉を言った。誰も信じなかった。


 言葉は使い潰されたが、それは残っていた。


 その夜、壁を殴った。


 一度だけだった。石の壁で、手の甲が割れた。血が袖に落ちた。


 粉屋の戸が開いた。


 殴ったのは一度だけだった。それでも戸が開いた。


「手を出せ」


「大丈夫です」


「大丈夫な手は、壁を殴らねえ」


 オズワルドは桶の水で手を洗わせて、布を巻いた。何も聞かなかった。


「割れた手じゃ、粉は挽けねえぞ」


 それだけ言って、戸を閉めた。


 わたしは巻かれた手を膝に置いて、座っていた。


 井戸に人が置かれるまで、何日かかるだろうか。


 書付を作り、男を選び、日を決める。急がせても五日はかかる。


 その五日で、この街が汲める水を数えた。一日に百四十人。五日で七百。


 数えているうちに、手の痛みが少し引いた。


 手を貸さない人だと思っていた。井戸のときも、泥のときも、この人は手を貸さなかった。


 貸さないが、布は巻く人だった。


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