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第11話:三度の願い

 五日目に、井戸のそばに椅子が置かれた。


 新しい男が座って、桶を持ってきた者から銅貨を受け取っている。水一杯につき一枚。ドランのときと同じ値だった。


 五日と数えて、五日だった。


 当てても、何も起きない。


 街の人間は払った。列は動いた。誰もわたしを見なかったし、責めもしなかった。桶を出して、銅貨を出して、水を持って帰った。


 マーサだけが、また門を出ていった。水路の水を汲んで、煮て使う。


 二日後の昼、ニコが走ってきた。


「西門の荷宿に、紋つきの馬車が来てる」


 ニコは息を切らしていた。


「若い男が一人。紙を持ってる。誰かに書かせに来てるんだと、宿の女が言ってた。──翼の鳥と、麦の穂が三本だ」


 わたしは顔を上げた。


「これ、前の三枚に入るか?」


 ニコは手を出した。


「入らねえよな。高い話だぜ」


 紙を持った若い男。


 アガタが言っていた男だ。五人ぶんの証言を書いて、一枚ずつ渡して、覚えろと言った男。翼を開いた鳥と、麦の穂が三本。エインズワース家の紋。


 あの男が、まだ集めている。


「荷宿に、うちの御者がいますか」


「ヨナスってじいさんだろ。いるよ」


 わたしは銅貨を五枚渡して、洗い場へ回った。


「西門の荷宿のどこにいるか、分かりますか」


「裏の厩だよ」


 ベスは布から手を上げなかった。


「洗い賃をそこにつけてる。屋敷が畳まれた月からね。……表から入るんじゃないよ。紋つきが停まってるなら、表には人がいる」


 わたしは走った。


 ヨナスは、屋敷の御者だった。二十年、うちの馬を見ていた。大広間では、わたしが薬師のところへ馬車を出させたと言った。


 その男に、いま新しい紙を書かせようとしている。


 次に集めるのは、弟の分だ。


 テオが毒を運んだという裏づけを、あの男は作っている。最初の訴えにはなかった罪だ。大広間で口にされただけの罪に、いまから紙を貼っている。


 荷宿に着いたのは、日が傾いてからだった。


 紋つきの馬車はもういなかった。


 ヨナスは厩で馬に水をやっていた。五十を越えた男で、背が丸くなっている。二十年、御者台に座っていた背中だ。


 わたしを見て、桶を置いた。


 逃げなかった。


「ヨナス」


「……お嬢様」


「その呼び方はもう使えません」


 わたしは息を整えた。


「若い方が来ましたか」


「来ました」


「覚えましたか」


「覚えておりません」


 膝の力が抜けた。


「なぜ」


「今度は、読んでもらいませんでした」


 ヨナスは馬の首に手を置いた。


「前のときは、人に読んでもらって、それを覚えました。わたしは字が読めませんから、耳で入れるしかありません。……聞いたら、また入ってしまいますから」


「何が書いてありましたか」


「弟君のことだそうです。中身は聞きませんでした」


 わたしは厩の柱に手をついた。


 まだ間に合っている。この男が聞くのを断ったおかげで、まだ四日ある。


「もう一つ、伺います」


 わたしは言った。


「なぜ、前のときは嘘を言ったのですか」


 金だろうと思っていた。


 屋敷の帳簿は全部読んでいた。この男の給金も、家族の数も、家賃も知っている。いくら積まれれば人が嘘をつくかは、計算できる。


「銭は、もらっておりません」


 ヨナスは言った。


「渡されましたが、返しました。若い方の手に、そのまま返しました」


 嘘をついている顔ではなかった。この男は嘘が下手だ。大広間で早口になって、目を上げなかった。


「では、なぜです」


「三度、願い出ました」


 ヨナスは馬の首を撫でていた。


「四年前です。うちのかみさんが胸を悪くして、薬師の薬が要りました。前借りをお願いしたくて、家令様に三度、申し上げました」


 わたしは黙っていた。


「三度目に、こう言われました」


 ヨナスは手を止めた。


「お嬢様に上げる筋の話ではございません、と」


 息が浅くなった。


 足の裏が地面から遠くなったような気がした。


「その次の冬に、死にました」


 わたしは膝に手を置いて、息を吸った。


 それから、数えた。


 四年前。三度。家令はアッシュフォードの家に十八年いた。あの人はわたしに、屋敷の帳簿を毎月上げてきた。使用人の数も、飼葉の値も、修繕の見積もりも上げてきた。


 願い出は、一度も上がってこなかった。


「聞いて、」


 声が止まった。


 言いかけた形のまま、口の中で言葉が崩れた。


「……聞いていませんでした」


 ヨナスは馬の首から手を離さなかった。


「上げる筋の話ではございませんでしたから」


 わたしは口を開いた。


 申し訳ありませんでした、という言葉が出てこなかった。


 礼の言い方も知らない女が、謝り方を知っているはずがなかった。この街に来てから、礼を言われても「いえ」しか出てこなかった。


 だから、分かっていることを言った。


「わたしは、屋敷の帳簿を全部読んでいました」


 ヨナスがこちらを見た。


「飼葉の値も、瓶の数も、洗濯の枚数も覚えています。いま言えます」


 ヨナスは何も言わなかった。桶の縁を指で叩いた。


「願い出を受ける帳面は、ありませんでした」


 わたしは言った。


「作っていませんでした」


 男は何も言わなかった。


 馬が首を振った。桶の水が少しこぼれた。


 弟の部屋は、薪方の名簿に載っていない。だから薪が入らない。誰も盗んでいないし、誰も嘘をついていない。


 同じことを、わたしはアッシュフォードでやっていた。


 この男の願いを載せる欄が、わたしの帳面になかった。だから上がってこなかった。


 帳面だけは、合っていた。


 間違いは、帳面の外にあった。


「知らずに、四年前から待たせました」


 わたしは言った。


 それだけだった。ほかに言うことを持っていなかった。


 ヨナスは、しばらく馬の首を撫でていた。


「はい」


 それだけ言った。


 赦されなかった。当たり前だと思った。


「墓を、ご覧になりますか」


 共同の墓地は、西門の内側の丘にあった。荷宿から半刻ほど登る。


 石ではなく、木の板が並んでいる。買える者は石にする。買えない者は板にして、字を彫る。


 ヨナスが立ち止まった板は、まだ新しかった。三年で腐りきってはいない。


 名が彫ってあった。


 マルテ、と読めた。


「マルタです」


 ヨナスが言った。


「うちのかみさんは、マルタでした」


 板にはマルテと彫ってある。


 この男は字が読めない。人に頼んで書いてもらって、それを彫ったのだ。彫った職人も、たぶん間違いに気づいていない。


 わたしは何も言わなかった。


 弟に字を教えたとき、アッシュフォードの最後の一文字だけ、あの子はいつも抜かした。何度でも直した。名前は間違えてはいけないものだと思っていた。


 いまは、言わなかった。


 言えば、この男はもう一枚買わなければならない。板と、彫ってもらう銭がいる。そして四年、間違った名前の前に座っていたことを知る。


 だから、黙っていた。


 ヨナスが板の前にしゃがんで、土を少し払った。


「あいつ、あんたのドレスを綺麗だって言ってました」


 わたしは板を見ていた。


「一度、門のところで見たそうです。青いのを。それだけです」


 風が吹いて、丘の草が鳴った。


 青いドレスは、五年前の秋に作らせたものだ。


 覚えている。何を着ていたかは、全部覚えている。


 喉の奥が、また熱くなった。


 わたしは板の字を見ていた。マルテ、と彫ってある。直したかった。


 直さなかった。


「若い方は、また来ます」


 ヨナスが立ち上がって言った。


「今度は、断れない者を連れてくるでしょう」


「覚えないでください」


 わたしは言った。


 頼むしかなかった。この男に払える代金を、わたしは持っていない。銭もない。借りは向こうにある。


「覚えません」


 ヨナスは言った。


「馬は、一度こわがった橋を、二度目は渡りません。人にも、そういうところがあります」


 それから、少し首を振った。


「そのかわり、覆すとも申しません」


「はい」


「あの日、大広間で言ったことは、言いました。それは変わりません」


 わたしは頷いた。


 それでいい。第一の紙が消えなくても、第二の紙が増えないなら、それでいい。


 ヨナスは板の土をもう一度払って、それから言った。


「馬車が要るときは、言ってください」


「馬車」


「関へ行く荷馬車を引いております。どこへでも出します」


 わたしは西門のほうを見た。


 わたしは都を出られない。出れば、弟の首が先に落ちる。


 この男は出られる。


 奇跡の庭に戻ったのは、夜だった。


 粉屋の前を通ると、戸が半分開いていて、中に人が集まっていた。十人ほどいる。


 オズワルドの声がした。


「──寝る物と、煮炊きの物は、取り立てちゃならねえ決まりがあるんだとよ」


 わたしは足を止めなかった。


「井戸の土地は、エインズワース男爵家のもんだ。妃殿下の実家だよ。だから謝りに来て、そのあと人を置いた」


 いくつかは、わたしが言ったことだった。


 頼んでいない。


 そして、わたしの名前は一度も出なかった。


 出せば、この店に人が来る。妃殿下が侍女に、この店は誰の土地かと確かめさせていた。あの男はそれを覚えている。


 名を出せば、この人の店が危ない。名を出さなければ、わたしが危ない。


 この人は、後ろを選んだのではない。前を選ばなかっただけだ。


 そう思ってから、順序が逆だと気がついた。


 わたしは通り過ぎた。


 粉置き場の壁の隅に座って、外套の裾を触った。真珠が四つ。銅貨が二十二枚。払いの日まで、あと四日ある。五十枚いる。


 一つ売る。三つになる。


 それから、願い出の帳面のことを考えた。


 いまなら作れる。紙と羽根があれば作れる。何を書く欄が要るかも分かる。名前、日付、頼みごと、それを受けた者の名。


 四年前に作っていれば、あの丘に板は立っていなかった。


 帳面を作るには、紙と羽根がいる。銭もいる。


 明日、粉屋で頼めばいい。あの人は粉の目方を書きつける帳面を持っている。紙も羽根もある。


 頼めばいい、と思ってから、一度も頼んだことがないと気づいた。


 あの若い男は、断れない者を連れて戻ってくる。


 払いの日まで、あと四日だった。


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