第12話:使い走り
払いの日に、真珠を一つ売った。
アリョーナは粒を灯にかざして、八十五枚と言った。値切らなかった。次は先に言えと言われていたので、質は先に言った。それでも八十五枚だった。
真珠は三つになった。
役所の窓口で五十枚を数えて置いて、受け取りの紙をもらった。弟の名と、日付と、次の期限。
残りは五十七枚。
その足で、ニコを探した。
「あの若い男の名を、調べてください」
ニコは井戸の縁に座って、足を振っていた。
「紋つきの馬車のやつか」
「はい」
「十枚」
ニコは手を出した。
「危ない話は倍だから、二十枚だな」
「十枚で、名前だけです」
「けちだな」
わたしは十枚渡した。残りは四十七枚になった。
この子は、まだ子どもだ。
危ないと分かっていて出した。エインズワース家の私兵は、井戸の男を置きに来た者たちと同じ家の者だ。
紋つきの馬車を追う仕事に、わたしは年端もいかない子を出した。
わたしには足がない。
それだけだった。ほかに言うことはなかった。
約束は翌日の夕方だった。
来なかった。
二日目の夜も来なかった。
ニコが遅れたことは、これまで一度もない。台所番を探したときも、翌日には見つけてきた。荷宿の馬車を見つけたときも、日が落ちる前に走ってきた。
わたしは銭を数えた。四十七枚。
買えるものが、あまりない。
洗い場へ行った。
「ニコの母親は、どこにいますか」
「いないよ」
ベスは布を絞る手を止めた。
「あの子に母親はいない。三年前の冬に死んだ。父親は知らない」
「では、探しているのは」
「あんただけだね」
わたしは何も言えなかった。
拾われても、誰も騒がない子だ。だから使いやすかった。
それを知らずに使っていたのではない。考えていなかった。
アリョーナの店へ行った。
「子どもが一人、帰ってきません」
「そうかい」
老婆は帳面を閉じた。
「エインズワースのところだね。二日前の夜、西の橋で子どもを一人拾ったって聞いたよ」
「口を割らせるためですか」
「違うよ」
アリョーナは言った。
「子どもを取るのは、口を割らせるためじゃない。呼び出すためだ。あんたを呼びたいんだろ」
餌だと分かった。
「行きます」
「そうかい」
老婆は帳面をもう一度開いて、何か書いた。
「なら、噂の代金は先にもらっとくよ。死人からは取れないからね」
わたしは十枚置いた。三十七枚になった。
エインズワース男爵家の屋敷は、都の北の外れにあった。
貧しい家だ。門柱の飾りが片方だけ新しい。片方は去年の嵐で落ちて、直す銭がなかったのだと思う。妹が王太子妃になると決まってから、直す気になったのだろう。
勝手口で、紙を渡した。
書いたのは三行だ。使い走りの子が二日前からここにいること。私兵が子どもを留め置くには手続きが要ること。そして、その手続きの写しを役所で見せてほしいこと。
手続きは、ない。
記録にない拘束は、表に出れば家が困る。リナを取り戻したときに使ったのと、同じ型だった。
だが、今回は違った。
出てきたのは家令ではなかった。
若い男だった。二十五、六。上着は仕立てがいい。指に紙の跡がついている。羽根を持つ人間の指だ。
わたしは、その顔を見た。
目の形がエマに似ていた。
「お待ちしておりました」
男は言った。
丁寧だった。事務的だった。
「あなたに来ていただきたかったのです。子どもの話は、そのための口実です。ご理解いただけますね」
「子どもを返してください」
「もちろんです。話が済めば」
男は紙を出した。わたしの紙ではない。自分のものだ。
「三つ、お願いがあります」
一つ。証人に会うのをやめること。
二つ。奇跡の庭から出ること。
「三つ目は」
「弟君の件に、口を出さないでいただきたい」
男は言った。
「あの件は、まだ紙が足りません。足りない紙は、こちらで揃えます。あなたが動かれると、揃うものが揃わなくなります」
「なぜ、そこまで」
「妹の大礼が、春にあります」
男は紙の縁をそろえた。
「うちの門柱は、片方だけ直しました。もう片方も直します。それだけのことです」
わたしは黙っていた。
この男が、あの五枚を書いた。アガタに渡して覚えろと言い、ヨナスに渡して読んでもらえと言い、そして先月、二枚目を持って荷宿へ行った。
いま、六枚目を書こうとしている。
「お断りします」
「では、子どもは」
外が騒がしくなった。
男が言葉を切って、勝手口の奥を見た。
誰かが走っている。それから、若い声で怒鳴る音。それから、裏門の閂が上がる音。
男が奥へ何か言った。返ってきた声は聞き取れなかった。
男は少し黙って、それから紙を畳んだ。
「……お引き取りください」
「子どもは」
「もう、こちらにはおりません」
わたしは裏門のほうへ回った。
路地に、粉の袋が二つ落ちていた。
オズワルドがいた。
肩に一つ担いで、もう一つを足で寄せている。そのそばに、ニコが座っていた。
目の上が切れていた。血が乾いて、右の目が半分しか開いていない。
「ニコ」
わたしは膝をついた。
「粉を納めてきた」
オズワルドが言った。
それだけ言った。
この人は屋敷の裏に入れる。粉屋だからだ。月に二度、粉を納めている。
わたしには入れない場所に、この人は商人として入れる。
わたしの三行の紙は、要らなかった。
勝手口で紙を渡していたあいだに、この人は裏から入って、粉を置いて、子どもを連れて出てきていた。
洗い場で聞いたのだと思った。ベスは、わたしがどこへ行くと言ったかを知っている。
ベスが、粉屋へ知らせたのだ。
「一人で行ったのですか」
「粉を担いでたよ」
オズワルドは袋を持ちなおした。
「一人でも、二袋は運べる」
ニコは立てなかった。足をやられているのではなく、二日食べていないのだと思った。
「なんで来たんだよ」
ニコが言った。
声が掠れていた。
「あいつら、あんたを呼びたかったんだぞ。おれのことなんか、どうでもいいんだよ。呼ぶための餌だって、あいつらが自分で言ってた」
「はい」
「なんで来たんだよ」
わたしは答えなかった。
答えを持っていなかった。
「あのな」
路地の奥から、女の子が出てきた。
ニコより小さい子だ。パン屋の子だ。膝が擦れて、袖が破れている。
「この子が」
女の子が言った。
「西の橋で、あたしが囲まれてたときに、割って入ったの」
ニコが顔を上げて、その子を見た。
「言うなよ」
「言うよ」
女の子は言った。
「この子、逃げられたんだよ。走れば逃げられたのに、戻ってきた」
わたしはニコを見た。
ニコは目をそらした。血が乾いた側の目だった。
半分は、わたしのせいだ。
わたしが仕事を出した。危ないと分かって出した。
もう半分は、わたしのせいではない。この子は、走れば逃げられた。
全部わたしのせいなら、まだ楽だったと思う。
「あのな」
ニコが言った。
それから、懐に手を入れた。何も出てこなかった。取られたのだ。
「紙はなくなった。でも、覚えてる」
「ニコ」
「ちゃんと聞いてきたぜ」
ニコは言った。
「あの男の名前だ。ルーカス・エインズワース」
わたしは息を止めた。
「妃殿下の兄貴だよ。屋敷の書き物、全部あの男がやってるって、厩の男が言ってた」
エマの兄。
五枚の証言を書いた男は、あの娘の兄だった。
貧しい男爵家。門柱の飾りが片方だけ新しい家。妹が世継ぎを産めば、家が立て直せる。
そのために、五人に紙を渡した。
「危ない話だったからな」
ニコが手を出した。
「倍だ」
わたしは十枚渡した。二十七枚になった。
ニコは銭を握って、それから泣いた。
痛くて泣いたのではなかった。怒って泣いていた。手の中の銭を握ったまま、袖で顔を拭いて、それでも涙が止まらなかった。
「もう二度と」
わたしは言った。
「心配させるな」
ニコが顔を上げた。
わたしは言い直さなかった。
礼の言い方も、謝り方も、わたしは知らない。心配したという言葉が、なぜか先に出た。
ニコは袖で目を拭いて、それから言った。
「……高くつくぞ」
「はい」
「次からは前払いだ。倍で」
「はい」
オズワルドが粉の袋を担ぎなおした。
路地を出るとき、こちらを見ずに言った。
「あんた」
わたしは顔を上げた。
この人はいつも、あんたと呼ぶ。門の前で泥水を飲んだ日も、パンに水をかけた日も、井戸のあとも、そう呼んだ。
オズワルドは袋の口から何かを出して、こちらに放った。
黒パンの端切れだった。乾いている。売り物にならない部分だ。
「先に食え。子どもに食わせる前に、あんたが食え」
「……ニコが」
「あんたが倒れたら、この子が二度目に捕まる」
わたしは端切れを受け取った。
売り物にならない、と言われたから受け取れた。
今日の言い方は、責める声ではなかった。
「次はもっと上手くやれ」
子どもを使うなとは言われなかった。
上手くやれ、と言われた。
この人は、次があると思っている。そして次も、こちらの側にいるつもりでいる。
わたしは頷いた。
オズワルドは袋を担いで、粉屋のほうへ歩いていった。
やめない。
次もニコを使う。わたしには足がなくて、字が読める人間はこの街にほとんどいなくて、そして日数は減っていく。
銭は二十七枚。真珠は三つ。次の払いは十二日後で、五十枚いる。足りない。
あの男は、わたしを殺しに来ていない。
殺せば、紙がどこにあるか分からなくなる。だから待っている。わたしが集め終わったところで、まとめて取る。
つまり、五人そろうまで、あの男は動かない。
そろえた日が、追われる日だ。
次は、逃げ道を先に決めておく。合図も決める。橋を渡らせない。
上手くやれ、と言われたことを、そのまま受け取った。
この人は、次があると思っている。そして次も、こちらの側にいるつもりでいる。




