第13話:侍女
払いの日の朝、霜が降りていた。
路地の水たまりに薄い氷が張って、子どもが踏んで割っていた。あの音がすると、冬が来たことになる。
払いに行く前に、粉屋の台から包みを二つ取った。
銭はまだ払っていない。一か月ぶんの借りになっている。二個で六枚、三十八日ぶん。
借りは、数えるたびに少し重くなる。
真珠を一つ売った。八十五枚。真珠は二つになった。
役所の窓口で五十枚置いて、受け取りの紙をもらった。残りは六十二枚。
この銭と、残った真珠二つを全部売って払いに回せば、四回ぶんになる。四回で五十六日。処刑まで、あと百三十日。
半分にも届かない。しかも銭は、調べるたびに減る。
調べれば、あの子の薪が減る。
わたしはそれを毎回、天秤に載せてから動いている。
三人目を決めた。
アガタと、ヨナス。二人は手の内にある。証言を覆すとは言っていないが、二枚目を増やさないという約束は取れた。
三人目は、エマ付きの侍女にする。
あの日、大広間で一度も詰まらず、順序も間違えずに喋った娘だ。何度も読み上げた文章のようだった。
あの娘が何を書かされたかは、もう分かっている。ルーカス・エインズワースが書いた。
わたしが要るのは、あの娘が何を聞いたかだ。
エマのいちばん近くにいた女だ。あの娘の腹のことを、誰よりも知っている。
名はイルサ。二十四だと聞いた。
三日探した。
冬の路地を歩くと、夕方には足の指の感覚がなくなる。麻の靴だからだ。
脅すものが、何も出てこなかった。
アガタには息子がいた。ヨナスには死んだ妻がいた。この娘には、何もない。
両親は南の村にいるが、六年帰っていない。仕送りもしていない。兄弟はいない。この街に借りもない。病んでいる者もいない。
守るものがない人間は、脅せない。
三日目の夜、わたしは井戸の縁に座っていた。
事情がないと、わたしは動けない。
アガタは怖がっていた。ヨナスは恨んでいた。どちらも、こちらが手を伸ばせる形をしていた。何も持っていない人間には、伸ばす先がない。
それに苛立っている自分に、気がついた。
相手に事情があってほしいと思っている。あれば、こちらの手が汚れずに済むからだ。
洗い場で、ベスが言った。
「あの娘の家から、男物が出るよ」
「男物」
「シャツが二枚と、上着が一枚。娘の一人暮らしの家から出るもんじゃない」
ベスは布を絞った。
「それと、洗い賃を娘が払ってる。男の分も」
わたしはその数を数えた。
シャツ二枚と上着一枚。週に一度。つまり通っている男がいて、その男の洗い物を娘が引き受けている。
「給金は、どうなっていますか」
「知らないよ」
ベスは言った。
「でも、あの娘は同じ靴を三年履いてる。妃殿下のお付きだよ。それはおかしいだろ」
三年、同じ靴。
王太子妃付きの侍女の給金なら、靴は毎年替えられる。替えていないなら、銭がどこかへ行っている。
三年。
銭の話として数えはじめて、その数のところで止まった。
わたしは五年、あの人の隣に立っていた。指輪を返すとき、跡も残っていなかった。
あの娘は三年、同じ靴で石畳を歩いた。歩いたぶんを、どこかの男に渡した。
男に渡している。
証言の代金も、その男に渡したのかもしれない。
もし渡したのなら、この娘が売ったのは恋のためだ。
わたしは井戸の水を見ていた。
アガタは息子の恋を守るために売った。この娘は自分の恋のために売った。
どちらも恋だ。
だが、同じ列に置く気にはならなかった。
人のためなら事情になる。自分のためなら、ならない。
そう思ったことを、わたしはそのとき、正しいと思っていた。
男は、南の門の近くの賭場に出入りしていた。
ニコに三日つけさせた。前払いで十五枚。残りは四十七枚になった。
三日目に、ニコが戻ってきた。
「女房がいる」
ニコは井戸の縁に座って、足を振った。
「子どももいる。二つと、四つくらいだ。西の路地に住んでる」
「侍女の娘は」
「知らねえと思うぜ」
ニコは言った。
「賭場の男が言ってた。宮の女は金づるだから、絶対に会わせねえって」
「その男に、賭場の借りはありますか」
「あったってさ。何年もな」
ニコは足を振った。
「それが、夏の終わりにまとめて消えたって聞いた」
夏の終わり。
あの娘が大広間の証言台に立った月だ。
証言の代金は、その男の借りになった。
この娘が売ったのは、恋のためだった。
わたしは銭を数えた。
四十七枚。
この娘を落とすのに、銭は一枚も要らない。
夕方、宮の裏の勝手口でイルサを待った。
出てきたときの顔で、わたしを覚えていると分かった。門の前で、この娘は主人の腕を取って「帰りましょう」と言った。あのとき、わたしは泥の上にいた。
「何ですか」
イルサは言った。
声に敬語がなかった。
「歩きながら、お話しできますか」
「あなたと歩くところを見られたら、わたしがどうなるか分かってます?」
「西の路地まで、四半刻です」
娘の足が止まった。
「なぜ、西の路地」
「お見せしたいものがあります」
西の路地は、日が落ちるのが早い。
わたしは石の壁の陰に立って、通りのほうを指した。
男が来た。
賭場から帰るところだった。上着が一枚。ベスが洗って返した上着だ。
その男の隣に女がいた。腕に子どもを抱いている。もう一人が女の手を引いていた。
男は女に何か言って、子どもの頭を撫でた。
わたしは何も言わなかった。
白紙の紙で人を一人、街から出した日があった。今日は指を一本、通りへ向けただけだ。
イルサは動かなかった。
男と女と子どもが、路地の奥へ入っていった。戸が閉まる音がした。
娘は、それからしばらく立っていた。
「……いつから」
「わたしは今日、はじめて見ました」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
声が震えていた。
「いつから、あなたは、わたしを調べてたんですか」
「あなたのことは六日前から。あの方は三日前からです」
娘が笑った。笑って、それから息を吸って、また笑った。
「三日」
わたしは頷いた。
「三日で分かることを、わたしは三年知らなかったってこと?」
わたしは答えなかった。
娘は壁に手をついた。それから、その手で口を押さえた。
わたしは待った。
喉の奥が熱くなっていた。ここで止めれば、この娘は今夜だけで済む。明日には忘れるかもしれない。忘れないかもしれないが、少なくともわたしのせいではなくなる。
奥歯を噛んだ。
止めなかった。
弟は牢に入っていない。まだ宮の一室にいる。だが銭は減っていて、あと百二十四日ある。
数えて、口を開いた。
「あなたが嘘をついた場所へ、もう一度立っていただきます」
娘が顔を上げた。
「いま覆せとは言いません。その日が来たら、教えます」
「……なんで、そんな話に」
「それまで、何もしないでください。誰にもこの話をしないでください」
イルサは答えなかった。
壁に手をついたまま、路地の奥を見ていた。戸が閉まったほうだ。
「……あの人、今日も来ます」
娘は言った。
「明日は来ません。三日に一度なんです。来ない日は、来ない理由をわたしが考えるんです。今日は疲れてるんだろうとか、賭場が長引いたんだろうとか」
声が平らになっていた。
「三日に一度の理由が、いま分かりました」
わたしは何も言わなかった。
娘は袖で口を拭いて、それからわたしを見た。
泥の上でわたしを見下ろしたときと、同じ目だった。ただ、そのときはまだ主人の後ろにいた。
「わたしが断ったら、あの人に言うんですか」
「言いません」
わたしは言った。
「言う必要がありません」
娘の顔が変わった。
わたしは、この娘がもう断れないことを知っている。断っても、あの通りは毎日そこにある。
「……あなた」
イルサは言った。
「鬼ですね」
わたしは否定しなかった。
娘は袖で顔を拭いて、それから言った。
「覆します。その日が来たら」
わたしは羽根を渡さなかった。まだ早い。
「でも、あなたのためじゃない」
娘は言った。
「わたしは、あの人に三年ぶん渡した」
娘は袖を握っていた。
「あの日、嘘を言ったのも、あの人の借りを消すためです。妃殿下のためじゃない。……なのに、わたしは妃殿下のお付きで、妃殿下のために嘘をついた女として、あの人に笑われるんです」
声が低くなった。
「返してもらえないなら、せめて、あの女に一つくらい」
あの女、というのがエマだと分かるまで、少し時間がかかった。
わたしはそれを、この娘の事情として数えなかった。
帰り道は二つある。粉屋の前を通る道と、水路をまわる道だ。まわると四半刻長い。
わたしは短いほうを選んだ。
四半刻を惜しんだ。それだけ数えて、それだけで決めた。
その道の途中に誰がいるかは、数に入れていなかった。
オズワルドが戸口にいた。
こちらを見ていた。西の路地から歩いてきた道は、粉屋の前を通る。イルサと二人で歩いていくところも、たぶん見ている。
「あの娘は、妃殿下のお付きだろ」
「はい」
「何を見せた」
わたしは答えなかった。
オズワルドは戸枠に手をかけて、しばらく黙っていた。
「男か」
「はい」
「女房がいたか」
「はい」
「見せたのか」
「はい」
オズワルドは口を開けて、それから閉じた。
「あの娘、泣いてたぞ」
わたしは顔を上げた。
「うちの前を通ったときだ。あんたは前を歩いてた」
オズワルドは言った。
「振り返らなかったな」
わたしは覚えていなかった。
あの娘が後ろで泣いていたことも、自分が振り返らなかったことも、数えていなかった。
オズワルドは戸の内側を見た。台には包みが二つ置いてある。取り置きのパンだった。
それから、包みを取って、奥へ入れた。
「おれは、あんたが人を潰すのは構わねえ」
オズワルドは言った。
「ニコを使うのも、井戸の男を追い出したのも、そういうもんだと思ってる。おれだって、うちの店のためなら似たことをする」
わたしは顔を上げた。
「潰したあとに、振り返らねえのが怖い」
声が低かった。責めている声ではなかった。どこまでこちら側に立っていいのか、決めかねている声だった。
「あんたは、あの聖女と何が違う」
わたしは答えなかった。
答えを持っていなかった。
あの娘は謝りながら井戸に人を置いた。わたしは何も言わずに指を一本向けた。どちらが上品かは分かるが、どちらが違うかは分からない。
オズワルドは口を開いて、閉じた。それから、もう一度開いた。
「……見てるこっちが、息できねえんだよ」
言ってから、自分で舌打ちをした。
余計なことを言った、という顔だった。
オズワルドは戸を閉めた。
その夜、眠れなかった。
粉置き場の隅に座って、外套の裾を触っていた。真珠が二つ。銅貨が四十七枚。
足音がして、ベスが来た。
何も言わずに、隣に座った。
しばらく、二人とも黙っていた。井戸のほうで、夜回りが鉄を叩く音がした。冬は夜回りが増える。凍え死ぬ者が出るからだ。
「あんた」
ベスが言った。
「殿下のこと、好きだったのかい」
わたしはその音を聞いていた。鉄が三度鳴って、それから止まった。
「一度もありません」
ベスは何も言わなかった。
膝を抱えて、井戸のほうを見ていた。
「そうかい」
それだけ言った。
訊いた理由も、聞いた感想も言わなかった。この人はいつも、そういう聞き方をする。
わたしは自分の言ったことを、もう一度頭の中で聞いた。
五年、隣に立っていた。指輪を外したときも、赤い顔をされたときも、何も出てこなかった。
一度もない。
それが本当だということは分かる。だが、それが何を意味するのかは分からない。
イルサは三年、靴を替えずに男に渡した。あの娘には、渡す相手がいた。
わたしには、五年いて、一枚も渡すものがなかった。
どちらが貧しいのかを、わたしはそのとき考えなかった。
三日後、イルサから使いが来た。
紙ではなかった。伝言だった。ニコが預かってきた。
「あの産婆は、エインズワースの家が連れてきた人です」
ニコは口の中で二度繰り返して、間違えずに言った。
「──だそうだ。それだけ」
わたしは井戸の縁から立ち上がった。
あの日、大広間の三人目に立った女。
知らない顔だった、とわたしは思った。
あれは、そういうことだったのか。
払いの日まで、あと五日。銭は四十七枚。真珠が二つ。
粉屋の前を通った。台には、何も置いていなかった。
粉置き場へ戻ると、紙包みがひとつあった。
ミラーの焼き印がない。けれど、まだ温かかった。
紙の端に、白い粉がついていた。
あの店の粉だ。分かっている。
誰が置いたのかを、わたしは数えなかった。
この街に来てから、数えなかったものは一つもない。パンの値も、桶の数も、靴の年数も、全部数えた。
今夜だけ、数えなかった。




