第14話:四十年の帳面
朝いちばんに数えたのは、日だった。
処刑まで、あと百二十一日。払いの日まで五日。
二番目に数えたのは、向こうの足の速さだ。
イルサは喋ったことを隠せる女ではない。三日のうちに、あの家の兄が知る。
先に見つけた者が勝つ。それだけの話だった。
紙包みの紙をたたんで、外套の裏に入れた。中身は昨日のうちに食べた。紙は使える。
粉屋の前を通った。
臼が回っていた。戸も開いていた。
入らなかった。
入って、紙と羽根を貸してくださいと言えば、貸すだろう。あの人は貸す。
言えなかった。
言えない理由なら三つ並べられる。並べても、足は止まったままだった。
わたしは北へ歩いた。
アリョーナは貸金の帳面をめくりながら聞いた。
「産婆の口はいくつもないよ」
指を舐めて、また一枚めくる。
「取り上げを頼む家は決まってる。三十年前から同じだ。あんたが探してるのが上の家に呼ばれる女なら、なおさら少ない」
「何人いますか」
「四人。生きてるのは三人」
「名前を」
「二十枚」
「十五枚で」
「十八」
わたしは十八枚置いた。銭は二十九枚になった。
アリョーナは名前を三つ言った。二人は都の中にいて、一人は分からないという。
「その分からないのが、あんたの探してる女だよ」
「なぜです」
「分からなくなったのが、この夏だからさ」
断罪は夏の終わりだった。
わたしは礼を言わずに立った。この人は礼を取らない。銭を取る。
洗い場のベスは、桶に手を入れたまま言った。
「血のついた布はね、うちには出さないんだよ」
「なぜです」
「嫌がられる。うちらは取るけど、値が違う。倍だ」
「倍を払っている家はありますか」
ベスは手を止めた。それから、隣の桶の女に何か言った。女がまた別の女に言った。三つ先の桶まで行って、戻ってきた。
「北の縁だ。あの物置みたいなとこ。冬から倍で出してる」
「洗い賃を出せるということですか」
「出せるんじゃないよ。出さないと、匿ってもらえないんだ」
布を洗うのに倍を払う女は、自分では洗いに出られない女だ。
ニコが走った。日が落ちる前に戻ってきて、手を出した。
「いるぞ。婆さんだ。ひとりだ」
わたしは払いの日を先に済ませた。
真珠を一つ売って八十五枚。役所の窓口に五十枚。真珠は一つになり、銭は六十四枚になった。
ニコに十五枚渡した。四十九枚。
処刑まで、あと百十六日。
北の縁の物置小屋は、屋根が半分落ちていた。
中に灯りが一つあった。戸は閉まっていなかった。閉められない戸だった。
女は木の箱に座っていた。六十を越えている。手が大きい。爪が短く切ってあった。
怖がっている顔ではなかった。台所番のアガタは、わたしを見て後ろへ下がった。この人は下がらなかった。
疲れている顔だった。四十年、夜に起こされてきた人の顔だ。
荷が足元にまとめてある。
わたしはそれを見て、逃げる支度ではないと分かった。逃げる荷は積み上げない。置いていく荷は、そろえて積む。
「待っておりました」
女はそう言った。
「ヴィルマと申します」
わたしは名乗らなかった。名乗る前に、この人はわたしを見て立ち上がっていた。
「あの日、あなたは呼ばれていません」
わたしは言った。
「はい」
「では、あの方の腹は」
ヴィルマは、床の一点を見た。
「六月の末に、一度だけ診ております」
「六月」
「二十九日でございます。あのとき、二月目に入っておいででした」
「腹を見て分かるものですか」
「腹では分かりません」
ヴィルマは言った。
「月のものの日を伺います。それと、内から診ます。六週を過ぎれば、口のあたりが柔らかくなりますので」
「帳面には」
「聞いた日と、診た日と、月数と、わたしの名を入れて、書いてございます」
「宮のお医者は、月数をお調べになりませんか」
「お調べになります」
「では、なぜ誰も気づかないのですか」
「あのお方が申された日を、書き留められるだけでございます」
ヴィルマは言った。
「月のものの日は、ご本人しか知りません。わたくしどもは、それを伺って数えます。腹を触って数える者は、おりません」
「……あなたが伺ったのは」
「嘘をつく前の日でございます」
息が入らなかった。
小屋の柱に手をついた。手のひらに巻いた布が擦れて、割れたところが開いた。血の匂いがした。自分の血だった。
それから数えた。
六月の二十九日に二月目なら、始まったのは六月のはじめだ。
婚儀は七月の三日だった。子は、その前からいる。
ただ、婚約のあいだに手が早かったのだと言われれば、それで終わる。
あの夜が初めてだったと言える人間が、一人だけいる。
ひと月、早い。
殿下は数えない人だった。誕生日も、約束の刻も、わたしが覚えていた。あの人は覚える必要がなかった。
だから気づかない。
わたしは大広間で、三十個の白いパンを数えて同じ答えを出していた。あれは合っていた。
合っていて、証拠がなかった。
いま、片方がある。
もう片方は、イルサさんが持っている。あの人はあの部屋を整えていた。日を知っている。署名に日付を入れさせればいい。
懐妊税。七月の末から、三か月ぶん。
三十個の白いパンを受け取れなかった、二千九百七十人。あの人たちが払った。
ネルの毛布はそれで買えなかった。リナは母親に売られた。井戸に人が置かれた。
全部、王家の血を引かない子のために取られていた。
王家の世継ぎだという名目で、この街から取られていた。
台所番の女が名簿の話をした夜、わたしは誰を憎めばいいのか分からなかった。誰も盗んでいなくて、落とす相手がいなかった。
いまは分かる。
エマ。ルーカス・エインズワース。そして、あの書付に判を捺した人。
顔が三つある。
地獄に落としてやる、と思った。思っただけで、言わなかった。ここで言えば、この人が怖がる。
「初診の日は、帳面にございますか」
「日と、月数と、わたしの名を入れて、書いてございます」
わたしは息を吐いた。
紙の上で、あの腹の子は殿下の子ではなくなる。
「あなたは、それを言えば殺されると思っていますね」
「思っております」
「荷をまとめておられます」
「はい」
三度目だった。わたしはそれ以上「はい」を言わせないようにした。
「わたしは、あなたを助けません」
ヴィルマが顔を上げた。
「あなたの帳面が要るだけです」
ヴィルマの手が、膝の上で動いた。
「持っていってくださいまし。わたしはここにおります」
「いいえ」
わたしは言った。
「帳面を運ぶ者が死ぬと、帳面は途中で止まります。四十年ぶんが、途中で止まります」
ヴィルマが、わたしの顔を見た。
「ですから、生きていただきます」
「……ございます」
ヴィルマは箱の中から布の包みを出した。開くと、綴じた帳面だった。表紙が二度張り替えてある。
「四十年ぶんです。取り上げた家と、日と、産んだ子の目方まで」
「エインズワースの家に呼ばれた日は」
「載せております」
ヴィルマは指で頁をたどった。
「呼ばれて、何もしなかったことも、載せております。産婆が何もしなかったと書くのは、四十年で一度きりです」
わたしは頁を見た。字が細くて、揃っていた。
「聖堂に、写しを納めてください」
「聖堂に」
「聖堂は焼けません。誰の土地でもありませんから」
ヴィルマは頷いた。それから、書くための羽根を探して、手を止めた。
「灯りが、足りません」
わたしは自分の分の蝋を出した。
二人で書いた。わたしが読み、ヴィルマが書いた。四十年のうち、上の家に呼ばれた日だけを抜いた。それでも二十三枚になった。
書き終わるころ、外で犬が鳴いた。
それから、鳴かなくなった。
灯りが二つ、坂の下を上ってきていた。足音は数えられなかった。三人より多い。
ヴィルマが蝋を消した。慣れた手つきだった。この人は何度も夜に呼ばれている。
わたしは考えた。
隠す場所がない。井戸の裏は水を汲む者が来る。ベスの家は子どもがいる。アリョーナは金を取るが、匿いはしない。聖堂は夜に閉まる。
人一人を、一晩か二晩、隠せる場所。
粉袋の山なら、隠せる。
わたしは戸のほうを見て、それから灯りのほうを見た。
頼めない。
戸が鳴った。
押されたのではなかった。外から、二度叩かれた。
「開けろ。おれだ」
オズワルドだった。
戸を開けると、粉の袋を二つ担いでいた。荷車も引いていた。
「なぜ、来たのですか」
「頼みに来ねえからだよ」
オズワルドは袋を持ちなおした。
「あんたが頼まねえなら、こっちが来るしかねえだろ」
それだけ言って、荷車の粉袋を三つ下ろし、四つ目の口を開けた。
「婆さん、入れ。曲がっても死なねえ」
ヴィルマが袋に入った。オズワルドが口を縛って、荷車に載せ、その上に下ろした三つを積みなおした。
坂の下の灯りが、まだ止まっていた。犬を探しているようだった。
「粉屋が夜に粉を運んで、誰が止める」
オズワルドは言った。
「止めるやつがいたら、粉を売る」
荷車が動いた。わたしは横を歩いた。
「いくらお払いすればいいですか」
オズワルドは前を見たまま言った。
「粉の袋を三つ、あんたが担げ」
荷車には四つしか載らない。婆さん一人が、袋一つぶんの場所を取っている。
わたしは残りの三つを担いだ。
重かった。片方の手のひらが割れていて、粉の袋は肩に載せると布が擦れる。
持ち替えて、また持ち替えて、三つ目で膝が鳴った。
半年前、わたしは水差しを自分で持ったことがなかった。
それでも運んだ。
途中でオズワルドが荷車を止めて、袋の口の縛りを直した。わたしが緩く縛ったところだった。何も言わずに直して、また引きはじめた。
礼は扱えない。代金なら扱える。この人は、それを知っている。
いつから知っているのかは、わたしは数えなかった。
夜明け前、西門。
ヨナスが荷馬車を回してきた。約束のとおり、何も訊かなかった。ヴィルマを荷の下に入れて、麻布をかけ、その上に空の樽を三つ載せた。
わたしは門の内側に立っていた。
自分が出られない門から、人を一人出した。
ヨナスは手綱を上げた。覆すとは、まだ一度も言っていない男だった。
馬車が動きはじめてから、荷の下でヴィルマが動いた。麻布の隙間から、目だけが見えた。
「お嬢さま」
わたしは足を止めた。
「あなたが生まれたときも、わたしが取り上げました」
馬車が門をくぐった。
もう一言だけ聞こえた。
「よく泣く赤ん坊でした」
車輪の音が、坂を下っていった。
わたしは門の内側に立っていた。
あの子は、泣かないでと言った。泥の上を這っているわたしに、そう言った。
あの日から、まだ六十四日しか経っていない。
その前の四十年に、よく泣く赤ん坊が一人いた。
四十年の帳面に、わたしの名も載っていた。
帳面から人を落としてきたのは、わたしだった。
三日後、宮の裏の勝手口でイルサさんを待った。
前と同じ場所だった。前と同じように、この人は水桶を持って出てきて、わたしを見て足を止めた。
「日を教えてください」
「日」
「殿下が、はじめてあの方のお部屋にお入りになった夜のことです」
イルサさんは桶を置いた。
しばらく、そのまま立っていた。
「婚儀の夜でございます」
「その前は」
「ございません」
イルサさんは言った。
「殿下は、婚儀までお部屋にお入りになりませんでした。そういう方です」
そういう方だ。
あの人は形を守る。五年の婚約も守った。破棄も書付一枚で、形どおりに済ませた。
中身は守らない。
「なぜ覚えておられますか」
「支度をしましたから」
わたしは何も言わなかった。
この人は、寝床を整えて、灯りを落として、外で待っていたのだ。三年、自分に何も渡さない男に銭を渡しながら、その支度をしていた。
「その日付を、署名に書き入れていただきます」
「……何のためですか」
「六月のはじめと、七月の三日を並べるためです。あの方が節度を守られたことが、そのまま妃殿下の罪になります」
イルサさんは、それを頭の中で並べたのだと思う。
顔が動かなかった。動かないまま、目の縁だけが赤くなった。
「あの方は」
「ご存じです」
わたしは言った。
「ご存じで、殿下のお子だと触れ回られました」
イルサさんは羽根を受け取って、書いた。名前と、判の場所と、七月の三日と。
字が細かった。三年、帳面をつけてきた人の字だった。
四人目の署名だった。
朝、ニコが聖堂から走って戻ってきて、手を出した。
「納めた。石の箱の中だ。鍵は坊さんが持ってる」
「ご苦労さまでした」
「前払いって言ったろ」
わたしは五枚渡した。四十四枚になった。
真珠は一つ。次の払いまで、あと十四日。
残るのは、薬師一人だった。




