第15話:払わない日
薬師を動かすのに、二百枚かかると分かったのは、払いの日の四日前だった。
わたしの手元にあるのは、真珠一つと銅貨四十四枚。
真珠を売れば八十五枚。合わせて百二十九枚。
払いに五十枚出せば、七十九枚になる。
二百枚には、どちらにしても届かない。
わたしはそれを三度計算して、三度同じ答えを出した。
計算のあとに残るのは、どちらを削るかという問いだけだった。
薬師の店は都の南にあった。
ゲルトは五十くらいで、背が高く、手首が細い。妻がいて、子が二人いる。上の子は店の奥で薬を包んでいた。
わたしが名乗る前に、この人はわたしを見て、包みを持つ手を止めた。
断罪の日、大広間で四人目に立った男だった。
「お帰りください」
ゲルトは言った。
「先月、若い男が来ました。今月も来ました。次は来月です」
「何を言われましたか」
「何も言われません」
ゲルトは奥を見た。子が包みを結んでいる音がしていた。
「何も言わずに、店の中を見て帰るのです。棚を見て、子を見て、それで帰る」
わたしは棚を見た。
薬の瓶が並んでいる。
「あの瓶の底には、番号があります」
わたしは言った。
ゲルトの手が止まった。
「大広間で読み上げられた瓶は、三十二番でした。うちの薬棚に三十二番はありません。三十一番までしかありませんでした」
「……存じております」
「はじめから、ご存じでしたか」
「はい」
ゲルトは一度だけ頷いた。
「番号のない瓶を見せられて、これに毒が入っていたと言え、と言われました」
知っていて、言った。
知っていることと、書くことは別だ。わたしはそれを、この五人で覚えた。
「覆していただきます」
「できません」
ゲルトは言った。
声が震えていなかった。震えていない声のほうが、こちらは困る。
「わたくしが覆せば、この店は明日には棚ごとなくなります。都でわたくしを雇う家はありません。妻と子が二人おります」
「都を出れば」
「銭がありません」
「いくらです」
ゲルトは、少し黙った。
「南の街道の先に、薬師のいない町があります。店を借りて、薬と器を運んで、着くまで食べる。……二百枚です」
わたしは頷いて、店を出た。
値がついた。あとは、払うかどうかだった。
アリョーナは、貸金の帳面を開いてから顔を上げた。
「いくら」
「七十一枚」
「変な数を言うね」
「足りないぶんです」
アリョーナは指を舐めて、帳面を三枚めくった。
表紙が三度張り替えてある。角が丸くなって、糸が見えていた。
「その帳面は、何年ぶんですか」
「四十年」
アリョーナは顔を上げなかった。
「この街で誰が誰に借りがあるか、あたしは全部知ってる。血の繋がりよりよっぽど確かだよ。血は嘘をつくけど、借りは嘘をつかない」
産婆の帳面も四十年だった。
あの人は生まれた者を数えて、この人は借りた者を数えている。
わたしは三か月で、紙を三枚しか集めていない。
アリョーナは帳面を閉じた。
「七十枚までだ」
「一枚足りません」
「あんたに貸せるのが七十枚だってことさ」
アリョーナは煙を吐いた。
「あんたは春に死ぬ。死ぬ女に貸す額は、そこまでだ。それ以上は貸すんじゃなくて、捨てるんだよ」
「利息は」
「十日で十枚。返すのは八十枚」
「高いです」
「情は貸さないよ。銭は貸す」
わたしは受け取った。
ベスは、借りは怖いと言った。もらったら借りができる、買えばそれで終わる、と。
わたしは自分から借りを背負った。買うために借りた。それが同じことなのかどうかは、まだ分からない。
払いの日は、雪の前の日だった。
空が低くて、匂いが違った。この街の人間は、匂いで雪を当てる。
役所の階段を上がるとき、外套の裏の真珠がなかった。朝に売っていた。
銭は百九十九枚あった。借りた七十枚が入っている。
列に並んだ。前に十一人いた。書記の机の上に台帳が開いていて、そこにテオの名がある。
順番が来た。
わたしは窓口の縁に手を置いた。
外套の裏に手を入れた。銭の袋に指がかかった。
指が動かなかった。
四度、この袋からこの窓口へ、五十枚ずつ移した。手が覚えている。覚えている動きを止めるのに、力が要るとは知らなかった。
息が入らなかった。
わたしは列を離れなかった。台帳の縁を見た。木がすり減って、丸くなっている。何人ぶんの名前がここを通ったのだろうと考えた。
それから言った。
「今日は、払いません」
書記が顔を上げた。
「もう一度」
「今日は、払いません」
書記は台帳を見て、羽根を取って、何かを書いた。
「では、扱いを移します」
「はい」
「本日より、罪人としての扱いになります。房は本館の地下です。面会は認められません」
わたしは頷いた。
書記は次の紙を出して、判を捺した。それだけだった。四度通ったこの窓口で、いちばん短い用だった。
階段を下りながら、ゲルトに渡したあとの銭を数えた。
ゼロだった。次の払いも払えない。その次も払えない。
次の払いは十四日後で、そのとき、わたしは十四日ぶん遅れている。
十四日、あの子は理由を知らないまま地下にいる。
わたしは伝えられない。面会が認められない。手紙を渡す先もない。
あの子は、なぜ移されたのか分からないまま移される。それが十四日で終わるとも、わたしは思っていない。
自分がまた何かをしたと思うだろう。あの子は三日ぶんの息を止める癖がある。
それがいちばん痛かった。ほかのどれよりも痛かった。
わたしは階段の途中で足を止めて、それから下りた。
役所を出る前に、もう一つ用があった。
二階の別の窓口だ。土地と地代の書付を扱う列で、並んでいたのは三人だけだった。
古い定めに、条項が一つある。職人の作業場の地代は、年に一度、十分の一より多く上げてはならない。
誰も使っていない。使うには、上限の写しを役所に出して、綴じさせなければならない。
わたしは番地を一つ書いた。
北の水路の先、粉挽きの作業場。
妃殿下は、あの店が誰の土地かを侍女に確かめさせていた。井戸と同じことができる場所だ。
書記は写しを綴じて、受け取りを出した。銭は要らなかった。要ったのは紙一枚と、覚えていた条文だけだった。
わたしは受け取りをたたんで、外套の裏に入れた。
これは計算だ。あの店が潰れれば、この街のパンが止まる。パンが止まれば、数える者がいなくなる。
そう考えて、階段を下りた。
言わないことにした理由は、考えなかった。
ゲルトに渡した銭は、百九十九枚だった。
一枚足りなかった。
わたしが袋を数え直しているあいだ、ニコが横で見ていた。それから、自分の袋から銅貨を一枚出して、机に置いた。
「貸しだ」
「はい」
「利息つきだぞ」
「いくらですか」
「考えとく」
ゲルトは二百枚を数えて、それから羽根を取った。
署名は短かった。手が震えていなかった。この人は、震えない手で嘘を書いて、震えない手で覆した。
大広間に立った五人のうち、四人目を落としたことになる。覆さなかったのは、あの産婆だけだ。
紙が一枚増えた。それだけだった。
雪は三日降った。
井戸に並んでいた老人が、四日目の朝に動かなくなっていた。グレゴルという名だった。桶を二つ持って、いつも列のうしろのほうにいた男だ。前に詰めるのを、他人に譲る癖があった。
毛布は足りていた。薪が足りなかった。
懐妊税は、まだ止まっていない。
わたしは何も止められていない。
紙を五枚持っている。名前も、家も、判の場所も分かっている。それで人が一人、雪の下にいる。
その夜、粉置き場の隅に包みが二つあった。
一つは、切り方が薄かった。
翌朝、粉屋の前を通ったら、臼が回っていた。
「昨日、半分残してただろ」
オズワルドは臼を見たまま言った。
「今日は固いほうを薄く切った」
わたしは何も言えなかった。
残したことを覚えている人間が、この街に一人いる。
それを数えるのが正しいのかどうか、わたしには分からなかった。
夕方、マーサが来た。
はじめてこの街に来た日に石を投げた女で、井戸のときに水を断った女で、泥の上でいちばん前に出た女だ。
煮た水の入った器を置いて、薪を一本、壁に立てかけた。
「いくらお払いすればいいですか」
「取らないよ」
マーサは器を指で押して、こちらへ寄せた。
それから、井戸のほうを見て言った。
「あんた、弟がいるんだったね」
わたしは答えなかった。
マーサは自分の子を数えている。わたしは弟を数えている。
同じものを持っているというだけで、赦されたわけではない。
マーサは何も言わずに帰った。
わたしは煮た水を飲んだ。熱かった。
紙は五枚そろった。
残るのは、書いた男と、判を捺した人だ。
銭はない。真珠もない。アリョーナに八十枚、ニコに一枚、粉屋に二か月ぶんの借りがある。
処刑まで、あと九十五日。次の払いまで、あと七日。
弟は、地下にいた。




