第16話:写しと合図
二度目の払いの日は、七日後だった。
窓口の列に並んで、順番が来て、同じことを言った。
「今日は、払いません」
書記は顔も上げなかった。台帳に線を一本引いて、次の紙を出した。
一度目のほうが長かった。二度目は、木の縁を見る余裕もなかった。
銭はない。真珠もない。借りが八十一枚ある。
わたしはもう、何も買えない。
冬のあいだ、わたしは字を書いていた。
紙は粉屋の帳面の余りをもらった。羽根はニコが拾ってきた。誰の家から拾ったのかは聞かなかった。
五枚の証言を、一枚ずつ写した。
書いたのは名前と日付と、その人が何を頼まれ、何を渡され、いつ渡されたか。それだけ。読める者が読めば、家が一つ落ちる。
六十七枚まで書いた。指の関節が曲がったまま伸びなくなる夜があった。
置く場所は三つに分けた。
鍛冶屋の炭箱の底。鐘楼の梁の上。そして粉屋の粉袋の底。
粉袋のことを、わたしは頼んでいない。
ある朝、包みを取りに行ったら、台の下に空の袋が一つ置いてあった。底が二重になっていた。縫い目が新しい。
「そこなら濡れねえ」
オズワルドは臼を見たまま言った。
「粉屋の袋を開ける役人はいねえ。粉は重いし、粉は汚れる」
「なぜです」
「なぜって聞くな」
オズワルドは臼の口に粉を足した。
「聞かれると、答えを探さなきゃならねえだろ」
わたしはその日、十一枚を袋の底に入れた。
渡す先も決めた。粉を買いに来る職人のうち、字が読める者が四人いる。聖堂の書記が一人。鍛冶屋の甥が、南の市で荷を扱っている。
粉を買いに来るのは、この街の者だけではない。南の市の焼き場。東の水車場。聖堂の裏口。
この街のパンは、この街で止まる。紙は止まらなかった。
一枚渡すたびに、焼くべき紙が一枚増える。都のどこかに増える。誰の手に増えたかは、渡した本人しか知らない。
この人は、燃やされたら死ぬものを、自分の店に置いた。
考えてみれば、わたしはこの人の建物で寝ている。
月に十枚。粉が湿らないように戸を閉める役つきで、四月半になる。
この街に来てから、わたしに手を出そうとした者はいない。
粉置き場にいる女に手を出せば、粉が止まる。粉が止まれば、この街のパンが止まる。三千二百人ぶんだ。
値をつけたときから、そうなっていた。
あの人は一度も、そう言わなかった。
わたしは礼を言わなかった。言えなかったのではなく、言えば「なぜ」を返されると分かっていた。
井戸の椅子は、まだあった。
二度目に置かれてから、二か月が過ぎている。水一杯に銅貨一枚。取り立ての男は前と同じで、名を書かず、受け取りも出さない。
わたしには銭がない。前のときのように白紙を出して脅す手も、もう二度は使えない。同じ手は二度目には通らない。
わたしにあるのは、覚えていることだけだった。
洗い場でベスに言った。
「銭を取る者は、受け取りを書かなければなりません」
ベスが手を止めた。
「そんな定めがあるのかい」
「あります。取り立ての帳面と、払った者の受け取り。両方そろって、はじめて徴収になります。書かずに取れば、それは徴収ではありません」
「じゃあ、何なんだい」
「脅しです」
ベスは桶の水を捨てて、それから言った。
「あんた、なんでそんなこと知ってるんだ」
わたしは答えた。
「うちが、取り立てていました」
ベスは何も言わなかった。
わたしの家は東領と南の水車場から取り立てていた。書式を知っている。定めを知っている。書かずに取ってはいけないことを知っている。
知っていて、一度も確かめなかった。
いまその知識で、井戸を取り返そうとしている。
言ったのはそれだけだった。
あとは洗い場から出ていった。
三つ先の桶から隣の路地へ、隣の路地から鍛冶屋へ、鍛冶屋から井戸の列へ。この街の話は、水と一緒に流れる。
三日目に、ベスが戻ってきて言った。
「日を決めたよ」
わたしは顔を上げた。
「一人ずつだと、断られるんだ。あんたには売らない、って言われて終わり。だから、いっせいに行く」
「刻を決めましたか」
「朝、鐘のあと。桶を持って、全員だ」
わたしは頷いた。
わたしが決めたのは条文だけだ。日と刻を決めたのは、この街だった。
その朝、井戸の前に百四十人いた。
いつもは時刻がばらける。朝に来る者、昼に来る者、夜に来る者。この日は全員が同じ刻に来た。
取り立ての男は椅子に座っていた。最初の女が桶を出して、銅貨を一枚置いて、言った。
「受け取りを、ください」
男は女を見た。
「そんなもん、出さねえよ」
「定めだって聞いたよ」
二人目が桶を出した。銅貨を置いて、同じことを言った。
「受け取りを、ください」
三人目も言った。四人目も言った。
男は紙を出した。持っていたのだ。持っていて、出していなかった。
書きはじめた。名前と、日と、一枚。
十二人ぶん書いて、手が止まった。
列は減っていなかった。
男は列の後ろを見た。井戸の柵の外まで、桶が続いていた。子どもが桶を持って立っていた。老人が桶を持って立っていた。誰も声を上げていない。
誰も水を汲まずに、銅貨を一枚ずつ手に持って、受け取りを待っていた。
男は立ち上がった。
「明日にしろ」
「明日も、全員来るよ」
誰が言ったのかは分からなかった。わたしは列の外にいて、顔が見えなかった。
男は椅子を持って歩き出した。それから、途中で椅子を置いて、そのまま行った。
誰も追わなかった。誰も石を投げなかった。
わたしは列の外に立っていた。
この街は三千二百人いる。追い出せない。一人ずつなら断れる。全員が同時なら、断ることが手続きになる。手続きには、紙と手と時間がいる。
足りないのは、こちらではなかった。
椅子は、三日置いたままにされていた。
四日目に、子どもたちが薪にした。
水は無料に戻った。証文は出ていない。書付も出ていない。ただ、取る者が来なくなった。
あの家は、人を出さなかった。
出せば、書付のない徴収を三千二百人の前で認めることになる。取り返すには、まず自分の非を紙に書かなければならない。
あの家は、それができない家だった。
夕方、井戸のそばを通ったら、女が桶を担ぎながら言った。
「姉さん。次は何を言えばいい」
わたしは足を止めた。
その呼び方をされたことがなかった。
この街に来た日、この人たちはわたしに石を投げた。名を名乗れば黙り、名を名乗らなければ悪徳令嬢と呼んだ。
わたしはその場で、何かを言うべきだったのだと思う。
言えなかった。
代わりに答えた。
「次は、まだありません」
女は笑って、桶を担ぎ直して行った。
その夜、わたしは数えた。
姉さん、と呼んだ人が一人。あの朝、桶を持って立っていた人が百四十人。この街に、三千二百人。
数えているうちに、喉の奥が詰まった。
わたしはそれを飲み込んで、また数えた。
合図を決めたのは、その次の日だった。
あの朝が教えたことは一つだけだ。いっせいなら、止められない。
だが、いっせいにするには、刻を伝えなければならない。字は読めない。触れ回れば漏れる。
「鐘が二つ」
わたしは鍛冶屋の炭箱の前で言った。
「そのあと、鉄を三度」
鍛冶屋は炉から顔を上げた。
「鐘は坊さんが鳴らすんだろ」
「二つだけ鳴らしてもらいます。時課の鐘と数が違えば、聞いた者は分かります」
「鉄は」
「あなたが叩いてください。三度。それが合図です」
「何の合図だ」
わたしは答えなかった。
まだ答えを持っていなかった。
鍛冶屋は炉に鉄を戻した。それから言った。
「三度な。覚えた」
この街は、字が読めない。けれど、音は数えられる。
井戸で通ったからといって、税で通るとは限らない。
井戸は男爵家の徴収だった。懐妊税は王家の徴収だ。定めが同じ書式で書かれているかどうか、確かめなければならない。
聖堂の書記に頼んで、古い写しを二つ出してもらった。王家の徴収について書かれた条文を探すのに、一月かかった。
見つかった。書式は同じだった。
王家の徴収にも、受け取りの定めがある。書かずに取れば、王家がやっても脅しになる。
わたしはそれを、粉を買いに来る職人に一枚ずつ渡した。
冬の底を越えた。
払いの日は、そのあいだに三度あった。三度、窓口で同じことを言った。書記はもう、線も引かなくなった。
三度とも、地下への差し入れを頼んだ。三度、戻された。
どの房にいるのかも聞けなかった。生きているかどうかも、紙の上でしか分からない。台帳にまだ名前が載っていることだけが、分かることの全部だった。
名前が消えていないなら、生きている。
わたしはそれを確かめるために、四度、あの窓口に並んだ。並んで、払わなかった。
だから、書く枚数を増やした。
処刑まで、あと四十日。
写しは六十七枚。三か所に分けて隠した。読める者は都に何百人もいる。焼くには、その全部を焼かなければならない。
街で、わたしを姉さんと呼ぶ者が増えた。井戸の列と、洗い場と、あの朝に桶を持っていた路地だけだ。呼ばない者のほうが、まだ多い。
粉屋の男だけが、変えなかった。
「姉さんって呼ばれてるらしいな」
台の向こうから、そう言った。
「そう呼ばれています」
「おれは呼ばねえよ」
「なぜです」
「姉さんじゃねえだろ」
臼の音が続いていた。わたしはそれを聞いていた。
「では、何です」
オズワルドは臼の縁に手を置いた。
「……なぜって聞くな」
わたしは、変わらなかったほうを数えた。




