表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/21

第17話:隠し場所

 三十五日で、あの言葉が都を回った。


 南の市の焼き場で、二十人が銭を持ったまま並んだ。東の水車場で、粉挽きが同じことを言った。聖堂の裏口の施しの列でも出た。


 受け取りを、ください。


 懐妊税に、受け取りは一枚も出ていない。七月の末から七か月ぶん、都の誰にも出ていない。


 井戸には百四十人いた。都には、四万人いる。


 役所の書記は、都に四十人しかいない。


 書けないものは、取れない。


 それで今朝、門から私兵が入ってきた。


 十二騎。徒歩が三十人ほど。あの家の紋ではなく、紋のない外套だった。紋を出せない用だということだ。


 わたしは井戸のそばにいた。桶を置いて、路地へ入った。


 紙を三つに分ける。一つ取られても、二つ残る。


 それだけを考えて、走った。



 この街は、人を隠すのが上手い。


 昼に足の立たない振りをして、夜に歩いて帰る街だ。名を隠して五年暮らす男がいて、生きているのに名簿に載っていない子がいる。嘘で生きている街は、嘘を隠す型を持っている。


 ベスが洗い場の物干しの下に押し込んだ。濡れた布が三列かかっていた。私兵が二人、その前を通った。布は重い。持ち上げれば水が落ちる。二人とも持ち上げなかった。


 次の路地でマーサの家の戸が開いた。


 マーサは何も言わなかった。顎で奥を示した。


 わたしはこの女に石を投げられた。この街に来た日の朝だった。井戸のときは、水を分けるのを断られた。


 いま、戸を開けている。


 わたしは奥に入った。マーサは戸を閉めて、外で桶を洗いはじめた。桶を洗う音は、人がいない家の音ではない。



 粉屋には昼に着いた。


 オズワルドは臼を止めなかった。止めれば音が変わる。音が変われば、外から分かる。


 わたしは袋の底に一束入れた。二十二枚。


「あと二つある」


 わたしは言った。


「鍛冶屋の炭箱と、鐘楼の梁です」


 オズワルドは臼の口に粉を足した。


「二人で持つな」


「なぜです」


「片方が捕まっても、片方は着く」


 わたしは頷いた。


 この人は、そういう計算をする。わたしと同じ計算をする。同じ計算をする人間が、この街に一人いる。


 オズワルドが炭箱ぶんの束を外套の下に入れた。わたしは残りを持った。


 外に出るとき、この人は何も言わなかった。


 言わないことに、わたしは慣れていた。



 押さえられたのは、水路の橋の上だった。


 三人だった。後ろから外套を引かれて、膝をついた。


 持っていたのは原本の束だ。覆した四人の署名。アガタ、ヨナス、イルサ、ゲルト。それに、ヴィルマが四十年の帳面に添えた一枚。指の跡と、判の場所と、日付が入っている。


 取られた。


 男は束を開いて、上の一枚だけ見て、それから懐に入れた。


 わたしは橋の板に手をついていた。


 一つ取られた。二つ残る。


 写しは聖堂の石の箱にある。鍵は坊が持っている。粉屋の袋の底に二十二枚ある。都に散らした先が六つある。


 焼くには、その全部を焼かなければならない。


 わたしはそれを三度数えて、それから立った。


 男の一人が笑った。


「終わりだよ」


 わたしは答えなかった。


 答えると、この男が原本の枚数を数えはじめる。



 鍛冶屋の路地に入ったとき、炭の匂いがした。


 炭箱の蓋が閉まっていた。閉まっているのは、もう入っているという意味だ。


 鍛冶屋は炉の前にいた。わたしを見て、鉄を叩いた。三度ではなく、一度だけだった。


 合図ではない。返事だった。


 入った。二つ目が入った。


 それから、路地の口で音がした。


 オズワルドが戻ってきていた。炭箱に入れて、こちらへ戻る途中だった。


 私兵が三人、路地に入ってきた。


 わたしは奥へ走らなかった。奥は塞がっている。横の細い抜けへ行くには、路地の口を通らなければならない。


 オズワルドが先に動いた。


 通れる幅は一人だった。この人はそこに立った。


 わたしは横をすり抜けた。


 抜けたときに、音がした。


 布と、それから、布ではないものが切れる音だった。


 振り返った。


 左の脇から腕にかけて、外套が開いていた。開いた線に沿って、色が濃くなっていくのが見えた。粉のついた前掛けが、下から赤くなっていった。


 落ちる血の量が、思っていたより多かった。


 わたしは戻った。


 なぜ戻ったのかは、あとで考えても分からなかった。逃げるほうが正しい。紙が一束残っている。この人は動けない。わたしが捕まれば、鐘楼の梁は誰も埋めない。


 全部分かっていて、戻った。


 外套の裾を裂いた。手が震えていなかった。震えていないのが、自分でも不思議だった。


 脇の上を強く縛った。血が止まらないので、もう一度裂いて、二重にした。手のひらの割れたところが開いて、自分の血が混ざった。どちらの血かは分からなかった。


 わたしは、何をしているのだろうと思った。


 言葉にすると、それだけだった。


 オズワルドが何か言った。


 最初の音だけ聞こえた。


 「あんた」ではなかった。


 続きは聞こえなかった。後ろから髪を掴まれて、引き剥がされた。



 鐘楼へは、広場を渡らなければならない。


 広場に人がいた。


 私兵ではない。都の人間だ。ご大礼の飾りを立てている者たちだった。台と幕と、花を編んだ輪。四日後に、あの娘が通る道だ。


 わたしは広場に入れなかった。


 入れば見られる。見られれば止まる。止まれば囲まれる。


 わたしは横の路地へ戻った。塞がっていた。


 もう一本戻った。塞がっていた。


 三本目で、井戸に出た。


 泥の場所だった。五か月前、わたしがここで頭を踏まれた場所だ。


 背中を打たれて、膝から落ちた。


 打たれたのは四回だった。二回目で口の中が鉄の味になった。三回目で耳が鳴って、四回目の音は聞こえなかった。


 顔は打たれなかった。明日、人に見せる顔だからだ。


 泥の匂いがした。五か月前と同じ匂いだった。



 洗濯物の陰に、ニコがいた。


 立たずに、しゃがんでいた。子どもは低いところにいると見つからない。


 わたしは口の中のものを吐いて、それから言った。


「鐘楼の梁に、もう一束」


 ニコが動かないまま、こちらを見た。


「合図は、鐘が二つ。そのあと、鉄を三度」


 髪を掴まれて、引きずられはじめた。泥が首に入った。


 わたしは言い切らなければならなかった。


「わたしが牢に入ってから、四日目の夜」


 三つ言った。それで足りる。


 ニコは泣かなかった。


「分かった」


 それだけ言った。


 声が変わっていた。この子は、この半年で声が変わりはじめている。



 牢は、宮の本館の地下だった。


 石の壁で、天井が低くて、上のほうに窓が一つある。すみれの匂いはしなかった。まだしなかった。


 放り込まれて、床に手をついた。


 銭はない。真珠もない。借りが八十一枚ある。


 粉屋には、五か月ぶんの借りがある。


 紙は、聖堂と粉屋と鍛冶屋にある。鐘楼はまだだ。


 合図を持っている子どもが一人。


 わたしはそれを数えて、それから息を吐いた。


 奥から、声がした。


「お姉さま」


 息が止まった。


 半年、確かめられなかったことだった。台帳に名前が載っていることだけで、それを確かめたことにしていた。


 声だった。


 わたしは口を開けた。


 開けて、閉じた。


 答えれば、この子はわたしがここにいると知る。知っていれば、明日、この子の前で同じ話をされる。姉が何をしたかを、この子は聞かされる。


 わたしは何も言わなかった。


 膝を抱えて、壁に寄って、口を押さえた。


 押さえた手が、まだ濡れていた。


 あの人の血だった。


 わたしはそれを拭かなかった。



 夜が来た。


 一回目の夜だった。


 処刑まで、あと四日。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ