第17話:隠し場所
三十五日で、あの言葉が都を回った。
南の市の焼き場で、二十人が銭を持ったまま並んだ。東の水車場で、粉挽きが同じことを言った。聖堂の裏口の施しの列でも出た。
受け取りを、ください。
懐妊税に、受け取りは一枚も出ていない。七月の末から七か月ぶん、都の誰にも出ていない。
井戸には百四十人いた。都には、四万人いる。
役所の書記は、都に四十人しかいない。
書けないものは、取れない。
それで今朝、門から私兵が入ってきた。
十二騎。徒歩が三十人ほど。あの家の紋ではなく、紋のない外套だった。紋を出せない用だということだ。
わたしは井戸のそばにいた。桶を置いて、路地へ入った。
紙を三つに分ける。一つ取られても、二つ残る。
それだけを考えて、走った。
この街は、人を隠すのが上手い。
昼に足の立たない振りをして、夜に歩いて帰る街だ。名を隠して五年暮らす男がいて、生きているのに名簿に載っていない子がいる。嘘で生きている街は、嘘を隠す型を持っている。
ベスが洗い場の物干しの下に押し込んだ。濡れた布が三列かかっていた。私兵が二人、その前を通った。布は重い。持ち上げれば水が落ちる。二人とも持ち上げなかった。
次の路地でマーサの家の戸が開いた。
マーサは何も言わなかった。顎で奥を示した。
わたしはこの女に石を投げられた。この街に来た日の朝だった。井戸のときは、水を分けるのを断られた。
いま、戸を開けている。
わたしは奥に入った。マーサは戸を閉めて、外で桶を洗いはじめた。桶を洗う音は、人がいない家の音ではない。
粉屋には昼に着いた。
オズワルドは臼を止めなかった。止めれば音が変わる。音が変われば、外から分かる。
わたしは袋の底に一束入れた。二十二枚。
「あと二つある」
わたしは言った。
「鍛冶屋の炭箱と、鐘楼の梁です」
オズワルドは臼の口に粉を足した。
「二人で持つな」
「なぜです」
「片方が捕まっても、片方は着く」
わたしは頷いた。
この人は、そういう計算をする。わたしと同じ計算をする。同じ計算をする人間が、この街に一人いる。
オズワルドが炭箱ぶんの束を外套の下に入れた。わたしは残りを持った。
外に出るとき、この人は何も言わなかった。
言わないことに、わたしは慣れていた。
押さえられたのは、水路の橋の上だった。
三人だった。後ろから外套を引かれて、膝をついた。
持っていたのは原本の束だ。覆した四人の署名。アガタ、ヨナス、イルサ、ゲルト。それに、ヴィルマが四十年の帳面に添えた一枚。指の跡と、判の場所と、日付が入っている。
取られた。
男は束を開いて、上の一枚だけ見て、それから懐に入れた。
わたしは橋の板に手をついていた。
一つ取られた。二つ残る。
写しは聖堂の石の箱にある。鍵は坊が持っている。粉屋の袋の底に二十二枚ある。都に散らした先が六つある。
焼くには、その全部を焼かなければならない。
わたしはそれを三度数えて、それから立った。
男の一人が笑った。
「終わりだよ」
わたしは答えなかった。
答えると、この男が原本の枚数を数えはじめる。
鍛冶屋の路地に入ったとき、炭の匂いがした。
炭箱の蓋が閉まっていた。閉まっているのは、もう入っているという意味だ。
鍛冶屋は炉の前にいた。わたしを見て、鉄を叩いた。三度ではなく、一度だけだった。
合図ではない。返事だった。
入った。二つ目が入った。
それから、路地の口で音がした。
オズワルドが戻ってきていた。炭箱に入れて、こちらへ戻る途中だった。
私兵が三人、路地に入ってきた。
わたしは奥へ走らなかった。奥は塞がっている。横の細い抜けへ行くには、路地の口を通らなければならない。
オズワルドが先に動いた。
通れる幅は一人だった。この人はそこに立った。
わたしは横をすり抜けた。
抜けたときに、音がした。
布と、それから、布ではないものが切れる音だった。
振り返った。
左の脇から腕にかけて、外套が開いていた。開いた線に沿って、色が濃くなっていくのが見えた。粉のついた前掛けが、下から赤くなっていった。
落ちる血の量が、思っていたより多かった。
わたしは戻った。
なぜ戻ったのかは、あとで考えても分からなかった。逃げるほうが正しい。紙が一束残っている。この人は動けない。わたしが捕まれば、鐘楼の梁は誰も埋めない。
全部分かっていて、戻った。
外套の裾を裂いた。手が震えていなかった。震えていないのが、自分でも不思議だった。
脇の上を強く縛った。血が止まらないので、もう一度裂いて、二重にした。手のひらの割れたところが開いて、自分の血が混ざった。どちらの血かは分からなかった。
わたしは、何をしているのだろうと思った。
言葉にすると、それだけだった。
オズワルドが何か言った。
最初の音だけ聞こえた。
「あんた」ではなかった。
続きは聞こえなかった。後ろから髪を掴まれて、引き剥がされた。
鐘楼へは、広場を渡らなければならない。
広場に人がいた。
私兵ではない。都の人間だ。ご大礼の飾りを立てている者たちだった。台と幕と、花を編んだ輪。四日後に、あの娘が通る道だ。
わたしは広場に入れなかった。
入れば見られる。見られれば止まる。止まれば囲まれる。
わたしは横の路地へ戻った。塞がっていた。
もう一本戻った。塞がっていた。
三本目で、井戸に出た。
泥の場所だった。五か月前、わたしがここで頭を踏まれた場所だ。
背中を打たれて、膝から落ちた。
打たれたのは四回だった。二回目で口の中が鉄の味になった。三回目で耳が鳴って、四回目の音は聞こえなかった。
顔は打たれなかった。明日、人に見せる顔だからだ。
泥の匂いがした。五か月前と同じ匂いだった。
洗濯物の陰に、ニコがいた。
立たずに、しゃがんでいた。子どもは低いところにいると見つからない。
わたしは口の中のものを吐いて、それから言った。
「鐘楼の梁に、もう一束」
ニコが動かないまま、こちらを見た。
「合図は、鐘が二つ。そのあと、鉄を三度」
髪を掴まれて、引きずられはじめた。泥が首に入った。
わたしは言い切らなければならなかった。
「わたしが牢に入ってから、四日目の夜」
三つ言った。それで足りる。
ニコは泣かなかった。
「分かった」
それだけ言った。
声が変わっていた。この子は、この半年で声が変わりはじめている。
牢は、宮の本館の地下だった。
石の壁で、天井が低くて、上のほうに窓が一つある。すみれの匂いはしなかった。まだしなかった。
放り込まれて、床に手をついた。
銭はない。真珠もない。借りが八十一枚ある。
粉屋には、五か月ぶんの借りがある。
紙は、聖堂と粉屋と鍛冶屋にある。鐘楼はまだだ。
合図を持っている子どもが一人。
わたしはそれを数えて、それから息を吐いた。
奥から、声がした。
「お姉さま」
息が止まった。
半年、確かめられなかったことだった。台帳に名前が載っていることだけで、それを確かめたことにしていた。
声だった。
わたしは口を開けた。
開けて、閉じた。
答えれば、この子はわたしがここにいると知る。知っていれば、明日、この子の前で同じ話をされる。姉が何をしたかを、この子は聞かされる。
わたしは何も言わなかった。
膝を抱えて、壁に寄って、口を押さえた。
押さえた手が、まだ濡れていた。
あの人の血だった。
わたしはそれを拭かなかった。
夜が来た。
一回目の夜だった。
処刑まで、あと四日。




