第18話:逆転
外の声は、石の底まで降りてきていた。
「パンをよこせ! 税を返せ! 王を出せ!」
衛兵が怒鳴っている。槍の柄が床を打つ音が、三度、四度。
一刻前、あの娘はここに立っていた。
鉄格子には触れなかった。腹に両手を置いて、下からすくい上げるように撫でた。見せるための手つきだった。
わたしはそのとき、月を数えていた。
七月の末に触れ回られた。婚儀の夜に授かった子だとされている。月数は言われていない。
宮の数え方なら、いまは九月目に入ったところだ。
あの腹は、ひと月ぶん多い。
細い女の腹は、ひと月ぶんの違いを隠す。だから誰も気づかない。気づけるのは、日付を持っている者だけだ。
わたしは何も言わなかった。
言えば、あの娘はここで泣いて、明日の朝までに新しい話を作る。今夜のうちに動いてもらう必要があった。
だから黙って、あの娘を廊下の奥へ帰した。
足音が、戻ってきた。
早い足音だった。裾を持ち上げる余裕のない歩き方だ。
「何なの、あれは」
エマが鉄格子の前に立った。侍女は連れていなかった。松明を自分で持っていた。
初めて、この人の手が汚れていた。松明の煤だった。
「外の声。あれは何」
「税です」
わたしは壁から背を離した。
「妃殿下。懐妊税の受け取りを、お持ちですか」
エマが黙った。
「七月の末から七か月ぶん、都の全員が払いました。受け取りは、一枚も出ていません」
「そんなもの、誰も要求しないでしょう」
「先月から、要求しています」
わたしは言った。
「南の市の焼き場で二十人。東の水車場で粉挽き。聖堂の裏口の施しの列。井戸に並んだ百四十人。同じ言葉です。──受け取りを、ください」
「……それが何」
「書かずに取れば、徴収ではありません」
わたしは続けた。
「役所の書記は、都に四十人しかおりません。四万人ぶんの受け取りは書けません。書けないものは、取れません」
「取れなければ、どうなるというの」
「衛兵の給金が止まります」
エマの目が、初めてこちらを見た。
見るというより、探す目だった。この会話のどこかに嘘があるはずだ、と探している目だ。
嘘はない。それがいちばん困ることだった。
「妃殿下。三人目に立った産婆のことを、伺います」
「産婆」
「あの日、階段のところへ最初に呼ばれた産婆は、別の人です」
わたしは言った。
「あなたのご実家が連れてこられた方が、三人目に立ちました。わたしは、あの顔を知りませんでした」
エマの喉が動いた。
「あの女は、いないわ」
「はい」
「いないの。夏に、いなくなったのよ」
「はい。都からいなくなりました」
わたしは言った。
「西門から、荷馬車で出ました。空の樽が三つ載っていました。わたしはその門の内側に立っていました」
エマの松明が、少し下がった。
「生きています」
わたしは言った。
「ヴィルマは、四十年ぶんの帳面を持っていました。取り上げた家と、日と、産んだ子の目方まで書いてあります。呼ばれて何もしなかった日も、書いてあります」
「そんなもの」
「写しは聖堂の石の箱にあります。鍵は坊が持っています」
わたしは息を吸った。
「聖堂は焼けません。誰の土地でもありませんから」
「薬師の瓶にも、番号があります」
わたしは続けた。
「大広間で読み上げられた瓶は三十二番でした。うちの薬棚には、三十一番までしかありませんでした」
「証言があるわ。五人よ」
「四人が覆しました」
エマが一歩、前に出た。
「台所番のアガタ。御者のヨナス。侍女のイルサ。薬師のゲルト。四人とも、署名しております」
「侍女が」
エマの声が上がった。
「イルサが。あの子が、わたしを」
「あの方は、三年、同じ靴を履いておられました」
わたしは言った。
「証言のための銭を渡した相手に、妻と子がおりました。イルサさんはそれを、三日で知りました。三年知らなかったことを、三日で」
エマは何か言おうとして、口を閉じた。
それから、思い出したように顔を上げた。
「でも、あなたは認めたわ」
声が少し戻っていた。
「大広間で、全部自分がやったと言ったでしょう。毒を買ったのも、瓶を渡したのも、階段の上にいたのも」
「認めました」
わたしは言った。
「認めれば弟を放すと言われましたので」
「認めたことは、消えないわ」
「消えません」
わたしは言った。
「消えるのは、認めた中身を支える紙です」
エマが黙った。
「馬車は出ていません。あの日、蹄鉄を替えていました。ヨナスさんが署名しました」
わたしは指を折らなかった。数える必要がなかった。半年、毎晩数えていたものだ。
「瓶に番号はありませんでした。ゲルトさんが署名しました。あの刻、階段の上に誰もいなかったと、イルサさんが署名しました。台所番のアガタさんも」
「……」
「五人のうち四人が、なかったと書いています」
わたしは一息置いた。
「わたしが認めたのは、なかったことです」
エマの喉が動いた。
「なかったことを認めた紙が一枚。なかったと書いた紙が四枚」
わたしは言った。
「判を捺す者は、どちらを取りますか」
「原本は、三日前の昼に取られました」
わたしは言った。
「橋の上で三人に押さえられました。束は懐に入れられました」
エマの顔が動いた。安堵だった。分かりやすい顔だった。
「ですから、二つ残っています」
わたしは言った。
「粉屋の粉袋の底に二十二枚。鍛冶屋の炭箱の底に一束。鐘楼の梁の上に一束。聖堂の石の箱に二十三枚。都に散らした先が六つ。──焼くには、その全部を焼かなければなりません」
わたしはそこで、はじめて少し声を落とした。
「妃殿下。あなたのご実家は、粉屋の地代を上げられませんでした。上限の写しが役所に綴じてあります」
「……なぜ、そんなことを」
「あの店の粉を、都の焼き場が使っております」
わたしは答えた。
それが答えのすべてではないことを、わたしは知っていた。
残りの部分に、わたしはまだ名前をつけていなかった。
「最後に一つ、伺います」
わたしは立ち上がった。
枷が鳴った。四夜、この石の床に座っていたので、膝が伸びるのに時間がかかった。
鉄格子まで、あと一歩のところに、あの娘は立っていた。
一刻前は、その一歩を踏まなかった。
「ヴィルマは、六月の二十九日にあなたを診ています」
わたしは言った。
「そのとき、二月目に入っておられました。月のものの日を聞き取って、診た日と月数と自分の名を、帳面に書いています」
「……」
「二月目なら、始まったのは六月のはじめです」
エマの手が、腹から離れた。
離れたことに、この人は気づいていない。
「ご婚儀は七月の三日です」
わたしは言った。
「そして殿下は、その夜まであなたのお部屋にお入りになっていません。イルサさんが署名しております。支度をした人だからです」
「……」
「六月のはじめと、七月の三日です。ひと月、早い」
エマが息を止めた。
「殿下は数えない人です。誕生日も、約束の刻も、五年、わたしが覚えておりました。ひと月のずれなど、お気づきになりません」
わたしは言った。
「ですから、あの方はいまも自分の子だと思っておられます」
言葉が、石の壁に落ちた。
「そのお腹の子は、殿下が指一本触れるより前から、そこにおります」
エマの喉が動いた。
「懐妊税は、王家の世継ぎのためだと触れ回られました」
わたしは言った。
「世継ぎではありません。よその男との子です。都は七か月ぶん、その子の名目で払いました」
「黙りなさい」
「日と、月数と、産婆の名が、帳面に書いてあります」
わたしは一息置いた。
「妃殿下。あなたの嘘には、期限があります」
「……」
「それは明日の朝です。わたしが死ぬかどうかで決まります」
わたしは言った。
「わたしが死ねば、証言した五人と、処刑された罪人が残ります。それで通ります。わたしが死ななければ、残るのは日付です」
エマが鉄格子に手をかけた。
両手だった。
この人は、五年、汚れたものに触れたことがない。大広間でも、廊下でも、この牢でも。わたしが泥を這って真珠を拾ったときも、この人は一歩下がっていた。
いま、両手で鉄を握っている。手のひらが白くなるほど握っている。
「あなたが、何をしたっていうのよ」
声が変わっていた。
「あなたが何もしていないから、こうなったんじゃないの。何もしないで、正しい顔をして、殿下の隣に立っていただけでしょう。わたしは働いたわ。ずっと働いた。門柱の片方を直すために」
エマの顔が歪んだ。
「わたしが何をしたっていうのよ!」
わたしは答えなかった。
答えは持っていた。三千二百人ぶんの答えを持っていた。ネルの毛布と、リナの母親と、グレゴルの薪と、名簿に載っていない子の数と、井戸に置かれた椅子と、二千九百七十人ぶんの懐妊税。
全部、この人がしたことだ。
けれど、いま言っても届かない。この人は、言葉で裁かれる場所にはいない。
わたしは、四か月前に泥の上でこの人に教わったことを、そのまま返した。
「妃殿下は、この街のことを考えてくださっています」
エマの手が、鉄格子から離れた。
そのとき、上で音がした。
石の天井が、一度だけ震えた。
衛兵の足音が、廊下を走っていった。奥へではなく、外へ向かって走っていた。
鍵束の音が、遠ざかった。
門は、内側から開いたのだと思った。台所口のほうからも、厩のほうからも、人の声がしていた。
外の声が近くなっていた。
「パンをよこせ!」
声は一つではなかった。数えられなかった。数えられないほど多いというのは、この半年で初めてのことだった。
エマが後ろを見た。
廊下の奥から、灯りが来ていた。松明ではなかった。もっと数が多くて、もっと低い位置で揺れていた。
足音が、石の廊下を鳴らした。
止まった。
わたしの牢の前で止まった。
男が立っていた。
外套の左が黒く濡れていた。乾いていない。左腕が下がったままで、動いていなかった。右手に斧を持っていた。
薪を割る斧だった。刃に炭がついている。鍛冶屋のところで研いだのだと分かった。
顔に粉がついていた。血のほうが多かった。
この人は三日前の昼、路地の口で斬られた。わたしは裾を裂いて血を止めて、それから引き剥がされた。生きているかどうか、知らなかった。
三日で乾いていないのではない。斧を振るために、開いたのだ。
オズワルドはわたしを見なかった。
錠を見た。
そして、後ろへ向かって言った。
「姉さんだ。道を空けろ」
人が動いた。灯りが左右に割れた。
わたしは、それを数えていた。
この人は、その言い方をしないと決めていた。呼ばねえよ、と言った。姉さんじゃねえだろ、と言った。
今夜、使った。
いちばん人が動く言葉だからだ。
取っておいたのではない。使わないつもりだったものを、今夜、出した。
斧が上がった。
「離れてろ」
わたしは壁のほうへ寄った。
一度目で錠がずれた。
二度目で、金具が石の床に落ちた。
鉄格子が、内側へ開いた。
エマは、廊下の壁に背をつけて立っていた。
誰も、この人を見ていなかった。それがこの人にとって、いちばん重いことだったと思う。
わたしは牢から出た。
四夜ぶりに、石の床の外に足を置いた。
階段を上がると、外の空気が入ってきた。
冷たくなかった。
風に、煙の匂いが混ざっていた。
わたしは顔を上げた。
王宮が、燃えていた。




