第22話:次の世代
秋に、ライオネル殿下が北へ送られた。
もう殿下ではない。夏のうちに廃嫡が決まっている。
それでも、五年そう呼んだ口が、まだ直らない。
帳面に判を捺す役は、夏のあいだに終わっていた。二千九百七十人ぶんの名前に判を捺し終えて、それから前線の名簿に載った。
わたしは広場に行った。
見に行ったのではない。北へ送られる者の名と、馬の数と、書付の判を確かめに行った。書記が一人足りなくて、評議会がわたしに頼んだ。
護衛は少なかった。
広場に人がいた。騒いでいなかった。石を投げる者もいない。笑う者もいない。
道を空ける者も、いなかった。
あの人が通ると、人は動かなかった。よけもしなかった。ただ見ていた。
鐙に足がかからなかった。
二度目で乗った。
手綱の握り方が、右と左で違っていた。あの人は五年、隣で馬に乗っていた。握り方はいつも同じだった。
「なぜ誰も止めない」
あの人は言った。誰にも言っていない声だった。
「母上は」
答える者はいなかった。
「エマは」
わたしは訂正しなかった。
あの娘は二月前に死んでいる。
あの人は知らされたはずだ。名簿にも載っている。それでも呼んだ。
「ロザリア」
わたしは顔を上げた。
「おれは、何をすればいい」
あの人は最後まで、誰かに決めてもらいたい人だった。
「数えてください」
わたしは言った。
「北の砦に何人おられるか。何日ぶんの糧があるか。あなたが判を捺した名前が、何人ぶんあったか」
あの人は、わたしを見た。
「一度も数えたことがないでしょう」
馬が出た。
振り返ったのは三度だった。
わたしは馬の数を書き写して、綴じた。
冬の前に、記録官が来た。
第三日に、宮の窓のない部屋で書付を読み上げた男だ。あのとき紙をそろえていた手つきが、そのままだった。
「爵位の復権と、アッシュフォードの姓の返還について、書付が出ております」
紙を出した。判の位置も、書式も、あのときと同じだった。
「要りません」
記録官の手が止まった。
「……お聞き違いでしょうか」
「悪徳令嬢のままでけっこうです」
わたしは言った。
「そのほうが、話が早いので」
井戸に並ぶ人間は、侯爵令嬢には物を頼まない。姉さん、と呼んでいる相手には頼む。
わたしはこの街で、頼まれる側でいなければならない。
記録官は紙を綴じ直した。
「では、そのように」
それだけだった。この人はいつも、それだけだ。
第三日にわたしは、家はもうありませんと言われた。
二年目に、要りませんと言った。
テオは、街の子どもに字を教えている。
最初の生徒はニコだった。銭を取っている。
「教わるのも仕事だからな」
と言って、テオから取ろうとした。ベスに頭をはたかれていた。
テオは十一になった。背が伸びない。半年、あの部屋と地下にいたぶんが、まだ戻らない。
黒板の代わりに、粉を撒いた板を使う。指で書いて、揺すって消す。粉屋が余りをくれる。
この前、板にアッシュフォードと書いていた。
最後まで、一文字も抜けていなかった。
わたしは姓を捨てた。あの子は書けるようになった。
どちらがどうとは、考えないことにした。
出生の帳面を書いた。
名前。アルベルト。
生まれた日。母の名。あの娘が書けと言ったとおりに書いた。
引き受けた者の欄は、空けておいた。
載せれば、探す者が出る。
この一年で、わたしは帳面が人を守るのを見た。井戸が戻ったのは帳面のせいだ。ヨナスの願い出が消えたのも、帳面がなかったからだ。
同じものが、人を殺すのも見た。名前が載っているというだけで、人は探される。
だから、一つだけ空けた。
乳をやっているのは二軒先のハンナで、それはマーサが決めた。わたしは決めていない。決めないことにした。
マーサが帳面を覗いて、言った。
「あんた、そういうことしか言えないんだね」
二度目だった。
わたしは頷いた。そういうことしか言えない。
リナは、洗い場にいる。
ベスの下で数えることを覚えた。桶の数と、洗い賃と、誰が何軒ぶん出したか。
字はまだ読めない。テオの板の前に、いちばん後ろで立っている。
三か月ごとに回されていた娘が、いま、数える側にいる。
アリョーナに借りを返しに行った。
「八十枚と、二年ぶんの利息だ」
値切らなかった。まけなかった。
「情は貸さないよ」
言い方も、二年前と同じだった。
この街で、革命の前と後で何も変わらなかったのは、この人だけだ。
わたしは全部払って、受け取りをもらった。
書式のとおりの受け取りだった。
春になって、オズワルドの左腕の吊りが外れた。
二年かかった。もう上まで上がる。挽くのに支障はないと言った。
わたしが布を巻き直した。最後の一回だった。
脇から腕にかけて、線が走っている。
その下に、もう一本ある。同じ場所だ。塞がりかけたところが、もう一度開いた跡だった。
一つ目は路地の口だ。わたしを通すために、一人ぶんの幅に立った日。
二つ目は牢の前だ。斧を振ったから開いた。
それから左の手首を見た。古い傷がある。粉が入ると白く浮く。この街で覚えた顔は、それが一つ目だった。
三つ目。
肘の上に、細い線が二本。鞭だ。あの娘が振り下ろしたものを、この人が受けた。うちの雇いです、と言って。
四つ目。
四つ数えた。
四つとも、わたしのためについていた。
わたしは布を持ったまま、動けなくなった。
半年、名前をつけずに数えてきたものがある。
喉の奥が熱くなるやつだ。名前のあるものは外へ出たがるから、数えることにしていた。
いま、名前がついた。
ついてから、二年経っていることに気がついた。
「地代、上がらなかったな」
オズワルドが言った。
臼のほうを見ていた。
「あれ、あんただろ」
わたしは答えなかった。
「役所の綴じを見た。上限の写しが入ってる。日付が、あんたが払わなかった日と同じだ」
弟の払いを飛ばした日だ。同じ建物の、二階の別の窓口で並んだ。
「銭は要りませんでした」
わたしはやっと言った。
「要ったのは紙一枚と、覚えていた条文だけです」
ー 完 ー
オズワルドは臼の縁に手を置いた。
「潰したあとに振り返らねえって、言ったな」
わたしは顔を上げた。
「あれ、取り消す」
見ていたのは、こちらだけではなかった。
隠して守っていたのも、両方だった。
「あの日、路地で」
わたしは言った。
「何か、言おうとされましたね」
最初の音だけ聞こえた。あんた、ではなかった。それだけを覚えている。
オズワルドは答えなかった。
臼を止めた。止めると音が変わる。
「ロザリー」
街はわたしを姉さんと呼ぶ。この人だけが呼ばない。
いま、名前で呼ばれた。
あの娘が侮辱に使った呼び方だ。ロザリア様、ロザリー様。同じ音を、この人が出した。
同じ音とは思えなかった。
「……オズ」
わたしはそう言った。
言ってから、これがこの街で、わたしが人を短く呼んだ最初だと気がついた。
それ以上は何も起きなかった。
臼が回りはじめた。
二年目の冬に、北で戦があった。
ライオネル殿下の隊が負けたと聞いた。
捕虜になったとも聞いた。捕虜の交換には値がつく。国が銭を出すか、家が出すか、どちらかだ。
あの人には、つかなかった。
殿下と呼べる者は、もうどこにもいない。
王家の帳面から名前が消えている。返してくれと言う者が、この国に一人もいなかった。
五年、隣に立っていた人だ。
わたしは、その値を数えられなかった。
斬られたと聞いた。どこで、誰の手でかは、書付に書いていなかった。
わたしは日付だけ書き写して、綴じた。
出征の日に書いた紙と、同じ綴じに入れた。
二枚だ。
五年ぶんの日程を書き写してきた人の、最後の二枚だった。
それから、何年か経った。
井戸に順番待ちの列がある。銭は要らない。桶が七つ並ぶ時刻は、いまも同じだ。
パンが焼けている。焼き印がある。
テオの板の前に、子どもが十四人いる。いちばん後ろに、大きいのが二人立っている。
どこかで赤ん坊が泣いている。
誰の子かは書かない。
わたしは、数えるのをやめなかった。
数えるものが、変わっただけだ。
ー 完 ー
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