第21話:鉄格子の、こちら側
わたしの裁きは、半日で終わった。
訴状は書かれ、証人は揃い、判を捺す紙まで用意されていた。求められたのは、認めるという一言だけだった。
あの娘の裁きは、五か月かかった。
読み上げるものが多かったからだ。
産婆の四十年の帳面。六月二十九日、二月目、ヴィルマの名。覆した四人の署名。懐妊税の受け取りが、七か月ぶん、一枚も出ていないこと。
それから、取られたものの名前を全部。
ネル・ミラー。グレゴル。名簿に載っていなかった子。懐妊税を払った、二千九百七十人。
廃嫡された男が、その全部に判を捺した。
名前を読むのに、日がかかる。
王宮が焼けたことでも、家が一つ消えたことでもない。裁くのに五か月かけたこと。この半年で変わったのは、そこだけかもしれない。
子は、裁きのあいだに生まれた。
マーサが取り上げた。わたしはその場にいない。
ご大礼のために織られた白い幕を裂いて、包んだと聞いた。
八月に、呼び出しが来た。
同じ廊下だった。同じ鉄格子だった。
すみれの匂いはしない。石と、鉄の錆の匂いだけがする。
松明はわたしが持っていた。持たせる者がいない。
わたしは鉄格子に片手を置いた。
両手で掴んだのは、あの娘のほうだった。五か月前の夜だ。
こちらから入る一歩は、踏まなかった。踏む必要がなかった。
エマは、麻の粗い服を着ていた。
髪が結われていなかった。
わたしはそれを見て、しばらく何も言えなかった。
断罪の朝、屋敷の侍女がわたしの髪を結った。真珠を七つ挿して、それから泣いた。名を呼んでも返事をしなかった。
結う者がいる、というのは、そういうことだ。
この娘には、いない。
爪が割れていた。手の甲が荒れている。声を出す前に、一度息を吸う癖がついていた。
「……何をしに来たの」
声が低くなっていた。あの高い、語尾の上がる喋り方ではなかった。
「あなたのせいよ」
エマは言った。
「あなたが来なければ、みんな幸せだったのに」
わたしは答えなかった。
この娘は五か月、毎日名前を読み上げられていた。二千九百七十人ぶんの名前を。
それでも、まだ人のせいにしている。
変わっていない。変わっていないことに、わたしは少し安心した。
廊下の端に、マーサが立っていた。
布に包んだものを抱えている。何も言わなかった。
「この子を、どの帳面に載せるかを決めに来ました」
わたしは言った。
エマが顔を上げた。
「出生の帳面に、母の名を書く欄があります。空けるか、書くか。どちらかを決めていただきます」
「……それだけ」
「それだけです」
わたしは外套の下から、綴じた紙を出した。羽根と、砂の小壺も持ってきていた。
赦しに来たのではない。書式のために来た。
この娘には、それが分かる。五か月、書式で裁かれた人だ。
マーサが鉄格子のそばへ来た。
布に包んだものを、隙間から通した。手は離さなかった。
エマは手を出さなかった。
マーサは腕を差し入れたまま、待っていた。しばらく誰も動かなかった。松明の油が落ちる音がした。七つ数えるあいだに、一滴。
子が泣いた。
エマの手が動いた。
抱こうとしたのではない。泣き声を止めようとして出た手だった。それが、途中で抱く形になった。
「首だよ」
マーサが言った。
「そこを支えな。左の腕を通して、そのまま」
エマの手が動いた。言われたとおりに動いた。
この娘は五か月、この子に触れさせてもらえなかった。だから抱き方を知らない。
マーサは、それを知っていて教えた。
教えてから、鉄格子の外へ手を戻した。それでも、腕は下ろさなかった。
エマの腕の形が、少しずつ変わっていった。変わったことを、この娘は分かっていないと思う。
わたしはそれを見ていた。
感想は持たなかった。持たないようにしたのではない。出てこなかった。
「名前を、決めてください」
わたしは言った。
エマは子を見なかった。壁のほうを見て、言った。
「決めてあるわ」
息を吸う音がした。
「アルベルト」
わたしは繰り返さなかった。
三代の王の名だ。この娘は八か月、その名前を持って歩いていた。生まれてくるのが王になる子だと思っていた日から、ずっと。
わたしは書いた。
羽根が紙をこする音がする。砂を振って、指で払う。
「母の名の欄は」
「書いて」
エマは即座に言った。
「消さないで。書いて」
わたしは書いた。
エマ・エインズワース。家名は、貴族の帳面からもう消えている。それでも、この欄には書ける。人の名前を書く欄だからだ。
罰を受ける名前を、子の欄に残した。
母親がやった、二つ目のことだった。
「あなたのことは、最後まで嫌いよ」
エマが言った。
「知っています」
「……でも」
子を抱えたまま、こちらを見た。
「この子を、殺さないで」
わたしは羽根を置いた。
答えは持っていた。持っていたが、それを言うと、この娘は明日まで安心して眠る。
安心させる理由が、わたしにはない。
「この子は、まだ何もしていません」
それだけ言った。
どこへやるとは言わなかった。誰が引き取るとも言わなかった。
エマは何か言おうとして、口を閉じた。
礼は言わなかった。
わたしも待たなかった。
マーサが手を出した。エマは子を渡した。渡すとき、指がしばらく離れなかった。
それも書かなかった。帳面に書く欄がない。
翌朝、わたしは見に行った。
行かなくてもよかった。
五か月前の夜、あの娘はご大礼の衣装のまま、地下まで降りてきた。明日死ぬ女を、わざわざ見に来た。
だから行った。
役人が数人いた。それだけだった。国中の前に立った女の最後に、来ている者が数えられる。
エマが崩れた。
最初は呪った。
「あなたのせいよ」
「地獄に落ちなさい」
それから、乞うた。
「ロザリー様、助けて」
声が高くなった。あの喋り方に戻っていた。
「お願い、助けて。あなたが言えば止まるでしょう。言って。ねえ、言って」
わたしは前に出た。
鉄の柵があって、その向こうにあの娘がいた。
「妃殿下」
わたしは言った。
もう妃ではない。家名も帳面から消えている。それでも、そう呼んだ。
「わたしには、そのお力がありません」
エマの口が開いた。
「爵位も、名前も、殿下も。何ひとつ持っておりませんので」
五か月前の夜、この娘がわたしに言った言葉だ。
言い方だけ変えて、そのまま返した。
エマの顔が止まった。止まってから、崩れた。
わたしは背を向けた。
数えはじめた。階段が十四段ある。廊下の柱が六本。門まで、たぶん八十歩。
後ろで音がした。何の音かは、確かめなかった。
気持ちがよくなかった。
ただ、終わった。
八月だった。
ネル・ミラーが死んだ月だ。一年前の、この月に、税吏がミラー家から鍋と椅子と毛布を持っていった。
誰も、そのことを言わなかった。
マーサも言わなかった。
わたしは数えた。数えただけで、誰にも言わなかった。
階段を上がると、オズワルドがいた。
左腕はまだ吊っている。
何も訊かれなかった。どうだったかも、何を言ったかも、一つも訊かれなかった。
外套を脱いで、マーサの腕の子にかけた。
朝は冷える。八月でも、この石の建物の中は冷える。
それから、わたしの手から帳面を取った。
この人が持つのは紙だ。
わたしは何も持たずに歩いた。
この人はいつも、訊かない。
訊かないことに、わたしはまだ名前をつけていない。




