8.エドガーの転機
エドガーは少しだけ期待していた。
王都へ行ったクラリス様から、一通くらい手紙が届くのではないか、と。
『その後いかがですか。』
『紹介状は役に立ちましたか。』
そんな短い手紙を、どこかで待っていた。
けれど、一週間経っても、二週間経っても、一か月近く経っても何の音沙汰もなかった。
「……そうですよね。」
小さく笑った。
そう、最初から分かっていた。
クラリス様は、そういう人ではない。
『使うかどうかは、ご自身で決めてください。』
あの言葉の意味を、ようやく理解した気がした。
決めるのは私だ。
誰かが背中を押してくれるのを待つことも、誰かに許可を求めることも違う。
引き出しを開けて封筒を取り出す。
王都商会
税務局
会計事務所
一枚ずつ、丁寧に目を通していく。
どの仕事も興味深かった。
数字を扱う仕事や制度を整える仕事。
知らない世界がそこにはあった。
自然と口元が緩んでいた。
……面白そうだ。
その瞬間、自分で驚いた。
仕事を見て、心が躍るなど初めてだった。
応募用紙を机へ広げる。
ペンを持ち深く息を吸う。
まずは名前を書く。
一文字、また一文字。
紙の上に、自分の未来を書いているような気がした。
胸が高鳴る。
なるほど。
これが、ときめくということなのかもしれない。
———
翌日の領地会議にて
収穫量の報告を終え、税制改正の話へと移った。
「リリア。」
伯爵が穏やかに娘へ声を掛けた。
「今回の改正については理解しておきなさい。」
「……はい。」
返事はしたものの、リリア様は書類を見つめたまま動かない。
しばらく沈黙が続く。
「…難しくて。」
小さな声だった。
「数字が多いと、どうしても頭が痛くなってしまって……。」
伯爵は小さくため息をつくとゆっくりとこちらを睨むように見た。
いつもの流れだった。
「エドガー君。」
「はい。」
「説明は?」
反射的に謝罪をしようとする。
『貴方が謝る必要はどこにありました?』
違う、今日は違う。
胸の奥がざわつく。
喉がキュッと締まる。
鼓動がうるさくてたまらない。
伯爵が眉をひそめる。
「どうした?」
会議室が静まり返る。
「何か言いたいことでもあるのか?」
今ならまだ逃げようと思えば逃げられる。
今まで通り謝れば、この場は丸く収まる。
けれど、机の引き出しにしまった応募書類が頭をよぎる。あれは昨夜、自分の意思で書いたものだ。
だったら、今日くらいは自分の言葉で話してみよう。
「……まずは。」
自分の声とは思えないほど震えていた。
「リリア様に、ご相談ください。」
沈黙が痛く感じる。
誰も動かない。
やがて伯爵がゆっくり口を開いた。
「……どう言う意味だ?」
「私はご説明いたします。」
エドガーは伯爵を真っ直ぐ見た。
「ですが、その前に、リリア様ご自身がお考えになるお時間が必要かと思います。」
また沈黙が落ちた。
リリア様は驚いたようにこちらを見ている。
伯爵はしばらく何も言わなかったがやがて低い声で言った。
「……そうか。」
それだけだった。
そのあとは何事もなかったかのように会議が続いていく。
エドガーはゆっくり息を吐いた。
まだ心臓が痛いほど鳴っている。
——怖かった。
けれど、謝らなかった。
いや、謝ることで終わらせなかった。
会議室を出て廊下を歩く。
窓から差し込む光がやけに眩しかった。
ふと足を止める。
……空って、こんなに青かっただろうか。




