10.エドガーは引き継ぐ
翌日から、エドガーは空いた時間を見つけては書類をまとめ始めた。
誰に言われたわけでもなく自分で始めたことだった。
領地ごとの収穫量。
税率改定後の計算方法。
各村の帳簿の見方。
取引商会との契約内容。
担当者ごとの癖。
「この村は雨が続くと収穫量が大きく落ちます。」
「こちらの商会は納期を一日過ぎても問題ありませんが、必ず期限は守ってください。」
「帳簿上は黒字でも、この数字だけは毎年確認してください。」
一つずつ補足を書き残していく。
いつもなら頭の中だけで処理していたことを、誰が見ても分かるように書き起こす。
思っていたよりも時間が掛かった。
いや、思っていた以上に、自分は多くの仕事を抱えていたらしい。
「……こんなにあったのか。」
思わず苦笑する。
今まで当たり前だと思っていた。
だから量など考えたこともなかった。
けれど、引き継ぐ立場になって初めて分かる、これは一人で抱える量ではない。
最後の一枚を書き終え、インクが乾くのを待ってから、丁寧に書類を揃えた。
「……これで。」
心残りはない。
エドガーは静かに立ち上がった。
⸻
伯爵の執務室の前に立つ。
扉一枚。
それだけなのに、足がすくんで動かなかった。
帰ろうと思えば帰れる。
別に今日でなくてもいい。
明日でも、来週でも…。
そう思った瞬間だった。
『貴方のタイミングは、貴方だけが知っています。』
クラリスの声が頭の中で響き、エドガーは小さく笑った。
「…あぁ、本当に…」
軽く息を吐くと扉を叩いた。
コン、コン。
「入りなさい。」
「失礼いたします。」
伯爵は書類から顔を上げる。
「どうした。」
エドガーは一礼した。
「お話があります。」
「言いなさい。」
深く息を吸う。
心臓がうるさかったけれど、不思議と頭は静かだった。
「婚約を辞退させていただきたく存じます。」
沈黙が落ちた。
部屋から全ての音が消えたようだった。
伯爵は瞬きを一つすると
「……今。」
低い声だった。
「何と言った。」
エドガーは目を逸らさなかった。
「婚約を辞退させていただきたく存じます。」
伯爵はゆっくり椅子から立ち上がる。
「理由を聞こう。」
「王都税務局より採用通知をいただきました。」
懐から一通の封筒を取り出し、静かに差し出す。
「王都で働きたいと考えております。」
伯爵は封筒を受け取り、中へ目を通す。
その表情が少しずつ険しくなっていく。
「断りなさい。」
静かな命令だった。
エドガーはゆっくり首を横へ振る。
「お断りいたします。」
再び沈黙が落ちた。
「……なぜだね。」
「私が自分で決めました。」
その一言を口にした瞬間だった。
不思議と、胸の奥から力が抜けていく。
怖い。
それでも逃げたいとは思わなかった。
伯爵はエドガーを見つめたまま動かない。
やがて低く問いかける。
「リリアはどうする。」
エドガーは静かに答えた。
「リリア様、ご自身でお決めになられることかと存じ上げます。」
「……何?」
「私が決めることではございません。」
部屋の空気が凍りついたような緊張感だった。
けれどエドガーは、伯爵から視線を逸らさなかった。
重い沈黙が部屋を支配しているようだった。
伯爵はしばらく何も言わなかったがやがて静かに椅子へ腰を下ろす。
「……そうか。」
低い声だった。
「王都税務局か。」
採用通知を机へ置く。
「それで。」
伯爵は指を組んだ。
「リリアを見捨てると。」
「違います。」
エドガーは静かに首を振る。
「私は、リリア様の人生を決める立場ではございません。」
「君は婚約者だ。」
「はい。」
「ならば支える義務がある。」
エドガーは一瞬だけ目を伏せる。
そしてゆっくりと顔をあげ
「支えることと、代わりに生きることは違うと思います。」
伯爵の眉がぴくりと動く。
「……誰の受け売りだ。」
「受け売りではございません。」
「私が考えた答えです。」
伯爵は立ち上がると窓際へ歩いていく。
背中を向けると
「君は…優秀だった。」
「……ありがとうございます。」
「だからこそ君を選んだというのに」
「ありがとうございます。」
「ですがそれでも、私は王都へ参ります。」
「君は後悔するぞ!」
「するかもしれません。」
「…………」
「ですが、後悔するかどうかも。私が決めます。」
「もういい、出て行け」
「今までありがとうございました。」
一礼して言うが返事はなかった。
エドガーは静かに執務室を後にする。
廊下を歩く。
見慣れた屋敷
見慣れた庭
見慣れた玄関
扉を開けて外へ出る。
「……」
エドガーは大きく息を吸った。
冷たい空気が肺いっぱいに流れ込んでくる。
こんなに深く息を吸ったのは、いつぶりだろう。
胸の奥まで、新しい空気で満たされていくようだった。
「…そうだ」
クラリス様に手紙を出してみよう
そう思いつくとエドガーは小さく笑い帰路へついた。




