這い寄る混沌
「魔王軍の王都までは、どれぐらい掛かるのですか?」
「そうですね、三日もあれば着くとは思います。ここは魔王軍の支配地域ですから戦闘自体は無いと思います。ただ、我々は人間ですから——」
塚本ドクターは最後まで言わなかったが、理解は出来た。
「ダイジョブ、エドいる」
「頼りにしてるよ、エド」
塚本ドクターがそう言うと、エドはその頬を緩めて嬉しそうだった。
途中、狼の群れを見た。
日本では絶滅した野生の狼。
その姿は大型犬よりも、やや小さく見えた。
「もよもとさん、油断しちゃだめですよ。
彼らはリーダの強力な下で、獲物を仕留める恐ろしい獣です」
塚本ドクターの忠告は、まるで心を読まれたようだった。
「でも、動物が好きで獣医師の道を志したんですよね。興味は持ってしまいますか」
塚本ドクターはそう言うと、俺に視線を向けた。
その夜、俺たちはテントを荷馬車の上に設営した。
テントと言っても支柱一本だけを立てて、ロープを荷馬車に張った簡素なものだ。
いざとなったらそのまま逃げられるように。
俺たちには壊滅的に戦闘力が無いのだ。
荷馬車から少し離れて火を起こした。
小さな枝から順に薪をくべた。
赤々とした炎が揺れて、パチパチと火の粉が舞った。
香ばしい匂いが心地よかった。
クツクツと鍋が音を立てた。
干し肉と根菜とトマトを煮込んだ。
空腹に染みる香りが広がると、塚本ドクターとエドが満面の笑みで横に座った。
陽はもう暮れてしまったが、綺麗な満月が周囲を明るく照らしていた。
「ミネストローネ風です」
俺はそう言って、二人の器にスープを盛った。
「懐かしいなぁ」
塚本ドクターは湯気を鼻から吸い込むと、うっとりと目を瞑った。
「玉ねぎがあれば良かったのですがね」
そう言う僕の隣で、エドはもう食べ始めていた。
少し堅いパンをひと千切り。
それを浸して口に入れると、舌の上にゆっくりと味が広がっていった。
干し肉の塩味と油脂、野菜の甘み、トマトの酸味——
パンを千切る指が加速した。
おかわりをしようと、鍋に手を伸ばした時だった。
エドが怖い顔をしてこちらを見た。
「いやいや、まだ沢山あるから......」と能天気に言いかけた時だった。
ドサッ。
何かが倒れる音がした。
それは月明かりの下、木陰の中にさらに濃い影を作った。
地面に這いつくばるのが見える。
立ち上がった俺と塚本ドクターを、エドが止めた。
「ダメ、行くダメヨ」
エドは俺たちの盾となるかのように、前に出た。
ズズ、ズズ......
影は文字通り這い寄ると、その姿を徐々に露わにした。
——狼だ。
銀色の毛並みが満月の光を受けて輝いていた。
だが生活の状況が悪いのか、ボサボサに乱れているようにも見えた。
エドが身を低く構えて、一層の警戒を見せた。
唸るエドの声に被せて妙な音が聞こえる。
グルル、ギュルグルルルー。
俺はエドの肩に手を置いて言った。
「その子、お腹が空いてるみたいだ」
「這い寄る混沌は腹ぺこ狼でしたか。でも、危険には変わりないですね」
「注意します」
塚本ドクターにそう言うと、俺はスープを取りに鍋に向かった。
(玉ねぎが無くて良かった)
そう思いながら。




