520.弟ユキミの生活圏への侵食度合い。危機感を強めるカガネ。俺は、まだ深刻ではないと思っていた。
弟は、ぎょっとした顔で俺を見ている。
「兄ちゃん。いくらなんでも。」
と弟。
「どこそこにいるから、何時までに来い、という指定もなかったが?」
弟の部活仲間ではよくあることかもしれない。
だが、今は楽観的に考えられない状況にいるのだと弟自身に悟らせたい。
「弟さん、部活仲間で集まる場所は決まっていますか?」
とカガネ。
「いえ、決まっていません。SNSの写真に写る店は毎回違いました。全員が揃ったこともありません。」
と弟。
「全員揃ったことがない部活仲間が、全員で催促するくらいやる気を出してすること、か。」
弟を差し出せば助かり、差し出さなければ帰ってこられない旅が待っているせいで必死になっていると説明されても納得する勢いだ。
「弟さんが玄関から外に出るのは命がけよ。」
とカガネ。
「玄関まで行けば、外には出られますよ。」
と弟。
弟の楽観的な見通しには、即釘をさしておく。
「玄関から外に出た途端に、ワンボックスカーに突っ込まれて拉致され、洗脳されて帰ってくるか、ユキミを名乗る別人が帰ってくることになるが?」
お父さんやお母さんのように、と口に出さないのは、まだ確認が取れていないから。
「兄ちゃん、怖いことを考えるのは止めようよ。」
と弟。
そんなことにはならない、と言わないぐらいには。
家族の現状を理解しているか。
「ユキミの元彼女の声を聞かせてきたやつが玄関から入ってきた後、玄関の鍵をかけた音は聞こえたか?
俺は聞いていないが?」
今、この家の玄関は、ドアノブを回して扉を開けるだけで、誰でも入れる。
他人の家の玄関のドアノブを掴むやつに、侵入の意図がないと思い込めるほど、俺の危機感は欠如していない。
害意を持って勝手に上がりこんできたやつと潜んでいたやつが、自ら出ていくときは。
侵入者の目的が達成したときか、侵入させたやつからの撤退指示が出たときだ。
洗面所の扉の外からは、人が立ち去るような足音は聞こえず、廊下にいる人の気配もなくならない。
「うちの玄関に鍵がかかっていない状態を望んだやつがいるんだよね?」
と弟。
「ドアノブを回して扉を開ける前に、鍵を開けるというワンクッションを挟めたら。
家の中にいる人は、ワンクッション分の時間が稼げる。」
「玄関の扉の外に人がいると気付いた瞬間に。
鍵を開けずに玄関から離れることも出来ます。」
とカガネ。
「扉を開け閉めするときが、一番危ない。」
的の大きい胴体と致命傷に繋がりやすい頭が、正面からガラ空きになる。
「ドアノブを握っている方の手は、どうしても塞がります。」
とカガネ。
胴や頭だけでなく、手や腕も大きく動かない。
「ユキミがドアノブを握って扉を開けた瞬間に、扉の脇に待ち構えて、外側から扉を開けたら、難なくユキミを引きずり出せる。」
弟は、両手を組んで手首をぐるぐる回し出した。
「ドアノブを触れなくなるような話は止めてほしいんだけど。」
と弟。
「弟さんが鍵を開けた瞬間に負傷させ、動けなくなった弟さんを引きずり出すことも考えられます。」
とカガネ。
「扉を開けたくなくなりました。」
と弟。
「今の状況で、家の外に出ようとすると、真正面からも背後からも狙われる。」
家の中にも敵がいる。
「じゃあ、どうするんだよ?」
と弟。
「玄関にたどり着く前に、まず、洗面所の扉をどう開けるかです。」
とカガネ。
「家の中にいる敵の排除からだ。」
弟はため息をついた。
「洗面所に居続けるわけにはいかないよね。」
と弟。
「ユキミ、敵の急かしたい思惑に乗るな。」
「そうは言っても、長くは籠っていられないよ?」
と弟。
「時間的な制約があるのは、俺達よりも敵の方だ。」
「なんで?」
と弟。
「弟さんの部活仲間は全員、家を出ることを急かしています。
部活仲間の誘いに乗らない場合。
弟さんに、一刻も早く家から出なければいけない切羽詰まった事情はありますか?」
とカガネ。
首を傾げている弟に、ゆっくりと問うカガネ。
「ありません。朝起きたときは、夕方に買い物に行くつもりでしたが止めます。
今日、明日は家にあるレトルトで十分です。
この後に、買い物に行こうという気分にはなれません。」
と弟。
弟は、話しながら合点がいったらしい。
「俺達には、今日中に家から出ないといけない理由などない。
俺達がすることは、事前準備をしている敵のペース配分を崩すことだ。」
ピピピ、ピピピと電話がなる。
「ユキミには、他にも留守電を入れてくる友達がいたのか?」
「部活仲間からは全員かかってきたよ。」
と弟。
「金剛先輩、金剛先輩に聞くことがあるので、すぐに電話ください。
明日の出勤後じゃ遅いです。
折り返しは今日じゃないと困ります。」
つっけんどんに喋る若い女性の声が、留守電に入った。
「ユキミの知り合いか?」
女性が急いでいることは伝わってきた。
しかし、協力してやろうという気がみじんも起きない。
「職場の後輩。」
と弟。
弟の、女性についての説明が部活仲間のときより素っ気ない。
ピピピ、ピピピとまた電話がなり、留守電に切り替わる。
「田浦です。金剛さん、休みのところ悪いのだけど、尾長さんと話をしてくれませんか?
尾長さんによると、金剛さんならすぐに分かるけれど、金剛さん以外には分からない話だそうです。」
弟よりも気の弱そうな話し方をする男性からの留守電。
「女性が尾長さんで、男性が田浦さんか?」
「うん。尾長さんは後輩で、田浦さんは上司。」
と弟。
「尾長さんという女性が自分勝手に話していたのは、いつものことか?」
「よくある尾長さんだよ。
尾長さんを部下に抱えている田浦さんは、毎日胃薬が手放せないんだって。」
と弟。
「尾長さんは、いつ、弟さんの後輩になりましたか?」
とカガネ。
カガネがさらっと聞いていることは、俺も気になった。
「尾長さんは、俺が二年目のときの新人です。」
と弟。
「上司の田浦さんは、いつからの上司ですか?」
とカガネ。
「俺の二年目のときからです。」
と弟。
カガネと俺は、視線を交差させた。
「ユキミは、尾長さんに仕事を教えているのか?」
「教えていた時期はあるけれど、仕事をしたがらないからもう教えていない。
仕事をしない尾長さんに、仕事をしながら何度も教える時間なんて俺にはないからね。」
と弟。
「仕事をしない新人の指導はお疲れになったことでしょう。」
とカガネ。
同僚や先輩後輩がいる職場ではない俺がコメントすることはない。
「田浦さんと尾長さんのセットで、ユキミの上司と後輩におさまっているのか。」
「ショウタ。弟さんの方が、お父様よりも近くまで入り込まれている。
お父様のときは、取引先と担当者の関係だったわよ。」
とカガネ。
「深刻さは、どちらも変わらないのではないか?
お父さんの勤務先は、お父さんの味方にならなかった。」
カガネは、首を横に振った。
「ショウタ。職場をおさえられている状態で出勤しては、弟さんの身の安全が。」
とカガネ。
「美容整形手術を強制されたお父さんは毎日出社して、毎日自宅に帰ってきている。」
「美容整形手術を受けていない弟さんも、毎日出勤して毎日帰宅しているわよ。今はまだ。」
とカガネ。
カガネの言うことを一拍おいて考えてみる。
「弟が毎日自宅で寝起き出来ていたのは、弟を逃さない包囲網の設置が終わっているから、か?」
「家にいても。
市役所にいても。
家と市役所の往復をしていても。
弟さんが独力で逃げ出そうとすれば。」
とカガネ。
カガネが言わんとすることは言葉にしなくても、俺には分かる。
弟が今日まで無事だったのは。
弟が違う場所へ逃げ出そうとはしなかったからだ。
職場が支援団体に侵食されていることを知らなかった弟は、職場の人に対する不満はあれど、職場である市役所で働き続けた。
今日、俺と実家にいる弟かま話せたのは、弟が市役所勤務を続けていたから。
弟が休みの今日に、帰省してよかった。
俺達には、兄弟で話し合う時間が必要だ。
互いに手が届かなくなり、声が聞き取れなくなるようなことになる前に。
会って話せた。
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