7-乱反射して、
8-乱反射して、
有機は、通学路を歩いていた。もうすぐ、家につく。文化祭の片づけは明日以降に行われる。今日は、四時の閉会式を終えて、すぐの帰宅だった。
午前中に店番をすませていた有機と光祐は、午後からは自由行動だった。有機が光祐に、ありがと、と言って穏やかに笑うと、光祐は少し不服な顔をしていた。それに苦笑いしたけれど、光祐はそれ以上のことは何も聞いてこなかった。
玄関をあけて、ただいま、とひとりごとのように呟く。実の靴以外に、もう一足、きちんと並べられた小さな靴。咲のものだろう。玄関先に座って靴紐を解く。そうしていると、キッチンの扉が開く音がして、有機は振り返った。咲がカバンをもって、後ろ手にドアを閉めていた。
「咲ちゃん、せっかくきてくれたのに、ごめんね」
咲は首を横に振った。
「実は寝ちゃいました」
そう聞いて、有機は困ったように、そっか、と笑った。咲はもう帰るらしい。有機の隣に腰を下ろした。片方ずつ、丁寧に靴を履いていく。
「実が、間違った、って、言ってました」
それを聞いた有機が、肩を揺らしだすのを、咲が不思議そうに見つめた。
「光祐が、迫力あった、って、言ってたよ」
有機がそう言って笑うので、咲も光景を思い出したらしく、苦笑いした。ひとしきり二人で笑うと、有機が小さく息をついた。
「おれのために、怒ってくれたって、光祐が教えてくれた。咲ちゃん、実と一緒にいてくれてありがとう」
こんど、好きなもの作らせて、と有機が笑うと、咲はにっこりと笑った。玄関で咲を見送って、有機はそのままキッチンへ入った。カバンを、なるべく音をたてないように足元へ降ろし、ゆっくりとソファーを回り込んだ。
実は眠っている。瞼を閉じて、スゥ、スゥ、と健やかな寝息が聞こえる。けれど頬に涙の筋をいくつも作っている。小さな体を丸める姿が痛々しくて、有機は息を詰まらせた。それでも喉が震えないように丁寧に呼吸しながら、ゆっくりとソファーの足元へ座る。シートへ両腕で乗り上げてそこへ頬を埋めながら、実の眼もとにそっと手をあてる。指先がペト、ペト、と、涙の痕へはりつく。目尻が赤く腫れてきている。きっとヒリヒリとしてしまうだろうなと、起きたときに感じる実の小さな痛みを想像して、有機は眉を下げた。
あんなに大きな声で実を怒鳴ったのは、記憶の限り生まれて初めてだった。
近付いてきたバイクが、ばるるるる、と家の前を通り過ぎていく。
さぁ、サァアアアアア、と。庭の木々を揺らし、小さなテラスと床を滑って、開け放った窓から、風が舞い込んでくる。指先だけが少しだけ冷たくなってしまう、金木犀の匂いのする風だった。実の、短い巻き毛が揺れる。有機は今度それに手を差しこんで、撫でてやる。髪の毛の奥はほんのりと汗ばんでいて、有機の指先をしっとりとさせた。有機は自分も瞼を閉じた。あんな風に、伸ばされた指先を、跳ね付けたのは初めてだった。
ペリッと、皮張りのソファーが、肌から離れるときのおとが耳に入ってきた。有機ははっと顔をあげた。いつのまにか、顔まで伏せてしまっていた。もしかしたら寝てしまったのかもしれない。でも目の前で薄く目をあける実の頬に、滴のような光がちらちらと舞っているのをみて、ほんの数分しかたっていないのだとわかった。
「ごはん作るね」
そういって離れそうとした手を、実がぎゅっと握ってきた。じっと、有機の手を見つめている。有機は首を傾げて、俯いた実の表情を伺った。きゅっと下唇がつきだしている。
「……実?」
声をかけると、実の唇がゆっくりとひらいた。
「でも、キライ」
実が何に対してそういったのかがわからなくて、何? と聞こうとしたときだった。
「ごめんなさい。でも、わたし、あのひと、キライ。ゆうきの、好き、を」
好き、と。あまりにもあっけなく言われたその言葉に、有機は喉を詰まらせた。
——好き。
「ゆうきの、スキ。を。あんなふうにぶったりするヒトは、キライ。」
実がそう言って両手できゅっと、有機の左手を掴んでくる。
そう言われた途端、彼が、二橋くんが、昇が。
はじめて手を、握ってくれた日の、あの濡れて湿っていた手が、おまえ冷たッ! と言った笑顔が。
実に見つかった夜が。
払われてしまった手が。
あの丸イスに腰掛けた後ろ姿が。
光祐が言った、笑うな、が。
咲の言った、間違ってない、が。
そして実の、なんて率直な、キライ、と、スキ、が。
そして自分が、ずっと。
けっきょく。こうなってさえ。言えなかった言えない、昇への。好き。好き、好きだ。
あんなふうに言われても、はじめて握ってくれた手が。屈託ないあの笑顔が。怒っているような、怯えているような、でも確かに熱を持っていた指先が。丸イスに座っている後ろ姿が。震える声で呟かれた、ごめん、が。
好きだ。と。
そうした日々の全てが、有機の震える喉を突いた。深呼吸しようとしたら失敗して、息をのむような声が漏れる。実がそれを聞いてぱっと顔をあげた。
有機はとっさに口元を押さえた。
「ッごッ、めッ、みのッ」
一度、喋ってしまったら、嗚咽がどんどん溢れて、意味のない音が、口から漏れてくる。有機は実から離れたくて、ぼろぼろと止めどなく溢れてくる気持ちを見せたくなくて。でも実が放してくれなくて。実の、しっとりと湿った手を放せなくて。そうしたら、急に実が身を乗り出した。肩を揺らしていると、頭を引き寄せられた。そして胸の中に閉じ込められた。有機はびっくりして固まって、でも実の微かに膨らみはじめてた胸の温かさと、耳を伝って体の中に落ちてくる鼓動に。顔がくしゃっと歪みそうになって、思わず実の胸に押しつけた。彼と、じぶんとは。どんな方法でなら、こんなふうにならずにすんだんだろう。
今度こそ、途切れ途切れの声を漏らしながら、有機が泣きはじめた。胸がじんじんと湿っていくのを感じながら、実は天井の真っ白をみつめていた。そしてまだ小さな胸に有機を抱いて、思った。
ずっと、いつも、優しい有機。その彼の小鹿のように輝いていた瞳に、わたしは、なんて、なんてッ。
なんてなんにもできないんだろう!
それで実は目を見開いて、真っ黒な瞳をヒタヒタとたゆらせた。有機を胸に抱えたまま、誰かに縋りつきたい衝動に駆られた。助けて、と言いたかった。どうか、誰か、お兄ちゃんを。
実は声に出せないその言葉を、震える喉の奥に押し込めた。有機の頭をぎゅっと抱えて、目をぎゅっと閉じた。じぶんが泣いてはいけない、と思うのに、ほろほろと落ちた小さな滴は、有機の髪に馴染んで溶けた。その涙に気づかれなかったことにほっとする。
そして実は、窓の外をみつめた。
果てしなく澄んだ空をみつめた。そして、当てもなく祈った。
どうか、誰か、おとぎ話のようになんて、贅沢は言わない。王子様じゃなくたっていい。だから、だれか、どうか、お兄ちゃんを、どうかッ!! 実はそう願った。
いつか現れて欲しいと祈った。彼が作る夜のお菓子を、愛を。小鹿のような目の輝きを、恋を。どうか誰か、いつか、手にとりそっと口に運んでくれますように。そしてそれは彼にもひとしく、甘く柔らかものだと。どうか、誰か、と、途方もなく空に祈った。庭の木々を揺らし、小さなテラスと床を滑って、開け放った窓から、風が舞い込んでくる。指先だけが少しだけ冷たくなってしまう、金木犀の匂いのする、風だった。
あのころ。
あの日、実が見上げた、真っ逆さまの青空。
あのころ。
同じクラスの少年を、好きになったあのころ。
有機にとって、それらは世界の全てだった。
〆




