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6-文化祭




 夏の暑さの残る、よく晴れた土曜日の朝だった。実と咲はいつもの公園で待ち合わせをして、中学校へ向かった。ずっと一緒に行く約束していた、今日は有機の中学で文化祭がある。

 

「ゆうにぃのクラスは何やるの?」

 

 はやる気持ちを抑えきれず、二人は速足だった。咲がそう聞くと、実は、ゲームするって、とだけ答えた。学校が近くなると、同じように中学へ向かう人でいつもの通学路はいっぱいだった。正門の前なのに、すでに大賑わいだった。先生と、セーラー服のお姉さん、学ランのお兄さん、はっぴを着た人に、おばけの仮装をした人。そこかしこで、ビラを配ったり、呼び込みをしたりで、通り抜けるだけで大変だった。実と咲は、仮装や配られるビラよりもセーラー服に目を奪われた。二年後、じぶんたちもその服に袖を通す。それを着ているだけで、ずいぶんと大人っぽくみえる。

 二人は比較的人の少ない出入口をみつけると校舎へ入った。もらった案内図をのぞきこむ。

 

「ココじゃない」

 

 咲が案内図の一か所を指差す。二人は、それを頼りに有機のクラスを目指した。ついでだからと、他の学年のクラスも少しまわってみたのは失敗だった。勧誘の生徒にいちいちうちへ寄っていかないか、入らないかと足止めされて、それを断るのに苦労した。目ぼしいクラスもいくつかあったけれど、まず最初だからと、二人は脇目は振らずに有機のクラスを目指した。

廊下に吊るされたプレートをつらつらとながめる。

 

「あれ!」

 

 実が珍しく声をあげて、咲もそちらへ視線を向けた。目的のクラスをみつけて、二人はどちらともなく笑顔になって足早にそこを目指した。他と同じように、廊下がすでに人でいっぱいだった。二人が中を覗くのをためらっていると、受付の女子生徒が声をかけてきた。

 

「小学生? ふたりできたの?」

 

 こども扱いされてしまった。咲が負けじと、頬を紅潮させながら、あの、と言った。

 

「有機さんのいるクラスですか?」

「豊晴くん?」

 

 そう首を傾げた女子生徒のそばにいた別の女子が、実の顔を思わずじっと見つめた。実も、ぱっちりと目を彼女のほうへ向けていた。

 

「……あ! 豊晴くんの妹?! 実ちゃんだっけ?」

 

 ぱっと笑顔になって、そう言われて、実はこっくりと頷いた。そっかーあなたが実ちゃんかあ! となんだか嬉しそうに頷いた彼女は身を翻しながら、こっちこっち! と二人を手招きした。そのスカートの、プリーツのひだに、なんだか目を奪われた。彼女の後ろから、ふたりで教室をのぞく。

 

「豊晴くーん!」

 

 彼女が呼んだ先に、有機がいた。ん? と笑顔で返事をしながら、振り返る。

 

「あ、実、咲ちゃん!」

 

 振り返ると、有機が嬉しそうに手を振って近づいてくる。光祐も一緒に歩いてくる。実と目が合うと、何食わない、といった表情をするので、少し笑った。そうしてる間に有機がそばにいた。目の前までくると、こんどは急に眉を下げた。

 

「きてくれたのに、ごめん。おれいまからちょっと別のとこ行かなくちゃいけなくて」

 

 どうしようかあ。その一連の流れをみていた光祐は、内心、珍しいものをみたと驚いていた。実はいわゆる、ポーカーフェイスだ。そして光祐は、有機もポーカーフェイスだと思っている。実よりも、有機のほうがひとつややこしい。だいたいのとき、ずっと笑顔だ。それは逆にいえば、笑顔で対処できない感情を人前に晒さないということだ。そんな有機でも、実のまえでは、こんなにころころ表情を変えるのかと。少し意外だったのだ。ふーん、と内心で忍び笑いをして、光祐は声をかけた。

 

「俺と一緒にやればいーじゃん」

 

 ひょこっと話に入ってきたので、有機は、え? と珍しく戸惑った表情もしている。光祐は、な? と実に声をかけた。すると咲がずいっと前に立ちふさがった。またあのツンっと鼻さきをあげるポーズで、どうも、とすましている。光祐は思わず苦笑いして実をみた。実が光祐をみあげてこっくりと頷いた。

 

「いつのまにそんな仲良くなったんだよ」

 

 有機に、びっくりというようにそう聞かれたので光祐は、まあ、と適当に答えておいた。

 

「じゃああっちのブースいこう」

「なにするんですか?」

「スライムつくるんだよ」

 

 そう言われて、咲があからさまに顔をしかめた。けれど隣で実が、スライム、と復唱して目を輝かせたので、しかめるだけにとどめたらしかった。

 

「ふたりつれたぞ~」

「おーいらっしゃーい」

 

 気の良さそうな女子生徒が、にっと笑って席を用意してくれた。四人がけの席。実と咲が隣同士で、実の前に光祐が。女子生徒が咲の前に座った。

 

「豊晴くんの、妹さん、実ちゃん。登坂です。出席番号が近くて、いつもお世話になっております~」

 

 女子生徒がそう冗談めかして頭を下げる。実は、こんにちは、と少し明後日の挨拶をしながら同じように頭を下げた。

 

「お友達さんですか?」

 

 咲は、敬語を使ってくれる彼女を気に入ったらしく、永野咲です、と珍しくにこっと笑って返事をした。

 

「じゃあはじめましてでなんなんですけど、スライム作りましょう」

「そんな経験あんまないよな~」

「ひとりごとが大きいお兄さんは置いといてまず紙コップと割り箸を」

 

 華麗にスルーされながら光祐も実の前に紙コップと割り箸を渡した。実は目を輝かせてそれを受け取ると、熱心にスライムの作り方の用紙を読みはじめた。このあいだは少し元気が無いように見えたけれど。ひとまず大丈夫そうなことに、光祐の口元からほっと笑みがこぼれた。と思った矢先だった。

 

 耳につくような小さな嘲笑に、光祐は隣のブースのことを思い出して一瞬眉をしかめた。すぐそこのストラックアウトの係をしているのは、二橋だ。まさか実のまえで。有機の悪口は言わないだろうと、光祐は内心で言い聞かせて苛立ちをかきけしていた。ポンッ、と。腕を軽く打たれて、隣をみる。

 

「肘をついてないで仕事をしたまえ」

 

 登坂さんが軽口を叩きながら困った表情でこちらをみている。あ、っと光祐はわれに返って実をみた。実は光祐をみつめながら首を傾げた。

 

「スライム。きらい?」

「……すきかきらいで考えたことなかったな」

 

 光祐は笑いながら、実の手元を確認した。紙コップのなかで割り箸をかき回すたびに、ぐちゃぐちゃ、と音がする。

 

「なに色にした?」

「透明」

 

 そういって、実が紙コップを傾けてきた。色紅を使わなかったのかと、光祐はそれをのぞきこむ。水分を含んで、ふっくらとしてきた透明のかたまりがある。気泡が入っているのが、少しきれいだと思った。

 

「実、いろつけなかったの?」

「うん。透明」

 

 みせて、と、咲が実の手元をのぞきこむ。ほんとだ、と咲が呟いて、実の方へ顔をあげた。きれい、と。はじめてみるようなにこやかな笑顔に、実にならそんな顔もするのかと、光祐は感心した。種類は違うけれど、有機も実もどことなく人たらしだ。似たもの同士な兄妹に、少し笑いそうになって、光祐は笑みをかみ殺した。そうしているときだった。

 

「妹はレズ」

 

 そう聞こえて、クックック、と忍び笑いが聞こえた。光祐は体中の血が冷たくなっていくような感覚を覚えた。そっちを攻撃するのか。光祐は思わず顔をあげて実の様子を伺った。じぶんにも聞こえていたのだから、実に聞こえているのは当たり前のことなのに。実が、目を瞬いて二橋のことをみつめているから。誰に対しての侮蔑かも、わかってしまったのがみてとれた。それで、光祐は思わず口走っていた。

 

「おまえ。こないだからなんだ」

 

 二橋を見据えながら、光祐はそういった。後ろで登坂さんが、ちょっと、と声をかけてくる。二橋と、きちんと目があったのははじめてだった。二橋は光祐をみながら低い声で言った。

 

「……何が?」

 

 二橋の顔から笑顔が消えたのをみて、光祐は鼻で笑った。

 

「そうやってのってくるってことは、覚えがあるからだよな?」

「は? まじで何言っての」

「あいつがなんも言わねえから、つけあがってるんだよなあ?」

 

 二人が言い争いをはじめているあいだに。実は目を見開いていた。耳の奥から、ざわざわと血が引いていく。

 実はこのあいだからの色んなことが思い出されていた。朝のお菓子が増えたワケ。真夜中のキッチン。光祐とした話。咲ちゃんが読んでた教科書。黒い小さい魚、スイミー。のぼるくん、二橋昇くん、が言った、さっき言った、心ない言葉が、いったい誰に向けられているのか。

 

 そしてあの日。有機の、あの、泣き出しそうな切実な目に、込められた思いを。

 

——妹はレズ

 

 実は目を見開いた。有機のあの、切実な瞳が、思いが、実のなかで鮮明に彩られた。

 

「おまえ意味わかんねえこといって、んな……」

「意味わかんねのはおまえの……」

 

 光祐も、二橋も。一瞬、じぶんたちが言い争っていることを忘れて、口を噤んだ。

 実が立ち上がって、二橋のことを、呆然とみつめていたからだった。みつめながら、じりじりと、二橋の方へ歩みよっていく。ガコ、パシャアアンと。派手な音をあげて、床に置いていたバケツと筆が転がり、色水が広がった。足に水がかかっても。実は少しも気にならないようだった。

 

 実は、じっと二橋昇のことをみつめている。見開かれた目に、光祐は気押されていた。隣でみているじぶんがそうなのだから。二橋の方は、もっと動揺していたのだろう。

 

「なんだよ!」

 

 二橋がそういった瞬間だった。光祐は、あ、と思った。そこからの展開ははやかた。ピシャーンと。実が思いっきり二橋の頬に平手打ちをした。頭を振られて、こんどは二橋が呆然としていた。クラス中の時が、一瞬、止まっていた。

 

「あやまってッ」

 

 静けさのなか、実の低い唸るような声が響いた。年下の、それも小学生の女の子に平手打ちをされた屈辱。そのことよりも、その言葉が昇をカッとさせた。

 

「おまえに何がわかんだ糞ガキ!!」

 

 昇が実の胸倉を掴んだ。昇の友達が二人もそれにはさすがに、おい! と焦って、両脇から昇の腕を掴みにいった。それでも、実は昇の手の甲に爪をたてた。

 

「ガキはあんたのほう! ゆうにぃあやまれ!」

 

 そう叫ぶ実を、光祐が後ろから抱きかかえた。実は昇の手を離さないし、昇の方も実の胸倉を掴んだまま離そうとしない。実の小さい体のどこにそんな力があるのか、光祐でも必死になってとめなくてはならないほどだった。

 

「昇やめろ! まじでまずいって!」

「うるせえ!!」

 

 ばたばたと廊下からする足音が誰のものか。先生がきたのかと、登坂さんはぎくりとして振り返った。それで、廊下の係をしていた女子生徒と一緒に駆けこんできた彼の姿に、少なからずほっとして口を開いていた。

 

「有機くん」

 

 暴れていた実の手から一瞬で力が抜けて。光祐はあと一息で後ろへ倒れるところだった。昇のほうも、有機の姿をみて頭が冷えたらしい。実の服からするりと手を離した。昇の、赤くなった頬。

 それを見た有機は、実が何をしたのかわかって、顔が熱くなった。クラスどころか。きっと実ですらみたことがないような表情で、有機が実を睨みつけた。

 

「バカ!」

 

 実を抱えていた、光祐は、じぶんが言われてもいないのに肩を揺らした。抱えていた実の体が、確かに強張った。教室が静まり返っていた。有機が歩いてきながら、二橋に声をかけた。

 

「保健室に」

「寄るな!」

 

 昇は思わずそう叫んでいた。そのあとで、あ、と。有機の、表情が強張ったのを認めて、思わず視線を反らした。しばらくの沈黙のあとで、……二橋くん、と。有機がいうのが聞こえた。昇は、ぎくりと肩を揺らした。

 

「ごめん、頬、ひやしてきたほうが、いいと思って。ごめん、おれ保健委員だから……」

 

 そう、有機が口を噤んだ。昇が、ぱっと、友達二人の腕を払った。有機の横をなにも言わずに通りすぎて、昇は教室を出て行った。光祐の腕から、するっと。実がぬけだした。有機の方へ、近づこうか、どうか。迷うように、じっとしている。


「実。ごめん。さき、帰って」

 

 有機がそう呟く。その実の瞳がぐらりと揺らぐのを、光祐は見つけてしまう。

 

「帰って」

 

 有機がそう言い切った。呆然としている実の腕を、咲が掴んだ。

 

「門まで一緒に行こう!」

 

 登坂さんがそう言って、二人の背を押した。三人の姿が廊下からもみえなくなるころになって、光祐が口を開いた。

 

「なあ床びっちゃびちゃだし、十分だけ教室閉めない?」

 

 それとなく周りのクラスメイトをみると、全員がくちぐちに了承して、動きはじめた。教室の時間が戻ってくる。

 

「……妹がごめん」

「大丈夫! とくにもの壊れてないし」

「二橋もたいしたことないって」

 

 みんなにそう口々に言われて、有機は苦笑いしていた。光祐が、ちょっとバケツとってくるわ、と歩きだして、有機、と声をかけた。

 

 光祐は有機を廊下へ連れ出すと、近くにある水道ではなく階段の方へ折れた。校舎の端の階段は、文化祭のあいだも生徒しか使えない決まりになっている。


 ざわざわと喧騒が戻ってきた教室と廊下を遠ざかって、二人は二つ目の踊り場まで降りた。水道の上に伏せられていたバケツを、洗い場に降ろす。ガラン、と、ブリキのバケツの音が響いた。蛇口をひねって、水を出す。隣で、有機が同じように水をくむ。ドッドッド、っと音が響く。

 

「……あのさ、有機」

 

 光祐は、ずっと。ずっと、言われるのを待とうかと思っていた疑問を、口にすることにしていた。

 

「二橋のこと」

 

 光祐が言い切る前に、ふふ、と。有機が笑うのが聞こえて、光祐は有機の方をみた。有機は、いつもの笑顔だった。

 

「まあ、寄るなって言われても、仕方ないよね」

 

 そう言って、困ったように、有機が笑う。いつもと同じように、けれどはっきりと違う、歪さで。

 

「笑うな。」

 

 光祐は思わずそう言っていた。有機が、肩を揺らす。

 有機は、光祐から目を反らせなかった。その顔が、怒っているような、それでいて苦しげな表情だったから。

 

「おまえが、おまえの気持ちを笑うな」

 

 有機は、小さく息を詰めた。それでもう、笑うことができなくなってしまった。蛇口をひねりながら、二人ともしばらく押し黙っていた。

 

「……実ちゃん。謝れっていってたよ」

 

 唐突に、光祐がそう言った。有機は、え、と震える喉を押し殺して呟いた。

 

「二橋に、あやまれって、すげえ怒ってた。あのこ、あんなに声出すんだな。けっこう、迫力あったよ」

 

 光祐は困ったようにふっと笑った。それで、有機の方へ顔を向けた。

 

「実ちゃんが、なにを、どんなふうに、知ってたのか。わかんねえけど。謝れって、言ってたよ」

 

 なんの理由もなく。あんなふうに怒るような妹ではないと、わかっていたはずなのに。さっき実の、震える指先を思い出して、有機はゆっくりと息を吐いた。

 

「俺は、正直せいせいしたよ。実ちゃんに、引っぱたかれたアイツをみて。ざまあみろって、思った。でも……でもおまえは違うんだろ?」

 

 そう、光祐に言われて、有機は返事をすることができなかった。

 

「実ちゃんは、あやまれっていってたし、おれはざまあみろって思ったけど。おまえには、おまえの言いたいことがあるんじゃないの。あいつに」

 

 そう言われて、有機はバケツにはられた水をみつめた。

一度ぐっと目をとじて、光祐のほうを見ずに呟いた。

 

「……おれ保健室行ってくる」

 

 光祐は返事をしなかったけれど。

有機は、足早に階段を駆け下りて行った。



9-想い


 有機は保健室のプレートを見上げていた。それから足元に視線を移す。スニーカーが。閉じられた部屋の前に、乱雑に脱ぎ捨てられたスニーカーを、有機は見つめた。家の玄関で、何度もみたスニーカーだった。じぶんのものより、少し小さい。

 

 ドアをあけて、何を、と思って有機は息をついた。本当は告げたいことなんて、一つしかないのだ。有機はいったん目をとじて、息をはいた。もう一度目をあけると、心臓が。心臓が破れそうな音をたてていた。保健室の扉をノックする。ガラガラ、と開けながら、失礼します、と声をかける。先生はいなくて。部屋の奥の、窓のそばの、丸イスに、夏には何度もながめた背中を認めた。氷水の入った袋を、頬にあてていた。こちらを、振り返ろうとはしない。有機は一瞬迷って、それから靴を脱ぐと部屋へ入った。後ろ手にドアをしめる。そうしてしまうと、しばらく、何も言うことができずに。鼓動を耳元にすら感じながら、有機はその背をみつめた。

 

「……頬、だいじょうぶ?」

 

 やっとのことでそういう。けれど、昇は窓の外を見たまま。返事はなかった。

 

「妹が、ごめん」

 

 それでも、何も言われなくて、有機も、もういま思いつく限り。じぶんのなかにある言葉が一つしか思い当たらなくて。震えるのどをおしこめながら、有機はやっとのことで口をひらいた。

 

「……昇、おれ、昇に、言いたい、伝えたい、ことが、あって」

 

 声が上擦るのがふがいなくて。けれどその言葉にも、昇はなにも言わなかった。

 

「あの……あのさ」

「悪かった」

 

 遮るように、呟かれたその言葉の意味を。測りかねて、今度は有機が口を噤んだ。

 

「ずっと……悪かった」

 

 有機は、胸のつかえが、ふととれるのを覚えた。震える指先も、胸も、かわらなかったけれど。その一言は、有機の心を少し軽くしたのは事実だった。

けれど昇が続けた。

 

「もうあんなこと言わねえ。豊晴に、なんもしねえ。だから……寄ってくんな」

 

 はっきりとした、拒絶の言葉に、有機は一瞬だけ息が止まった。

 

「無理。ごめん……無理。」

 

 くしゅっと、ビニールのなかの氷水が揺れるのが聞こえた。有機は、昇の背をみつめた。昼中の光りの中で、昇の指先から水がしたたるのがキラキラとみてとれた。有機は一つ息を吸った。

 

「……そっか。」

 

 さきほどの震える声が嘘のような、静かな声音だった。有機は身を翻すと、ドアを静かにひらいた。からからと、音がする。廊下に出て、靴をはいた。

ドアに手をかけたとき、有機はもう一度昇の背をみつめた。

 

「二橋くん。……ありがと」

 

 そういうと、からからと、ドアが静かに締まる音が聞こえた。廊下を、足音が遠ざかっていく。それがほんの微かになったころ。昇は、頬ではなく両目に氷水の袋を押しあてた。くしゅり、と水とビニールの擦れる音。それから昇が小さく、スンっと、鼻を鳴らす音が、誰もいない保健室に落ちていった。



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