4-お兄ちゃん:光祐
有機に対する違和感。ほんとうのところ、二学期がはじまってすぐに感じていた。ただ、なんとなくでしかなく、どこがどう、と聞かれても答えあぐねるような些細なことだった。だから光祐は、ずっと測りかねていたのだ。
けれどあの日。突然、落ちてきた心ない言葉が、それが気のせいでなく、確かな鋭さをもって有機を傷つけているのだとはっきりとわかった。
あれからさらに数日。学校は、すっかり文化祭ムードだった。本番を一週間後にひかえ、出し物の準備は佳境を迎えていた。
「有機~。ストラックアウトのボールなんだけどさあ」
「またかよ」
近づいてきたクラスメイトの方へ顔を向けながら、光祐は溜息混じりに呟いた。男子生徒はびくりと肩を揺らすと、視線をうろうろと彷徨わせた。光祐と有機は、看板を塗っているのだけれど。さっきから有機がたびたびこうして人に何かを聞かれては離れるというのを繰り返している。
「光祐ごめん」
「わ、わるい作業してんのに」
「有機はおまえらの母ちゃんじゃねえっての」
近づいてきた男子生徒が、だって~! と少し涙目になる。光祐はなかば呆れたように、しょーがねえなあ、と息をついた。
「ひとりでやるから、おまえ備品の流れ全部確認してやれよ。そっちの方がけっきょくはやいって」
有機は、はは、かも、と困ったように笑った。それで、ありがと、と光祐に声をかけると、男子生徒に連れられていこうとした。引っ張られていく様子をみていた他の作業をしていた男子が、からかい混じりに、かあちゃ~ん、と言って周りを笑わせた。それとは別に、モテモテじゃん、というのが聞こえてきた。光祐は声のしたほうを見た。
二橋だった。光祐の視線に気づくと、なんだよ、と鬱陶しそうにした。べつに、と返すと、光祐はペンキの作業に戻った。有機ゲットしたぞー! と備品の担当たちが喜んでいる。教室内の喧騒にさらわれそうな微かな波を、光祐はつかみあぐねていた。
その日の帰り道はひとりだった。残って作業するものもいるのだが、その中に有機の姿も認めた。妹はいいのかと聞くと、今日は母さんが速いから、と言って笑っていた。
廊下に出たとき、光祐、と急に呼ばれて振り返った。一瞬視線を泳がせてから、二橋になんか言われてた? と首を傾げられた。光祐は、いや? と返事をしておいた。物言いたげだったのは一瞬で、そっかごめん、と、有機はいつもの笑顔に戻っていた。そのいつもとかわらない笑顔のなかに、さざ波のように見え隠れするものの正体を。光祐は探ろうとして、やめておいた。ひとりで考えても、憶測の域を出ない。憤懣やるかたなく鼻息をもらしていると、もういつも通る公園の前を過ぎようとしていた。そこで認めた人影に、光祐は足をとめた。
キィ、キィ、と。錆びた鉄が擦れる音をさせながら、ブランコを揺らしているのは実だった。有機の家には、何度も遊びに行っている。実のこともよく見かける。よ、と手をあげると、真顔で、ヨ、と片手を上げ返してくる。
顔は、有機とはあまりに似ていないように思う。実は、楽しそうというよりは、一心不乱、というような面持ちでブランコを漕いでいた。その姿をしばらくみつめて、光祐は思い切って声をかけた。
「実ちゃん」
実はすぐにこちらへ視線を向けた。光祐が歩いて近づいていくと、ブランコを漕ぐのをやめた。ゆっくりとブランコがゆるやかに、実の足の裏が地面をこする。光祐はブランコの柵の前に辿り着いていた。けれど実ではなく、べつの少女に立ちふさがれる。鼻さきをツンっとこちらへ向け、少女が仁王立ちしている。どうみても友好的な態度ではない。
「どちらさまですか。実になんのごようですか」
光祐は一瞬黙って、口を開いた。
「実ちゃんの兄貴、豊晴有機の友達で、日野水光祐だ。実ちゃんに聞きたいことがある」
しばしの沈黙のあと、彼女はすっと体を避けた。
「どうぞ」
「……門番みてえ」
「なにか?」
「なんでも」
光祐は実の前までいくと、ちょっといい? と声をかけた。実はあたりをきょろきょろして一か所を指差した。砂場の周りは、半円形のベンチになっている。光祐は首を縦に降ると、歩いてベンチへどかりと腰を下ろした。右隣に実が、そして反対側にあの少女が。
「……ごめん。きみ、ちょっと外して」
そういうと、彼女はまた鼻さきをツンと光祐の方へ向けた。
「咲です。実の友達です。私とあなたのあいだに、信頼関係はありません。大丈夫です、口は固いです」
「……なんだ、なんか……まあいいや」
そうして奇妙な並びのまま、会話がはじまることになってしまった。光祐は、直接的に聞くのはいくらなんでも、と思った。それでひとまず、気になっていることを聞くことにした。
「あのさ、有機って、さいきんちゃんと飯食ってるの?」
実は少し間をあけると、ごはん? と首を傾げた。黒い瞳をぱちぱちと数度瞬く。実と有機は、顔はそっくりというわけではないのだけれど。同じような仕草をすることがあって、光祐はそれをいつも面白く思っている。
実は、食事のことを聞かれるとは予想していなかったらしい。こちらをじっとみつめてくる。こちらの出方をみるような、真意を探る様な。ネコ科の動物のようなその様子は、実がよくする仕草。有機も、ときおりこういうふうにこちらをみつめてくることがある。ただ実のものは、どちらかというと迫力がある。有機のほうは、このあと必ず、あの柔らかい笑顔で首を傾げてくる。あれをされると、だいたいのクラスメイトはなんでも話してしまいたくなるらしかった。光祐は、その誘いにはまだ乗ったことがない。
実の視線を受け止めて、光祐は話しだした。
「夏休み明けに会ったときにさ、なんか痩せたな、と思って。体調悪くても、あいつ言わないから。ちゃんと食ってんのかって」
実はその言葉を咀嚼するように、しばらく黙ったあと。小さな唇と、それは……、と開いた。
「心配?」
実のこの単語で話すのは癖らしい。はじめて会ったときは少し戸惑ったけれど、二年目の付き合いなのでもう慣れた。心配してるのか、と聞かれている。光祐は自分も、滅多に歯に衣着せぬような話し方をするけれど、実ほどではないと思う。実の言葉はいつも単刀直入。それでいて、真摯だ。
少しむず痒いような気もして、光祐はそれを飲み込んだ。それから、うん、と頷いた。
「心配してる」
そう言い切ると、光祐は少し不思議な気持ちだった。色々考えて、なんだかわからなくなってきていたけれど。いま言葉にしてみて、そうだ、と思った。有機を心配している。
実は、光祐から視線を反らした。心当たりがあるか、考えてくれているらしい。光祐は気長に待つことにして、ふと咲のほうをみた。
咲は教科書を読んでいた。国語の教科書の、物語を読んでいるようだった。
「……お菓子」
ぽつん、と呟くのが聞こえた。教科書から顔をあげた咲は、光祐を越えて実へ視線を向けた。光祐も、実の方へ振り向いた。実は光祐のことをみつめながら口を開いた。
「お菓子、増えた」
二年目の付き合いだが、光祐もさすがに首をひねった。お菓子をよく食べるようになった、ってことか? と考えを巡らせる。
「有機さんが作ってくれるお菓子のことよ」
咲が割って入る。光祐は、え、と声を漏らした。弁当はいつも作ってくるし、家での様子を聞くともなしに聞いている。だから料理の腕がいいというのは知っていたけれど。
「へ~。あいつそんなもんも作れるのか」
「あなた食べたことないの? マドレーヌなんて、絶品なのに」
ついっと鼻先をあげる様子があまりにも得意気だったので、光祐は不覚にもイラッとしてしまった。有機が作るお菓子なんて、食べたことがない。脱線しそうになった思考をもとに戻す。それで、それはつまりどういうことなのか、というところまでは結びつかない。光祐が腕を組みながら実を伺う。と、光祐は思わずぎょっとしてしまった。実の目があまりにも見開かれていたからだった。
「お兄ちゃん。夜作ってる」
「……飯食い終わってからってこと?」
実がふるふると首を横に振った。
「みたことない。だから、真夜中。」
人の口からは聞きなれない言葉で、光祐は反応が遅れた。真夜中。それはつまり、家の誰もが寝静まっているときに作っているということか、と思い至る。一瞬、そのことについて没頭しそうになったけれど、ふとさっきの実の表情の意味に気づいた。実は、さっきそのことに思い至ったのだと思って、光祐はしまった、と一瞬、眉を歪めた。
実が有機をどれほど慕っているのか。それは、今まで兄妹二人でいるのを見ていると十分に理解できていた。必要以上の不安な思いをさせているかもしれないと、光祐は実の様子を伺った。けれど以外にも、実は不安そうではなかった。もともと表情に乏しい性質だが、それよりは、また別のことを考えているような様子だった。するとまた小さな唇は開いた。
「わたしも」
光祐は、ん? と首を傾げた。実が、聞いていい? と首を傾げ返す。それへ頷いてやる。実は珍しく言い淀んだあと、こんどはあの真摯な眼でこちらを見た。
「……のぼるくん、って人、知ってる?」
その名前が、まさか実の口から出てくるとは思っておらず、光祐は一瞬面喰った。
「二橋昇のこと? 実ちゃん、知ってんの?」
「……話したことない。でも、夏休み。家にきてた」
光祐にとっては、ちょっとした衝撃だった。まさか家へ行くほどとは思いもよらなかった。
「……そんな仲良かったのか」
いまの学校での様子を思い出しながら、光祐はそう言わずにはいられなかった。それなら、なおさら意味がわからない。それとは別にはっきりとした感情が芽生えた。それなら、なおさら腹が立つ。
「……なか、いい。っていうか」
光祐は眉間のしわを隠しもせずにいると、実がそう言いかけた。言いかけたけれど、それっきり黙ってしまった。それをみてはっきり思った。実は何か。二人の決定的な、何か思い至ることがあるのだ。
「……なんか、知ってる?」
知ってるのなら、教えて欲しい。光祐がそういう意味を込めて実をみつめた。実はその視線を真っ直ぐ受け止めていた。けれど光祐が待っているのとは間逆の言葉を言った。
「言わない」
光祐は思わず、え? と目を見開いた。にべもなく、言わない、とはっきりさせられるとは思ってもみなかった。光祐が言葉に詰まると、実は光祐から目をそらさずに、またはっきりと言った。
「ひみつだとおもう。だから、言わない」
光祐が、思わず口を噤む。けれど実が、でも、と呟いた。
「……ゆうにぃは、言わないし……言えないんだと、おもう」
実は今度は光祐から視線を反らして話しはじめた。丁寧に、丁寧に。何かを思い起こしているようだった。
「……なんとか、してほしい、って。思ってるわけじゃ、ないとおもう。」
実がそう言い切ったので、光祐は息をついた。だろうな、と、思ってしまったのだった。
「光祐くん。」
呼ばれて、はじめて俯いていたのだと気づいて、顔をあげた。実は、ごめん。と呟いた。光祐は首を横に振って、いいよ、と言った。けれどこんどは実が、違う、と首を横に振った。
「ひみつって言った。けど、わたしは」
そこまで言って。喜怒哀楽の落差に乏しい実の表情が、揺らいだのを見た。彼女はもちろんこどもなのだけれど。こどものように切実な、哀しい瞳だった。
「わたしは、お兄ちゃんには、誰にも、言えないことがある、って。だれかに、知って欲しかった。わたしじゃない、」
だれか。
そう呟いて、実は口を噤んだ。あの、ごめん、は。そのだれかに選んで、ということだろうか。そう思って、光祐は思わずふっと、困ったように笑った。それで思わず弟にするように、くしゃっと実の頭を撫でた。
「実ちゃん、ありがと」
そういうと、実は一瞬きょとんとした顔をして。有機そっくりな笑顔で、ふわっと笑った。
とはいうものの。家に帰って、光祐はひとり部屋で考えていた。ずいぶん窮屈になってきた勉強机に腰かけて。考えていると、だんだんとあの怒りが露わになった。有機のお人好しに腹がたつことがあった。有機にも腹が立つし、相手にも腹が立った。あいつなんだよ、断われよ。
あの野郎、有機がなんもしねえことにつけあがりやがって。俺だったら……
「……ん?」
そこまで考えて、日野水は考えるのをやめた。俺だったらって、なんだ。と思わず首を振った。例えば自分が有機とケンカすんのか、と知らず溜息をついた。




