3-朝のおかし:実
東の空がシャラシャラと輝きだす時間。タオルケットにくるまって、健やかな寝息をたてていた実は、パチン! と。スイッチを入れられたように突然に目を開いた。カッ、チッ、コ、チッ、カッ、チッ、コッ、チ、もちろん。目覚ましはまだ鳴っていない。本当はかける必要もない。なてったって夏休みだ。それでも実の朝は蝉よりも早い。
ベッドから起きだして部屋を出る。誰も起こさないように、階段をひっそりひっそり降りる。素足の裏を、床にひったりと張りつけながら、やっと一階の廊下へ出る。実はキッチンのドアノブを下げた。カチャリ、という音の隙間から室内をのぞく。やはり誰も起きていない。
部屋はカーテンを閉めているために薄暗い。カウンターの上には未開封の郵便物が折り重なっている。その隣で、もう数週間も前に母が買ってきたっきりのリンゴが、傾ぐように置かれている。お尻が歪んでいるらしく、あそこに座ったきりずっと傾いている。食べられるのを待っているのだ。その向こうで、冷蔵庫がジィーっと音をたてている。それっきりだ。まだみんな眠っているのだ。
実は早速、大きな窓へ近づいた。カーテンを静かに、丁寧にあける。そしてできるだけきっぱりと鍵を外す。カチンッ! と音がするような具合に。そして、からからと静けさをもって窓を開ける。雲のない、うらうらと透明な空だった。風がないのが少し残念だった。けれど家の塀の向こうを、自転車が走り抜けていくのがわかった。
実は振り返った。キッチンはまだ静かだ。ふと、四人がけのダイニングテーブルに、昨夜にはなかったものを認める。実は近付いていった。そして目を輝かせた。大皿に、マドレーヌがのっている。丸いお皿にそって、マドレーヌも円を描くようにまぁるくのせられている。
お皿の下からメモが出ている。
『スキにたべてください ゆうき』
実は読み終わるがはやいか手を伸ばそうとして、ピタリととまった。いっしゅん考えて、やっぱりその手をひっこめた。
まずカウンターの内側へまわった。コンロの下の扉を開けて、小さなめのボールをとりだす。ボールをもって冷蔵庫へ向かう。製氷機の引き出しをあけて、氷をひとすくいボールの中へ。氷が、カランカラン、とボールの中をいったりきたり。今度はシンクへ。ハンドルを下げると、そこへたっぷりのみずをくむ。それから、カウンターに鎮座しているリンゴをボールへ沈めた。リンゴは、細かなあぶくをたてるとボールの底へ沈んだ。そこでも、やっぱり斜めになっている。実はそれを、窓のソバへ置いた。そうしてしばらくリンゴを眺めた。それから、脱衣所へ向かって、手を洗った。きちんと石鹸で泡をたてたし、タオルで手を拭いた。それからまたキッチンへ入り、冷蔵庫から牛乳をだした。実専用のマグカップに、真っ白のそれをたっぷりとそそぐ。
こうしてようやく、実は席についた。そして小学校でするように、じぶんで号令をかけた。
「手をあわせてください」
パンッ
「いただきます」
実はマドレーヌに手をのばした。ながしかくのを手にとる。マドレーヌはしっとりと、指先に吸いつくようだった。半分を口に含んで歯をたてる。生地はやわらかくて、舌のうえにバターの香ばしさとまるいあまさが広がる。実はそれを一つ食べてしまうと、そこからいっぺんに三つもたいらげた。
アニメをみた。五人の戦士が変身するアニメ。それから、女の子の二人組が変身するアニメ。それから絵本を読んだ。そうこうしてる間にいつもは学校へ行く時間になり、実は洗面所へ行って顔を洗った。歯も磨いた。それから降りてきたときと同じように、そうっとそうっとじぶんの部屋へ戻った。
薄桃色のキュロットスカートに、パフスリーブの白いシャツを着た。斜めがけの黄色のポシェットに、おこずかいと、みどり色のどんぐりの入ったガマ口と、ハンカチと、ティッシュをいれた。それからもういちど一階へおりた。サランラップをぴっときって、マドレーヌを二つ包むと、ポシェットにだいじにしまった。一つはじぶんの、もうひとつは咲ちゃんのぶんだった。実は、有機が置いていたメモの下へじぶんも鉛筆でかいた。
『ごちそうさまでした』
ベランダのそばへ駆け寄る。りんごの様子を伺う。まだきもちよさそうにしているので、実は水を入れ替えてやることにした。またたっぷりの水をそそいで、氷もいれて、そして陽の照りはじめたベランダにそっとおいた。そうして、実は玄関のカギを外す。ちいさな声で、いってきます、をいって駆けて行った。
咲ちゃんとは公園で待ち合わせしている。二人で歩いて、図書館へ行った。お昼には表にあるベンチで、咲ちゃんのおばあちゃんが作ってくれた大きなおにぎりと、マドレーヌを食べた。待ち合わせたのとは別の、少し大きな公園へ行った。たくさんの野良猫に絡まれているおじさんと話した。野良猫もたくさん寄ってきた。二人は一日中そんなふうにして遊んだ。
五時ごろ。二人はばいばいをした。実も、その日は真っ直ぐ家に帰った。庭をとおって、ベランダから入る。リンゴの様子を確認しようとしたが、リンゴもボールももう窓のそばにはいなかった。
それから手を洗おうと廊下に出た。そのとき、玄関から靴が見えた。きちんと揃えられた有機の靴の隣。乱雑に脱ぎ捨てられたスニーカーを認めた。それを眺めてから、実は靴を脱いで洗面所へ足を向けようとした。その瞬間だった。
二階から怒鳴り声が降ってくる。実はびくっと肩を揺らして階段の方をみあげた。あとはしんとしていて、静けさが急に際立った。
実は、手も洗わず、そっと階段をあがった。微かに、有機の部屋のドアがあいている。言い争うような声は聞こえなくて、実はそっと部屋をのぞこうとした。
「昇……ごめん」
みては、いけないと思った。けれど実は、目を反らせなかった。有機の目はきらきらしていた。涙と西日で、きらきらしていた。
「許さねえよ」
そういわれた有機の目。輝きが波打っていた。実はおもわずトイレのほうへ身を隠した。息を潜めていると、ドアが乱暴に開いて、足音が響いた。伺うと、階段をおりていく顔の一瞬だけ目に入った。最近、ときどき家にくる。のぼるくん、というんだったように思う。
玄関がひらく音がする。それでも、有機は部屋からでてこなかった。実はそっと、階段をおりた。おりている途中で、てすりを越えて、洗面所の入り口のそばへそっとおりた。いつもは絶対にしてはいけないと怒られるのだけれど。まず手を洗う。それからまたキッチンへいった。冷蔵庫をあける。牛乳を手にしようとして、お皿に目がとまる。リンゴは、兎になっていた。
階段を降りてくる音がした。牛乳を麦茶へ変更してリンゴをだしているところだった。有機がキッチンへ入ってきた。実がいることに、いっしゅんびっくりしていた。実はその有機の動揺をみてとって、先に口を開いた。
「ただいま」
有機が、一瞬ほっとしたように表情を和らげ、おかえり、と笑った。
その日の夜。ベッドに寝転がっても、実はなかなか目をつぶらなかった。ときどき瞬いては、けれど天井をみつめた。
あの泣き出しそうな切実な有機の表情。それが、実の網膜に焼き付いていた。




