2- はじまりの雨宿り:昇
数か月前。梅雨入りを果たした六月上旬。その日は朝から曇りだった。部活の帰り道、歩き出した途端に雨が降り出した。あっという間に本降りになり、傘を持っていなかった昇は、湿った桜の葉が匂う通学路をひたすらに走っていた。天気予報では、夜まではもつと言っていたのに。
「夕方じゃねえか!」
思わず空に向かって声をあげる。息が切れるのも構わずに駆けて、いつも通る文具店の前へ差し掛かったときだ。定休日でシャッターの閉まった店先へ佇む人物に、思わず速度を緩めてしまった。
「豊晴?」
呼ばれたクラスメイトは、読んでいた本から顔をあげて数度、瞬きをした。
「二橋くん、部活の帰り?」
「お、お~そうだけど……おまえなにしてんの?」
「えっ、と、雨宿り? っていうか、そこにいたら濡れちゃうよ?」
この辺が通学路では無いはずの同級生、おまけに制服姿のまま。そもそもこんなところで何をしているのか。昇は全部に混乱していて、生返事をしながら思わず軒先へ入ってしまった。
クラスメイトの豊晴有機。何度か話をしたことはあるけれど、道端で出会って足を止めるほど仲良くない。不思議な成り行きに自分でも首を傾げて、昇は横目で豊晴を盗み見た。向こうは特に会話を続ける気がないらしく、また本を読みはじめている。昇はしばらくその横顔を眺めて、ん? とあることに気づいた。
「……つーか豊晴、濡れてなくない?」
豊晴は顔を上げて、口元へ笑みを浮かべる。
「帰りはじめたの、雨が降る前だから」
当然のようにそう言われて、昇は眉を寄せた。
「……え、じゃあ、普通に授業終わって帰った感じ? ってかそれ雨宿りじゃなくね?」
それに豊晴はきょとんとして、そっか、っと今気がついたように頷いた。
「確かに。本読みながら歩いてたらさ、文具屋のおじさんに、危ないから歩きながら読むなって怒られちゃって。それで、ここで読ませてもらってたんだ。だから、雨のほうが後から降ってきた感じかな? ごめん」
豊晴が眉をハの字にして謎のごめんを呟く。昇は溜まらずブハアッ! と吹き出してしまった。声を上げて笑い、まずったか? と顔を上げる。豊晴はただ、きょとんとしているだけだった。その、いつもより幼く見える顔つきがまた可笑しくて、ついに膝まで折って爆笑した。途中で、苦しい、苦しいッ、と息も絶え絶えになっていると、隣で有機もしゃがみこんで、大丈夫? と首を傾げてくる。それになんとか頷いてやっと、はあ、と息をつく。昇は目元に溜まった涙を拭いながら天を仰いだ。
「あ~笑った。まじ豊晴おもしろすぎ」
「……そういえばなんで急に笑ったの?」
その言葉に、昇は隣を見る。さらりとした黒髪、切れ長の一重、顔立ちだけなら冷たい印象を受けても可笑しくない。このじめっとした暑さの中、カッターシャツのボタンを指定通りに首元まで留めている。こんな感じなのに、豊晴にはどことなく愛嬌がある。そう思って昇はくつりと肩を揺らした。
「だっておまえ、そんな奴いるかよ!」
「え? 何が?」
「おまえだって!」
「え、おれ?!」
目を瞬く豊晴を見ながら、こいつおれっていうんだ、と今さら思う。昇はなんだか楽しくなってにやけてしまう。
「だっておまえさ、帰り道に立ち止まってまで本読んで。そしたら雨降ってきちゃって、けど本読むんだろ?」
「……うん」
「うんじゃねえって! そんな奴いねえよ! 順番めちゃくちゃじゃん!」
「え? そ、そう、かなあ?」
「そうだよ! なに豊晴って天然なの? まじでイメージとだいぶ違う」
「て、天然? いやぁ~それは違うと思うけど。どんなだと思ってたの?」
「うーん、堅物優等生!」
「か、堅物。そ、そんな鰹節みたいに言わなくても」
「なんだよ鰹節って! 誰も言ってねえよ!」
真面目に困った顔をする豊晴が可笑しくて、昇はまたゲラゲラと声をたてた。そうして二人の会話は途切れた。昇はあんまり笑ったのと雨に濡れたので、少しくたびれていた。この雨の中を、もう一度駆け出す気にもなれず、座り込んだままぼうっと空を見つめる。ザアザアと雨がそぼ降る中、隣からジッパーを開ける音がした。豊晴がカバンを覗いている。それを何気なく眺めていて、はい、と差し出されたタオルに一瞬だけきょとんとしてしまった。
「髪くらい、拭いたほうがいいよ」
自分もタオルを持っているのだけれど、部活で使ったために汗臭い。ありがたくそれを受け取って、言われるままに髪をがしがしと拭いた。豊晴はスマートフォンを確認してササッと操作すると、またそれをしまった。同じように空を見つめている。
「……つーか豊晴は雨やむまでここにいんの?」
「いや、妹が帰るって連絡あったから。来るまで待ってる」
「……あ~なんかそれはちょっとイメージ通りかも」
「それ?」
「なんか、お兄ちゃん、って感じすんなと思ってた」
豊晴が、そっか、とはにかむように笑った。その柔らかくたゆんだ目元に、なんだかくすぐったいきもちがになる。有機が、そうだ、とまたカバンの中を確認した。今度はなにが出てくるんだと、少し笑ってしまった。
「はい」
そういって、有機が折りたたみの傘を差しだしてきた。傘まで用意していたのに、ここで雨宿りしていたらしい。昇はまた吹き出した。
「なんだよそれ!」
「妹の傘おっきいし、入っていけるから……えっと、これは、折りたたみ傘だよ?」
「いやそりゃ見たらわかるって」
そういう意味のなんだよそれじゃないから、と昇は笑うのだけれど、有機はやっぱり首を傾げている。はあ~あ、と笑み混じりの息をつき、昇はその傘を受け取った。
「じゃあ使わしてもらうわ」
昇と一緒に、有機も立ち上がる。パンッ! とこぎみの良い音をたてて傘を開く。雨の中を歩き出そうとした昇は、あ、となにかに気づいたように有機のほうを振り返った。なあ、と有機に声をかけて、てのひらを差し出してくる。有機が首を傾げていると昇は、て、と言った。
「豊晴、ちょっと手、貸して」
有機は意図がわからず、戸惑いがちに、昇の手にじぶんのてのひらを重ねた。すると昇が、はは! と楽しげに笑った。
「やっぱ豊晴の手、つめてぇわ! おまえこそ風邪ひくなよな」
パッと手を離して、照れくささを隠すように、じゃぁな! と振り返らずに駆け出した。
有機は、手を掴まれたときの、そのままの体勢でしばらくは昇の背をみつめていた。昇の手は熱くて、雨のせいか、汗のせいか、少し湿っていた。
きっかけは、その雨宿りだった。
昇は、有機と急速に仲良くなった。正確には、昇が有機によく懐いた、という感じだった。
「有機~頼む! 英語のノート貸して!」
最初はそういう些細なやりとりだった。
「……じぶんでやらないと意味ないと思うけど」
「おまえ、親みたいなこと言うなよ」
昇が顔を歪めると、有機はくすくすと肩を揺らした。けれどすぐに、しょーがないなあ、というような顔で笑ってみせた。クラスのなかにも、昇の友達のなかにも、そういう笑い方をする男子はいなかった。その有機の笑い方は、昇を少しくすぐったいような気にさせる。
昼休みに、ごはんを一緒に食べることはなかったけれど、昇は有機のお弁当のおかずをしょっちゅうせしめにいった。有機の変わりに、本から顔をあげた光祐が、またか、と睨んできた。けれど昇は、それをにいっと笑顔でかわすして、有機のお弁当からおかずを一品奪っていった。カラアゲ、卵焼き、ポテトサラダ。有機のお弁当は、昇のお弁当と同じで冷めているはずなのに、なぜだか温かくてまあるい味がする。
体育の時間。プールサイドで自分の順番を待っているときに、昇はふとそのことを口にした。
「おまえんとこの母ちゃん、料理うまいよな。弁当とか。おれんちの飯、まずくないんだけど、母ちゃんときどきセンス疑うようなもん作るんだよなぁ」
「……作ってるのおれだよ?」
昇は目を見開いて、え?! まじで?! と声をあげた。教師にぎろりと睨まれて、二人は慌てて顔を伏せた。昇は小声で、えーまじで? と有機に訴えた。
「うち、共働きで、ふたりとも夜勤とかあるんだ」
「え。じゃあ晩御飯もおまえが作ったりしてんの」
「毎日じゃないけど」
まじかすげえ~、と昇は感心した。自分なんて、お米を炊けるかどうかも怪しいのに。
そんな風に二人は少しずつ、他愛もない会話を重ねていった。
夏休みを一週間前に控えた、七月の後半だった。部活の休憩中だった。ランニングを終えて、メンバーと犬走りを通っていた昇は、ふと校舎裏の人影に足を止めた。その姿に、友人へ先行って、と声をかけて寄り道をした。日陰になっているせいか、建物の裏側はずいぶんと涼しかった。心地いい風を受けながら、有機が眠っていた。本を読んでいる最中だったらしく、ひらいたページが、有機の手元で微かな音をたてていた。昇はなんだか珍しくて、有機の姿を眺めてしまった。
喋るようになってから、昇にはふと思うことがあった。有機はいつも笑顔で、どんなバカげた話でも、優しい声でまあるい言葉を返してくれる。でもそれは誰にでも一緒で、それは同時に、誰にでも一定の距離があるように思えた。唯一、いちばん気がねなくみえるのは、日野水な気がする。昇は思わず眉をしかめた。それはなんだか、面白くないように感じる。でもいま目の前で、有機の、これほど油断した姿を見れたことを嬉しく思う。
昇はしばらく有機をみつめて、そっと後ろへさがると、できるだけ音がしないように駆け出した。
有機は遠ざかる足音には気がつくことなく、眠っていた。そよぐ風のなか、もたれる壁のひやりとした心地のなかで。とつぜん、頬がひやりとした。有機は肩を揺らして、目を瞬いた。
昇が、楽しげな表情で有機の頬にタオルをあてていた。濡れているらしく湿った頬に風が心地よかった。
「び……っくりした」
有機がそう呟く。昇は、悪戯が成功したと言わんばかりに、にっと笑った。
「これ使ってろよ」
「え、でも」
「まだ帰んない?」
「あ、うん、そうだなあ」
「じゃあ一緒に帰ろうぜ」
矢継ぎ早にそう告げられて、有機は咄嗟に首を縦に降ってしまった。昇が嬉しそうに、もう終わるから待ってろよ! と念を押し、あっと思う間もなく身を翻される。昇は、もう駆け出してしまっていた。
その駆けていく背を、有機はみつめていた。借りたタオルで冷やされた頬が、さっきよりも確かな熱を持っていくのを感じた。夏の陽射しの中で、有機は眩しさに目眩を覚えた。思わず目を閉じて唱えた。
だめだ。
だめだ。
これ以上はだめだ——
けれどその瞬間。
もうきっとこの気持ちを止めることはできないのだとわかってしまった。昇の、少し強引で、それでいて屈託のない笑顔。あの笑顔に、有機は、もうずいぶん前からひとたまりもなかった。
そうして夏休みがきてしまった。8月最初の、うだるような暑さのなか。すでに昇は、有機の家に遊びにくるようになっていた。
夏休みに入ってからも、昇は部活で、有機もときどきは委員の用事で学校へきた。昇の部活が終わる時間、有機の委員が終わる時間。会えば二人は並んで歩いた。コンビニへ寄る。アイスか、氷菓子、それからポテトチップスとか、なにかしょっぱいもの。それで、昇はそのまま、有機の家へ遊びに行く。扇風機を回して、なにをするでもなく部屋で過ごす。それが普段の生活のリズムになるようになった、八月の終わりのことだった。
その日も昇が部屋にきていて、けれど宿題を片づけている最中だった。小さなローテブルを囲んで、数学の問題集を開いていた。
「あーぜんぜんわかんねえ」
昇は思わず声をあげて鉛筆を投げ出した。有機はくすくすと笑いながら、どこ? と聞いてくれた。昇がここ、と指差すと、有機は問題集をのぞきこんだ。有機が丁寧に指をつきながら、説明をはじめたとき。昇が身を乗り出して、思わず指先に触れそうになった。有機が身を引きながら、説明を終えた。なるほど、と理解するのとはべつに、本当にささいなことだった。昇は、ヒントにもらった数式をあてはめながら、いっぺんに問題をといてしまう。そうしてから、同じように問題集を解く有機に、以前からときどき感じていた疑問をぶつけてみた。
「……有機ってさ、潔癖だったりすんの?」
有機が、問題集を解く手をとめて、え? ときょとんとした顔をこちらへ向けた。聞こえていなかったのかと思って、昇はあらためて続けた。
「触られたりすんのとか、嫌いなのかなあと思って」
昇がときどき感じていたことだった。さっきのような、微かに触れあうことも拒もうとする指先に。有機は、えっと……、と珍しく困っている。
「潔癖とかは、ないけど」
「ふーん」
昇は、有機の手をじっとみつめた。決して小さくはない。けれどシャープな指先で、整った形をしていると思った。その視線に気づいたのか。有機の手が、逃れるように竦むので、昇は思わずそれをぱしっと捕まえた。有機がぎくりと全身を硬直させた。昇は思わず有機の顔をみつめた。明らかに身を引いているような気がする。
「やっぱ潔癖だろ」
有機が、いや、とか、え、と動揺している。それがなんだか珍しくて、面白くて。
「はは、じゃあなんだよ、ホモとか?」
それは昇にとっては本当に他愛ないからかいのつもりだった。有機の顔が、笑おうとして。その表情が失敗したようになったのをみてしまう。有機が、その失敗した笑顔のまま表情を強張らせて、瞬きを繰り返した。それで、有機の体温が。あがっていくのが、指先の熱と、頬をみて、わかってしまった。
昇の顔からも、すうっと笑顔が消えた。そしてゆっくりと有機の手を離した。しばらくぽかんと有機をみつめていた。有機が、その表情が、泣き出しそうに、けれど確かな熱をもって歪んでいくのがわかった。
昇は思わず口をひらいた。
「……まじで言ってんの?」
有機が、震える呼吸を落とした。昇、おれ……、と。有機は言い淀んだっきり、目を反らした。昇は愕然としていた。有機が、彼の性に対する事実よりも。自分に向けられる感情の意味を、理解してしまった。
「……おまえおれのこと好きなの」
昇は、じぶんでもびっくりした。じぶんでも聞いたことのないような、低く、冷たい声だった。有機がこちらをみた。震える唇からは、言葉はなにひとつ出ないけれど。涙のたゆたう瞳に、いま傷つけたのだと痛いほど伝わってきた。昇はそれに目が覚めるような怒りを覚えた。おれだって、と思った。冗談だよ、といつものように笑って欲しかった。
「まじで言ってのかよ……」
有機がはじめて、昇、と言った。いまにも泣き出しそうな、震える声が、ごめん、と呟いた。昇はもう有機の方を見れなかった。目を反らしながら、有機が教えてくれた数式をみつめていた。
「……おまえなに謝ってんの?」
有機は、それに答えることができなかった。答えられずに、けれど、唇が微かに震えていた。昇はけれど有機にそれ以上の言葉を与えなかった。
「……なに謝ってんのかわかんねえけど。許さねえよ」
その昇の表情が、怒りに震えていたのなら、咄嗟に手を伸ばしたかもしれない。でも昇の泣き出しそうに歪んだ笑みに、有機は身を竦ませた。傷つけたのだと。昇の気持ちを裏切って、傷つけてしまったのだとはっきりとわかった。
「……許さねえよ」
そう呟くが早いか、昇はもう立ち上がってカバンをひったくると有機の部屋を飛び出した。有機は昇が部屋を、家を出て行く扉の音を聞いても、立ち上がることができなかった。有機の家の玄関を飛び出して、昇は駆け出した。生温い風をきって、息を切らしていた。
昇に、有機の感情は理解しがたかった。けれど、有機の、どこか一線を越えさせないあの距離の正体。それだけが、はっきりと指先の熱となって残っていた。昇は腕を振って駆けた。その熱を信じたくなくて、振り払いたくて。必死になって走った。




