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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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105話:川沿いを西へ —秘めた力と深まる依存

夜が明け、朝靄が立ち込める中、アレンとミルフィは焚き火の跡を丁寧に消し、川沿いを西へと進み始めた。


流された激流の脇を逆方向に歩む道のりは、倒木や濡れた岩肌が多く足元は決して良くない。それでも、東へ流された自分たちがこの川沿いを西へと遡っていけば、演習場として指定されていた本来の森のエリアへと戻っていけるはずだった。


「大丈夫かい、ミルフィ」


アレンは周囲の気配を探りつつ、足元の安全を確認しながら少し先を進んでいく。


「ええ、大丈夫よ。昨日のうちに温かいスープを飲んでしっかり休めたおかげね」


ミルフィは杖をしっかりと握り直し、アレンの背中に続いて歩を進める。


朝日に照らされた森は、夜の重苦しい雰囲気とは異なり、巨木の隙間から木漏れ日が差し込む静かな表情を見せていた。


「どのくらい川を遡っていけば、演習場のエリア内へ戻れるかしら……」


川沿いの険しい足場に気を配りながら、ミルフィが不安そうに呟く。


「……相当な距離があるだろうな。濁流に乗って流された俺たちは、陸地を歩くよりもはるかに速い速度で移動してしまったはずだ。徒歩で元の演習場まで戻るとなると、数週間はかかるかもしれない」


アレンの淡々とした言葉に、ミルフィは絶句して足を止めた。


「数週間……!? じゃあ、歩いて戻るのは現実的じゃないってこと……?」


「ああ。だからこそ、闇雲に歩くのではなく、捜索隊に見つかりやすい場所を目指すか、教官たちが配置されている演習場の警戒線(外郭)を目指す必要がある」


アレンは立ち止まり、木々の隙間から差し込む朝光を頼りに方角と川の湾曲を確かめた。


「幸い、この川沿いは見通しがいい。川を下ってくるはずの捜索隊とも遭遇しやすいはずだ。焦らず体力を温存しながら進もう」


「……当面の問題は食料か」


アレンは足元に転がる小さな石ころを川面へ蹴り出しながら、ぽつりと呟いた。


「ええ……確かにそうね」


ミルフィは自分の腰に下げた袋を確かめ、小さく溜息をつく。教官から与えられた支給品の乾燥肉や堅パンは、すでに残りがわずかとなっていた。


「数週間歩き続けるとなれば、手持ちの備蓄だけで持たせるのは到底不可能ですわ。捜索隊と合流できるまでの間、現地で食料を確保しながら進む必要がありますね」


「まあ、そう心配することもないよ」


アレンは少し振り返り、周囲の樹々や足元の草むらに視線を走らせながら言った。


「この森は水が豊富で、見たところ食べられる野草や木の実、果実の類もそれなりに自生している。川には魚もいるし、必要なら罠を仕掛けて小動物を狩ることもできるはずだ。昨日のスープのように、毒のないものを見極めれば餓死することはない」


「そういえば……昨日も手際よくハーブや乾物を合わせてくれたわね」


ミルフィは少し感心したようにアレンを見つめる。


「ああ、だから食料の心配より、まずは『体力を削られないこと』と『毒物を口にしないこと』の二つに気をつける。腹が減ったら無理をせず、採集しながら西へ向かう。俺と逸れたらそれを思い出してくれ」


「逸れる……なんて、嫌よ」


ミルフィは思わず声を強め、自らの腕をそっと抱きしめた。見知らぬ森の深部でアレンの姿が見えなくなる恐怖を想像しただけで、背筋に冷たいものが走る。


「万が一の話だよ。だが、命を守るための基本として覚えておいて損はない」


アレンは足元に転がる手頃な太さの木切れを拾い上げると、先端の余分な枝を軽く払い、ミルフィへと差し出した。


「杖代わりに使うといい。疲労の溜まり方がかなり変わるはずだ」


「……ありがとう」


◇


「お昼を過ぎたあたりだな...今日はここで一泊する」


アレンは日当たりの良い岩陰のスペースを見つけると、荷物を下ろして周囲の安全を確認し始めた。


「えっ……? まだ昼を過ぎたばかりよ? 夜までずいぶん時間があるようだけど……」


ミルフィは驚いたように目を丸くし、空を見上げる。確かに太陽はまだ高く、移動を続けようと思えばもっと先へ進める時間帯だった。


「遭難時の移動で一番の敵は『暗くなってからの設営』と『過度な体力の消耗』だ」


アレンは周囲の木々に視線を巡らせながら、淡々と理由を説明する。


「明るいうちなら、燃えやすい乾いた薪を十分に集められるし、毒虫や小動物を防ぐための安全な拠点も作れる。それに、昼過ぎから夕方にかけては森の魔物や野獣の活動も徐々に活発になる時間帯だ。疲労が溜まった状態でそれらと遭遇するのが一番危険なんだよ」


アレンは太い枝を引き寄せ、火床の準備に取りかかりながらミルフィを振り返る。


「それに、君の足取りも少し重くなっていた。今は焦って距離を稼ぐことより、体を休めて確実に明日以降の移動に備える方が重要さ」


「……あ」


図星を突かれたミルフィは言葉を詰まらせる。自分では隠していたつもりだったが、足の痛みや全身の疲労をアレンはしっかりと見抜いていたのだ。


「……分かったわ。じゃあ、私は薪拾いを手伝うわね」


「助かるよ。ただし、俺の視界から外れない範囲で頼む」


アレンが素の口調でさりげなく示してくれる配慮に、ミルフィは小さく胸を温めながら、足元の枝を集め始めた。


「ちょっと足を出してごらん」


アレンは集めてきた薪を火床の脇に置くと、地面に座り込んでいるミルフィの前に腰を下ろした。


「え……? アレン、何をするの?」


戸惑うミルフィをよそに、アレンは手際よく彼女のブーツの紐をほどき、そっと靴と靴下を脱がせる。長時間歩き続けた足首や足の裏は、じんわりと赤く腫れ上がり、痛々しく疲労が溜まっていた。


アレンは手のひらで温めながら、足の甲から土踏まずにかけて優しく力を込め、押し揉むようにほぐし始める。


「あっ……痛っ、……でも、気持ちいい……」


不意のスキンシップにミルフィは頬を赤らめつつも、足の緊張が和らいでいく感覚に小さく吐息を漏らした。


「疲れや腫れを放置すると、明日歩けなくなるからな。……ミルフィは治癒魔法が得意なんだろう?」


アレンの手が手際よく足首のツボを押さえ、全体の血行を促していく。ミルフィは照れくさそうに視線を泳がせながらうなずいた。


「ええ……治癒魔法なら、回復や痛み止めくらいは自分でできるけれど……」


「魔法で表面の痛みや傷を消すことはできても、蓄積した筋肉の疲労やコリまでは完全に取り除けないんだ。それに、余計な魔力は温存しておいた方がいい」


アレンは丁寧に指先までマッサージを続けながら、少し自嘲気味に笑った。


「それに……俺は治癒だけは使えないんだ」


「えっ……アレンが?」


ミルフィは驚いたようにアレンを見つめた。あんなに正確な戦闘の指示を出し、野外での生存術やハーブの知識まで併せ持つ彼が、一般的な魔法士が基礎として習得する治癒魔法を使えないというのは意外だった。


「体術も採集も手当もそれなりにこなせるが、魔力で傷を塞ぐような奇跡だけはさっぱりでね。だから、こうやって泥臭く手でほぐすくらいしかできない」


淡々と語るアレンの手からは、丁寧で確かな温もりが伝わってくる。


「十分よ……すごく楽になってきたわ。ありがとう、アレン」


「どういたしまして。これで明日の移動も少しは楽になるはずだ」


アレンは最後に足首を軽くストレッチさせると、ゆっくりと手を離し、立ち上がって再び薪の準備へと戻っていった。その背中を見つめながら、ミルフィは温かくなった足をそっと抱きしめた。


アレンは周囲の岩肌にぽっかりと開いた小さな洞窟を見つけると、ミルフィを後ろに下がらせ、洞窟の内部へ視線を向けた。


【鑑定】の能力を発動し、暗がりの奥までくまなく探る。


(……魔物の反応はなし、か。奥も行き止まりで安全だな)


「魔物はいない。奥も浅いし、風雨を凌ぐには絶好の場所だ」


「よかった……」


ミルフィが胸を撫で下ろすと同時に、空が途端に暗く陰り、叩きつけるような激しい雨が降りはじめた。木々の葉を打つ音が激しさを増し、森全体が白い雨の煙に包まれていく。


アレンはミルフィを洞窟の奥へと避難させると、入口近くに荷物を整えて立ち上がった。


「ミルフィ、ここで待っていてくれ。火を熾すための薪と、今日の獲物を探しに出かけてくる」


「えっ、こんな大雨の中で……!? 危険だわ、アレン!」


「雨の降り始めは、獲物となる小動物も雨宿りを探して動きが鈍くなる。それに、足音や気配も雨音で消しやすいんだ。すぐに戻るから、君は洞窟から出ずに体を休めていてくれ」


「……分かったわ。絶対に無理はしないでね」


アレンは軽くうなずくと、短剣を握り直し、雨幕が敷き詰められた静かな森の中へと消えていった。


雨が激しく木々を叩く森の中、アレンは獲物の気配を探りながら、一人静かに自問自答していた。


(冷静に考えたら、この状況……自分ひとりなら何の問題もないんだよな)


アレンの空間収納——『アイテムボックス』の中には、十分すぎるほどの食料や快適な寝具、乾燥した薪、さらには急場の用を足すための道具まで完璧に揃っている。本気を出せば、今すぐにでも温かいベッドで寝転びながら高級な肉を食らうことだって容易かった。


しかし、ミルフィの目の前でそれを解禁するわけにはいかない。


結果として、わざわざ雨の中に躍り出て小動物を狩り、洞窟の安全を確かめ、足のマッサージまでして「知恵と手作業で泥臭く生き延びる頼もしい仲間」を演じているのだ。


(アイテムボックスがあるのに、必死にサバイバルしているフリをしている自分が滑稽すぎるだろ……)


雨滴が頬を伝う中、アレンは思わず口元をほころばせた。


ミルフィが真剣な顔で「危険な場所にいるの?」と息をのんでいた姿や、手当てを受けて安堵していた表情が脳裏に浮かぶ。


(まあ……嫌いじゃないな。たまにはこういう、知恵と工夫で危機を乗り越える“ごっこあそび”も悪くない)


過酷で深刻な遭難劇の裏側で、自分だけが圧倒的な余裕を持ちながら、絶妙なスリルと「頼れる仲間」の演出を楽しんでいる。アレンは自らの底意地の悪さに呆れつつも、獲物の気配を捉えて短剣の柄を握り直した。


雨を突いて森の奥を進んでいたアレンは、濡れた草むらの向こうでガサガサと蠢く巨大な影に足を止めた。


(小動物を狩る予定だったが……ボアか)


本来ならウサギか鳥を一羽仕留めて戻るつもりだったが、眼前に現れたのは丸々と太った野性のボア(猪)だった。アレンは気配を消して間合いを詰めると、急所を一突きで沈め、息の根を止めた。


ひとりなら一頭まるごと空間収納(ストレージ)に放り込んで終わりにするところだが、ミルフィへ見せる「サバイバルのリアリティ」を考慮しなければならない。


短剣を取り出し、手際よくボアを解体し始めた。ミルフィがひと目で「解体してきた」と納得できる分量——今夜と明日の食料になるだけの腿肉と肋肉を丁寧に切り出し、血抜きをする。


そして、残りの大量の肉や骨、皮などは、手際よく周囲の視線を遮りながら『ストレージ』の中へと滑り込ませた。


(よし、これで完璧だな)


雨の煙を吹き払い、獲物の肉を葉で包んで抱えたアレンは、足早に洞窟へと戻っていった。


◇


「ミルフィ、ただいま。肉がとれたぞ」


雨音の響く洞窟の入口からアレンが顔を出すと、不安そうに膝を抱えていたミルフィが弾かれたように顔を上げた。


「アレン! 無事だったのね……! って、それ……!」


葉っぱの包みから覗く立派な肉塊を目にして、ミルフィは目を丸くする。


「小動物を探すつもりだったんだが、運よくボアを見つけてね。その場で解体して、扱いやすい部位だけ切り出してきた」


アレンは濡れた上着を軽く払いながら、温かな微笑みを浮かべて肉を焚き火の近くへ置いた。


「ボア……!? 大雨の中でそんな大型の魔物を一人で……?」


アレンの底知れない手際と頼もしさに驚きつつも、無事に帰ってきた姿に、ミルフィはホッと胸を撫で下ろすのだった。


およそ二週間が経過しただろうか。


鬱蒼とした森の中で寝食を共にし、危機を乗り越え続ける日々のなかで、ミルフィの心はすっかりアレンに依存しきっていた。見知らぬ森での恐怖も、生き延びるための不安も、アレンが隣にいて静かに指示を出してくれるだけで嘘のように和らいでしまう。いつしか彼女にとってアレンは、ただの同級生ではなく、絶対的な安心感を与える存在となっていた。


川沿いの開けた場所で、アレンが手際よく火を起こし、干しておいた肉を炙りながらぽつりと口を開く。


「ミルフィ、君も当然貴族だよな? 領地とかあるのか? どんな事をしてる領なんだ?」


アレンにとっては、沈黙を埋めるための単なる雑談のつもりだった。


「えっ……? あ、うん、そうよ。私の家はルードヴィヒ伯爵家だから……」


突然振られた話題にミルフィは少し驚いたように目を丸くし、それから少し照れくさそうに自分の家について話し始めた。


「うちの領地は、聖王国の南西寄りの丘陵地帯にあるの。気候がとても穏やかで、ワイン用のブドウの栽培と醸造が昔からの主産業ね。……あ、それから最近は特産のフルーツを使ったジャムなんかも有名かしら」


話しているうちに故郷の風景が懐かしくなったのか、ミルフィの表情が少しやわらぐ。


「父様は領地の経営や産業の育成に熱心で……小さい頃はよく醸造所や農園の見学に連れていかれたわ。まあ、私はあまり政治や経営の難しい話は得意じゃないけれど……」


そう言って可愛らしく微笑むミルフィを、アレンは炙り肉を裏返しながら「へえ、ブドウとワインか」と素の口調で穏やかに聞いていた。


(高級ワインの産地か……通りで品があるわけだ。まあ、今はその伯爵令嬢様が俺の作った野草スープをありがたがって飲んでいるわけだが)


アレンは心の中でくすりと笑いつつ、香ばしい匂いが立ち上ってきた肉をミルフィへと差し出した。


「ほら、焼けただろ。温かいうちに食べな」


「ええ、ありがとうアレン……!」


差し出された肉を受け取るときのミルフィの瞳には、かつて学校で見せていた貴族令嬢としての固さはなく、アレンに対する深い信頼と愛着が満ちあふれていた。


ミルフィにとって、この二週間は驚きと困惑の連続だった。


遭難生活の最中、当然のように牙をむく魔物の襲撃や、野営地を襲う急な天候の変化。だがそのすべてにおいて、アレンはあらかじめ未来を知っていたかのように、ごく自然に、そして完璧に対処してみせた。


敵の接近を察知するタイミング、罠を仕掛ける場所、夜露を凌ぐための設営——どれひとつ取っても無駄がなく、危険が形を成す前にあらかじめ摘み取られていく。


(どうして……? どうしてこの人は、全部分かっているの……?)


本人は誇る風でもなく、「たまたまだよ」とでも言いたげにあっけらかんと振る舞っている。その底知れなさと、何があっても揺らがない圧倒的な平穏。


見知らぬ森の中で極限状態に置かれた少女にとって、そんなアレンの姿はあまりにも魅惑的で、そして——劇薬だった。


頼もしさや感謝といった生易しい感情は疾うに通り越し、彼の存在そのものがミルフィの心を不可逆なまでに侵食していく。彼がいなければ息をすることすら不安になるほどの、甘く危険な依存。


「ミルフィ? どうした、急に立ち止まって」


アレンが不思議そうに振り返り、いつもの気取らない視線を向けてくる。


ミルフィはその温かな眼差しを見つめ返し、自分の胸の奥が締め付けられるような熱さを覚えた。アレンの本質を知れば知るほど、もう二度と彼のいない世界へは戻れないということを、彼女自身が何より理解していた。


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