103話:南の樹海と、貴族たちのサバイバル演習
「……というわけで、今年度の実践授業は、学園の南に広がる『黒樹の森』にて野外サバイバル演習を行う!」
教官の豪快な声が演習場に響き渡ると、集まった生徒たちの間にざわめきが広がった。
「安心しろ、今回の演習地は自然の森だ。ダンジョンのような人工の罠や転移の術式が仕掛けられているわけではない!」
教官の説明に、生徒たちの肩から「ふぅ……」と安堵の息が漏れた。彼らにとってみれば、単に「危険な魔導トラップがない授業」だと分かっただけで十分だったのだ。
——だが、その安堵こそが最大の死角であることを、アレンだけが冷ややかな目で見抜いていた。
(……高を括りすぎだな、あのお坊ちゃまたちは)
アレンは腕を組み、自分たちの前方に広がる緑の地平を見下ろした。
かつて第一学園にいた頃、ダンジョンの転移事故からヴィクトリアを救出したあの惨劇の記憶は、今なおアレンの脳裏に鮮烈に焼き付いている。
今回はあの時のような人為的なトラップや転移の術式はないだろう。だが、目の前に広がる南の『黒樹の森』はただの森ではない。
見渡す限り同じような巨木と深く生い茂る藤の蔓が視界を遮り、激しい起伏が足腰を削りとる。富士の樹海を思わせるその深緑の密林は、一歩奥へ入れば360度どこを向いても同じ風景が続き、あっという間に方向感覚を狂わせる魔のエリアだ。
罠が無くとも「同じ景色」「激しい起伏」「遭難の恐怖」、そして「未知の野宿」という自然そのものの脅威が立ちふさがる。快適な邸宅や学園生活に慣れきった箱入り貴族たちにとって、それはダンジョンとはまた質の違う地獄になり得るのだ。
(ただし、命に関わる安全対策だけは事前に抜かりなく手を打ってある)
自分のアイテムボックスの中には、日頃から潤沢な資金で買い込んでおいた数ヶ月分におよぶ食料や、前世(日本)での知識を反映したサバイバル装備、そして高機能なテントがすでにぎっしりと収められている。
だが、最初からこれらを大っぴらに出してしまうと生徒自身の学びにならず、本人のためにならないだろう。これはあくまで、自力での野営を経験させつつ、万が一の破綻や遭難に備えた「万全の備え」だ。
今回の演習の趣旨は、あくまで生徒たち自身が野営を経験し、必要な物資やサバイバルの厳しさを身をもって学ぶことにある。
——だからこそ、アレンはあらかじめ万全の準備を整えてあることを、わざわざ口に出さず黙っていることにしていた。
「やれやれ……野宿、ですか」
アレンの隣で、優雅に日傘を差したフランチェスカが、げんなりとした表情で溜め息をついた。
「ふかふかのベッドも、温かいお風呂も出ない場所で一夜を明かすなど……考えただけでも気が狂いそうですわ。アレン様、まさか私に泥の上で寝ろとおっしゃるわけではありませんでしょうね?」
「俺に言われましても。これは学園の授業ですからね、フランチェスカ様。……ほら、ブラッド君なんて今から顔が青いですよ」
「だ、誰が青いって……っ!?」
少し離れた場所で荷物を背負っていたブラッドが、ビクッと肩を跳ね上げて振り返った。背中の巨大なリュックはパンパンに膨らみ、今にも破れそうである。
「お前、野宿を舐めるなよ! 俺はちゃんと考えたんだ! 毛布に予備の服に、高級なテント、万が一のためのポーションに……!」
「ブラッド君、それ重すぎて森の起伏で足腰やられるパターンだよ。……それに、そんな大荷物じゃ途中で迷子になった時、脱出する前に体力が尽きる」
「ま、迷子……!? 脅かすなよ! たかが森だろ!?」
「ただの森ならいいんだけどねぇ……」
アレンは苦笑交じりに肩をすくめた。
樹海特有の入り組んだ地形では、少しルートを外れただけであっという間に自陣の位置を見失う。地図すら役に立たない場所での行動がいかに危険か、彼らはまだ理解していない。
「あ、あのね……アレン」
不安そうにアレンの袖をちょんと引いたのは、ローゼだった。
「私……森の中って、どこを見ても同じに見えてすぐ迷子になっちゃいそうなの。その……私から離れないでいてくれる?」
「もちろんです、ローゼ様。俺はお嬢様の執事ですから。ただ——」
アレンは周囲のうっそうとした樹海を見つめ、どこか頼もしく、同時に底意地悪く口元を緩めた。
「一応、お嬢様も授業を受ける身ですので、野宿の残酷さは経験した方がよろしいかと思います」
そう言いながらも、アレンは周囲の目を盗み、手の中でそっと精巧な金属製のコンパスをローゼへと手渡した。
「コンパス……?」
「この森は学園から見て南に広がっています。つまり、どれだけ樹海で迷っても、この針が指す『北』へ進み続ければ必ず城や学園へ戻れます。万が一俺とはぐれた時は、落ち着いて北を目指してください」
続いて、小さな冊子をローゼの手元へ滑り込ませる。
「それと、万が一の時のマニュアルです。……基本は自分たちの力で野営を経験するのが今回の授業ですから、まずは自力で頑張ってみましょう。本当に困った時は……俺に任せてくだされば大丈夫ですから」
「うん……! ありがとう、アレン!」
ローゼはコンパスとマニュアルをぎゅっと握りしめ、安堵の笑顔を浮かべた。
アレンは仲間たちにも同様に予備のコンパスとマニュアルを渡し、全員の安全網を確実に敷くのだった。
罠のないはずの広大な樹海——しかし、慣れぬ野宿と迷宮のごとき自然を前に、貴族の生徒たちを巻き込んだ新たな試練の授業が幕を開けようとしていた。




