102話:日常化する過剰忖度と、ただの豪華な学生寮
人間という生き物の適応力とは、実におそろしいものである。
あれほど国家級の過剰忖度と「旦那様・奥様」コールに顔を蒼白にさせ、ヴィクトリアの影に怯えて滝のような冷や汗を流していたフランチェスカであったが――一週間も経てば、すっかりその暮らしに馴染んでしまっていた。
「おはようございます、奥様。本日の朝食は王宮御用達のシェフが焼き上げたクロワッサンと、摘みたてベリーのコンフィチュールでございます」
「ええ、おはよう。紅茶はいつものアッサムをミルク多めで頂戴できるかしら?」
「かしこまりました、奥様」
完璧な所作で頭を下げるメイドに対し、フランチェスカは優雅に扇子をパチンと閉じ、当たり前のように応接間のソファーに腰を下ろす。
初日のパニックが嘘のように、いまや「奥様」という呼び名もただのBGM程度にしか感じていない。呼び名を訂正させようとすればメイドが即クビになるシステムを理解した結果、「慣れてしまえばどうということはない」という悟りの境界に達したのだ。
そして、この邸宅に「慣れた」のは彼女一人ではなかった。
「おーいアレン! 今日の放課後の座学、ノート写させてくれよ……って、うわ、今日の朝食めちゃくちゃ美味そうだな!」
大門を堂々と潜り、広大な庭園を横切ってリビングに上がり込んできたのは、Aクラスの騎士候補生ブラッドだった。
最初はアレンの正体や背景に怯えていたはずの彼も、いまや「放課後にアレンのノートを借りに来る」という名目で、毎日のようにこの大邸宅に顔を出している。
「ブラッド君、人の家の朝食を勝手に物色しないでよ。あと、足拭いた?」
「拭いたって! ていうかここ、お前も『半年の借り物』だろ? すっかり自分の家みたいにくつろぎやがって……」
「まあね。でもシェフの作る料理は本当に絶品だから、居心地は最高だよ」
アレンは執事服(リゼット侯爵邸での勤務用)の上着を椅子にかけ、呑気にコーヒーをすすっていた。
フランチェスカの防犯対策と自分の平和な逃亡生活のために用意させた(させられた)はずの白亜の大邸宅。しかし現在の実態は、アレン、フランチェスカ、そして噂を聞きつけて遊びに来るローゼやブラッドたちの完全にただの豪華すぎる学生寮と化していた。
「あ、ブラッド君。おはよう」
「っ……!? ふ、フランチェスカ様……! お、おはようございますっ!」
ソファーから顔を出したフランチェスカと視線が合った瞬間、ブラッドの全身がピンと直立不動になった。顔を一瞬で真っ赤にし、視線をあちこちに泳がせる。
そのあからさますぎる挙動を見たアレンは、カップを置き、底意地の悪い笑みを浮かべてニヤリと口を開いた。
「やあブラッド君。今日も朝から顔が赤いねぇ? もしかして、フランチェスカ様の顔を直視できないのかな?」
「なっ……! お、お前余計なこと言うなよっ!!」
「あら? どうされたのですの、ブラッド様? そんなに赤くなって……熱でもありますの?」
「い、いえっ! なんでもありませんわ……じゃなくて、ありませんっ!! 自分、ちょっと庭の空気吸ってきますっ!!」
限界を迎えたブラッドは、悲鳴のような声を残して庭へと逃げ出していった。
それを見送りながら、フランチェスカは「相変わらず妙な方ですわね」と首をかしげ、再び紅茶に口をつける。
「ねえアレン様。ブラッド様って、なんであんなに挙動不審なんですの?」
「さあねぇ? 思春期の男子特有の病気じゃないかな」
「……貴方、絶対に何か知っていて面白がっていらっしゃいますわね?」
「まさか。俺はただの無害な庭師兼執事だよ」
けろりとした顔で嘘をつくアレンに、フランチェスカは呆れたように溜め息をついた。
一方その頃——神聖王国の『株式会社バルツァー・ラボ支店』および本国首脳陣の応接室。
「支店長! アレン様とフランチェスカ様の近況はどうだ!?」
「はっ! 報告によりますと、アレン様は連日のように『奥様』と同邸宅でお過ごしになり、時には学園の友人たちを招いてお披露目会のようなお食事会を開かれているとのことです!」
「素晴らしい……! つまり『新婚生活』は極めて良好、アレン様も我々の手配にご満悦ということだな!?」
「はい! メイドたちの報告によれば、奥様もすっかり『奥様』と呼ばれることに抵抗を示さなくなり、旦那様との共同生活を受け入れられているご様子です!」
「おおお……! 我々の忖度は正しかったのだ! 引き続き、最高の環境を提供し続けろーっ!!」
「ははっ!!」
裏でそんな勘違いの暴走が加速しているとは露知らず。
白亜の大邸宅の応接間では、今日も「旦那様、奥様」の呼び声が虚しく響く中、高校生たちの賑やかな(そしてブラッドだけが胃を痛める)寮生活が平和に続いていくのだった。
【噂と扇子と、秘められた不機嫌】
学園の石畳を、優雅な足取りで進む令嬢がひとり。
そしてその半歩後ろを、寸分の狂いもない足取りでついて歩く一人の少年——アレンの姿があった。
アレンの手に握られているのは、彼女の鞄と高級な日傘。仕草のひとつひとつは洗練された一流の執事そのものであり、誰がどう見ても完璧な「主と従者」の光景である。
……表向きは、ですが。
「ねえ、見なさいよ。今日も二人で一緒だわ……」
「『お嬢様と執事』なんて体裁を取っているけれど、本当は恋人同士なんじゃないの?」
「だって、どこへ行くのも一緒じゃない。あんなに身近にいて、ただの主従なんてあり得る?」
廊下の曲がり角や中庭のベンチから、ひそひそと聞こえてくる生徒たちの囁き声。
学園内で静かに広まるその噂——『アレンとローゼは主従の振りをしているが、実は密かに付き合っている』という説は、いまや一部の女子生徒たちの間で絶好の娯楽と化していた。
「あ、あのね……アレン……」
噂が聞こえてきたのか、前を歩くローゼの耳たぶが、みるみるうちに熟したイチゴのように赤く染まっていく。彼女は扇子で顔の下半分を隠し、後ろを歩くアレンへ小さく視線を向けた。
「周りの視線が、なんだかその……凄く気になるのだけれど……。貴方は何も思わないの?」
「お嬢様、執事たる者、道端の小鳥のさえずりにいちいち心を乱されていては務まりません。それに、俺たちが付き合っているだなんて、ただの妄想ですから気にするだけ損ですよ」
アレンは表情一つ変えず、完璧な接客用スマイルで淡々と応じた。
「うっ……そ、それはそうだけど……! でも、あんまり一緒に行動していると、変な誤解がもっと広まるじゃない……」
「ですが、俺はお嬢様の護衛兼執事ですからね。学園内で離れろと言われても困ります。まあ、俺の平穏な逃亡生活に影響がない限り、放置が一番ですよ」
どこまでもマイペースで気楽なアレンの回答に、ローゼは「もう……!」と頬を膨らませるしかなかった。
◇
しかし——その「ただの学園のくだらない噂」を、心底面白くない顔で聞いている人物がいた。
学園から遠く離れた、荘厳な執務室。
重厚な革張りの椅子に腰掛け、冷徹な美貌に深い不機嫌の影を落としている女性——ヴィクトリアである。
「……もう一度言いなさい」
ヴィクトリアの静かだが氷のように冷たい声が、部屋の空気を凍りつかせる。
膝をついて報告を行っていた情報部の密偵は、額から冷や汗を流しながら言葉を紡いだ。
「は、はっ……! 学園内にて『アレン様とローゼ様は主従関係を偽装した恋人同士である』という噂が流布されております……。二人は常に共に行動し、周囲からはそのように見られていると……」
パキン、と乾いた音が室内に響いた。
ヴィクトリアが手にした高級な万年筆が、彼女の力加減ひとつで無残にも真二つに折れていた。インクが手に着くことすら気にせず、彼女は細く美しい目をさらに細める。
「恋人、ですって……?」
「は、はい……っ」
「くだらない……実にあほらしい噂ね」
ヴィクトリアは吐き捨てるように呟いたが、その全身から溢れ出る殺気は隠しようもなかった。
アレンが身を隠すために執事の振りをしていること自体は、彼女にとっても織り込み済みの計画であった。しかし、その「主従関係」が周囲から「恋人同士の甘い隠れ蓑」として受け取られているという事実が、どうしても彼女のプライドと感情を激しく逆なでするのだ。
(あの方が……あの、何事にも縛られないアレン様が、あのような小娘と『付き合っている』などと噂されるなんて……不愉快極まりないわ)
「ヴィクトリア様、いかがいたしましょう? 噂の発信元を特定し、言論統制を敷きますか……?」
「いいえ、そんなことをすれば余計に怪しまれるわ」
ヴィクトリアは深々と溜め息をつき、折れたペンをデスクに放り投げた。
「だが……その噂を野放しにしておくつもりもないわ。密偵を増員しなさい。ローゼという娘がアレン様に不要なスキンシップを図ろうとした場合は……即座に妨害するように」
「は、ははっ! ただちに手配いたします!」
平穏な学園生活を送りたいだけのアレンと、噂に照れまくるローゼ。
そして遠くから嫉妬と不機嫌の炎を燃やすヴィクトリアの手により、学園の影で新たな「過剰な裏工作」が蠢き始めるのだった。




