93話:国家総出の忖度作戦
【アレンの資金事情と妙なコンプライアンス】
白亜宮廷魔術学園での日々、そしてローゼお嬢様の専属執事としての生活。
なんだかんだとトラブルや面倒事に巻き込まれ続けているアレンだったが、本質的には「まぁまぁ悪くないな」とこの現状を楽しんでいた。
美味しいものを焼き、適当にお嬢様をあやし、たまに弟のステータスをいじって遊ぶ。逃亡(?)生活としては、十分に合格点と言えた。
そして、今になって思えば――資金面に関しても、最初からそれほど焦る必要はなかったのだ。
(まあ、お金なんてどうとでもなったんだよな、結局)
アレンは侯爵邸の庭の手入れをしながら、ふと自身の懐事情に思いを馳せた。
実のところ、アレンには「冒険者ギルド」にかなりの額の貯蓄が眠っていた。
これまでは依頼の報酬を受け取ってもギルドの口座に預けたまま放置しており、わざわざ口座から引き落として使うという習慣すらなかったため、うっかり頭から抜け落ちていただけなのだ。旅先で試しにギルドの窓口へ寄ってみたところ、拍子抜けするほどの金貨があっさりと手元に払い出されたのだった。
そしてもう一つ、万が一の資金源。
大陸全土にその名を馳せる大企業――「バルツァー・ラボ」の支社が、実はこのクレイズ神聖王国にも存在していた。
もしアレンが支社に顔を出し、「少し金を都合してくれないか」と一言頼み込みさえすれば、支社長をはじめとする幹部たちは歓喜の涙を流しながら、どれだけの巨額であろうと即座に用意しただろう。彼にとってバルツァー・ラボはそれだけの力を持つ組織だった。
……だが、アレンはその手にだけは絶対に手を付けない。
(いやいや、いくら困ってるからって会社の金に私的に手を付けるのはダメでしょ。コンプラ的にどうなのって話だし)
どれだけ規格外の力や権力を持っていようと、変なところで社会人としての倫理観とコンプライアンス(法令順守)意識を発揮してしまうのがアレンという男であった。公私の混同は固く禁物なのである。
「アレンー! 何をボーッとしてるの? ステーキの仕込みは済んだの!?」
「あ、はいはいお嬢様! 今すぐ取りかかりますから叫ばないでください!」
呼ぶ声に苦笑いを浮かべながら、アレンはハサミを置き、愛用のエプロンへと手を伸ばすのだった。
【絶対権力者と招かれざる執事】
リゼット侯爵邸の応接間から、雷のような怒声が響き渡っていた。
「ええい、黙れリゼット侯爵! 我がクレイズ神聖王国の国政を何と心得ているのだ! 今回の件、到底沙汰無しで済むと思うなよ!」
部屋の中で父である侯爵に激しい剣幕で詰め寄り、一方的に叱りつけているのは、神聖王国の行政トップに君臨する権力者――丞相であった。
そのあまりの高圧的な様子と父の窮地を扉の隙間から見かねて、ローゼお嬢様は思わず「そこまで言わなくても……!」と部屋の中へ飛び出してしまった。
「お父様……! あ、あの、丞相閣下……っ」
だが、国家の最高幹部が放つ圧倒的な威圧感を前に、弱年であるローゼは気圧され、肝心な言葉が喉に詰まって出てこない。
(……はぁ。仕方ないなぁ)
影でそっと見守っていたアレンは、小さくため息を吐くと、すっとローゼの前に立ち塞がるようにして部屋へと足を踏み入れた。
「――お嬢様。お話し中のところへ軽々しく入ってはいけませんよ」
落ち着き払った、あまりにもマイペースで場違いな声。
「何だ貴様は……! 礼儀を知らん無礼者め、控え――」
突如乱入してきた一人の執事に対し、丞相は不快感をあからさまにして一瞥し、怒鳴りつけようとした。
――しかし。
「あ……あ、あれ……?」
アレンの顔を視界に捉えた瞬間、丞相の言葉がピタリと止まった。
その顔からスーッと血の気が引き、目と口が限界まで見開かれる。
(な、なぜ……なぜこの男がこんなところに……!?)
その圧倒的な存在感、底知れぬ静けさ、そしてかつて大陸全土の勢力図を一瞬で塗り替え、各国の上層部を恐怖の底に陥れた……『あの男』。
(た、大国の影で暗躍し……大陸中に恐れられた……あ、アレン殿……!?)
ガクガクと膝が震え出し、喉の奥がカラカラに干からびていく。先ほどまでの高圧的な態度は影も形もなく消え去り、丞相は完全に固まってしまった。
一方、いきなり態度を一変させた丞相を見て、怒られていたはずのリゼット侯爵は「え? なに? どうしたの?」とわけが分からず首をかしげるばかり。
そんな周囲のフリーズをよそに、アレンは至って穏やかな笑みを浮かべた。
「ではお嬢様、お茶の準備ができておりますので参りましょう。失礼いたしました」
ローゼの肩を軽く叩き、アレンは何事もなかったかのように彼女を連れてスーッと部屋から退出していった。
パタン、と静かに扉が閉まる。
……応接間に訪れる、耳が痛くなるほどの完全な静寂。
あまりの沈黙に耐えかねたリゼット侯爵が「あ、あの……閣下……?」と恐る恐る声をかけようとした、その時。
汗びっしょりになった丞相が、震える声でボソリと問いかけてきた。
「……リ、リゼット侯爵……」
「は、はい……?」
「……君の家で……最近、誰か新しい使用人でも雇ったのかね……?」
「え? ああ、庭師兼……娘の専属執事として、アレンという平民を一人雇いましたが……それが何か……?」
「ひ、平民……!?」
侯爵の呑気な答えを聞いた瞬間、丞相の顔はさらに蒼白となり、白目を剥いて卒倒しそうになるのだった。
【王城の錯乱と極秘緊急会議】
「……そ、そんなはずはない。平民……? あのお方があのような場所で、一執事など……」
顔面を紙のように真っ白にした丞相は、ガクガクと膝を震わせながら、譫言のようにブツブツと呟いた。
「閣下……? 体調でもお悪いのですか……?」
心配そうに覗き込んでくるリゼット侯爵の言葉すら耳に入らない。
(い、いや……見間違えるはずがない! あの圧倒的な気配、底知れぬ眼光……間違いなく、世界を束ねるあの『アレン殿』だ……!!)
「失礼するっ!!」
丞相は先ほどまでの怒声と説教などどこかへ放り投げ、リゼット侯爵の手を振り払うようにして応接間を飛び出した。そして、馬車へと転がり込むと、御者に向かって喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「王城へ飛ばせ!! 限界まで馬を走らせろ!! 全国の存亡がかかっているのだ!!」
「――何だとっ!? かのアレン様が、このクレイズ神聖王国にお忍びで入国されているだと!?」
王城の深奥、限られた重臣しか入ることを許されない執務室。
丞相からの報告を受けた国王は、ガタゴトと豪華な椅子を倒しながら立ち上がり、衝撃のあまり叫び声を上げた。
「は、はいっ! 間違いございません! 学園の式典への招待の折、世界の首脳陣が集ったあの式典で拝見したご尊顔やお姿……間違いなくあのお方でありました!」
青ざめた汗をだらだらと流しながら平伏する丞相。部屋に集められた数名の側近たちにも、氷水を浴びせられたかのような激震が走る。
「なんということだ……! 我が国は、あのお方のお出迎えすらしていないのではないか! 立ち寄られた街での最上級の歓待も、国賓としての礼すら尽くしていないのだぞ!?」
国王は自らの頭を抱えて執務室を右へ左へと往復した。
あの黒曜龍を単身で討伐し、バルツァー・ラボの創業者であり、レムリア法皇国、さらにはアルカディア魔法帝国のトップすらも一目置く「世界の影の支配者」。そんな規格外の存在が、何の事前連絡もなく自国に滞在しているのだ。一歩間違えれば、不敬罪どころか国家消滅の危機である。
「し、しかも陛下……さらに不可解かつ恐ろしい事実がございます」
「何だ!? これ以上何があるというのだ!」
丞相は震える声で、最も理解不能な事実を口にした。
「アレン様は……現在、リゼット侯爵家にて『庭師兼、令嬢の専属執事』として雇われているようなのです……」
「………………は?」
国王の動きがピタリと止まった。
「し、執事……? 庭師……? あのアレン様が……平民のフリをして、侯爵家の使用人を……?」
「左様にございます。侯爵本人は何ひとつ知らず『ただの平民を一人雇った』などと呑気なことを申しておりました……」
静寂が部屋を支配する。国王と側近たちは、あまりにも意味不明すぎる事態に思考が完全にフリーズしていた。
「な、なぜだ……? なぜ世界を動かすほどのお方が、一侯爵家の使用人などという回りくどい真似を……!?」
「もしや……我が神聖王国の内政や貴族社会の腐敗を、一使用人の立場から『査察』されているのでは……!?」
「あるいは……我ら神聖王国が、お出迎えもせず放置したことに対する、無言の『試練』……!?」
重臣たちの深読みと最悪の誤読が、勢いよく加速していく。
「お、落ち着け……! 軽挙妄動は厳禁だ!」
国王は己の胸を強く叩いて呼吸を整えると、ギラリと目を光らせた。
「アレン様が『使用人』を演じていらっしゃる以上、こちらから『アレン様!』と大騒ぎして正体を暴くような真似をすれば、お考えを台無しにすることになる! それこそお怒りを買い兼ねん!」
「で、では……いかに対応すれば……!?」
「リゼット侯爵家には極秘で最大の支援を行え! だが絶対にアレン様には勘づかれるな! 我らはただ、陰から平伏し、あのお方が『ご満足』されてお帰りになられるのを祈るしかないのだ……!」
こうして、何も知らないアレンの気ままな執事生活の裏で、神聖王国の首脳陣は胃を痛めながら全力を挙げた「極秘忖度作戦」を開始するのだった。
【至高の庭師道具と謎のエール】
王城での極秘緊急会議から、まもなくして――。
リゼット侯爵邸の広大な庭園に、神聖王国の王室御用達を告げる豪華な文様が刻まれた特大の木箱が、何箱も恭しく運び込まれてきた。
「……はて? これは一体、何の嫌がらせ……いや、贈り物なんだ?」
庭に出てきたリゼット侯爵は、首を傾げながら木箱を開けさせて絶句した。
そこに収められていたのは、見事な装飾と精巧な魔法付与が施された「剪定鋏」や、柄の部分に最高級の魔導宝石が埋め込まれた「スコップ」、そして一滴の水も逃さない黄金の「じょうろ」など……どう見ても一国の国宝級の輝きを放つ「庭師道具」の数々であった。
「な、なんだこれは……!? 我が家に庭を手入れさせようというのか……? いや、なぜこんな煌びやかなスコップを……!?」
侯爵が頭を抱えて困惑していると、さらに王室専属の輸送隊がぞろぞろと屋敷の厨房へと荷物を運び込み始めた。
「侯爵閣下! 陛下および第一王子殿下より、ご贈答品でございます!」
「へ、陛下から……!?」
次々と開封される箱の中から出てきたのは、最高級のブランド牛の極厚ステーキ肉が山のように、さらには何十年も熟成された伝説的な極上ワインの数々。ここまでは、まだ「何か政治的な配慮か」と納得しようとすればできた。
だが――最後の木箱から出てきたものを見て、侯爵の思考は完全に停止した。
「……え、エール(大衆ビール)……? 我が家に、大樽でエール……? なぜ……??」
侯爵家をはじめとする上流貴族の食卓に、平民が酒場で飲むような「エール」が贈られてくるなど前代未聞である。高級ワインの隣に鎮座する無骨なエールの樽を前に、侯爵は心底困惑した様子で「え、えぇ……?」と佇むしかなかった。
「おや、お嬢様。なんだか今日は厨房に見たこともないような上質なお肉と……おや、俺の大好きな銘柄のエールまで大樽で届いてますよ! 気が利くじゃないですか、旦那様も!」
「……うちの父が、貴方の好みのエールの銘柄なんて知るわけないでしょ……」
厨房の裏で、ウキウキで肉の仕込みを始めるアレンと、あまりにも不自然すぎる「国王からの贈り物」にジト目を向けながら呆然と立ち尽くすローゼお嬢様であった。




