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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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91話:ジュリアン・フォン・リゼット

【学園後の夕食と尽きない疑問】

 学園での波乱に満ちた初日をどうにか終え、無事にリゼット侯爵邸へと戻ってきた二人。


 邸宅の最上階にある執務室のふかふかなソファに深々と体を沈めたローゼお嬢様は、完全に脱力し、まるで魂が抜けてしまったかのような顔で天井のシャンデリアを見上げていた。


 それもそのはずである。白亜宮廷魔術学園での初日は、精神的にすり減るイベントの連続だった。

 神聖王国屈指の権力を誇る公爵令嬢セレスティアとの、笑顔の下で刺し刺しの牽制球を投げ合うドロドロとした腹の探り合い。そして何より、そんな張り詰めた教室の空気を一瞬にして粉砕した、我が専属執事アレンがぶち込んだ予想外すぎる爆弾発言。

 その二重苦によって、彼女の心身はすっかり限界に達していた。


「……はぁ。まさか初日からあんな目にあうなんてね」


 ローゼが力なく呟くと、部屋の隅で手際よく作業を進めていたアレンが、慣れた手つきで淹れたての温かい紅茶をお盆に乗せて差し出してきた。湯気とともに上質な茶葉の甘い香りが漂う。


「はい、お疲れ様ですお嬢様。どういたしましたか? なんだか酷くお疲れのようですが」

「……誰のせいだと思っているのよ、この分からず屋」


 ローゼはジト目でアレンを盛大に睨み返すと、受け取ったティーカップから一口紅茶を啜り、投げやりな溜め息とともに言い放った。


「……今日はもう、ステーキでいいわ。とびきり分厚くてジューシーな奴を焼きなさい」

「かしこまりました! ウキウキで準備に取りかかりますね!」


 さっきまでの無表情が嘘のように、本当に嬉しそうにパッと表情を輝かせたアレンは、恭しく一礼するやいなや厨房へと足早に向かっていく。その軽やかな足取りを見送りながら、ローゼはおでこを押さえて再び溜め息をついた。


(……はぁ。本当にあいつは……緊張感というものがないのかしら)


 ひとり静かになった部屋で、カチャンとティーカップをソーサーに戻したローゼの思考は、自ずとアレンの謎めいた素性へと深く向かっていく。


(……冷静に考えて、今日起きたことはおかしいことだらけよ)


 そもそも、ただの平民であり「お供」や執事に過ぎない人間が、学園都市の敷地内に何のお咎めもなく自由に入れるはずがないのだ。貴族の護衛であっても門前で待機させられるのがあの学園の鉄の掟である。

 それどころか、門を守る厳格な警備兵たちも、あの難物として知られる学園の教職員や校長すらも、アレンを「至極当然の生徒」として扱い、どころか恐縮するような態度で丁寧に接していた。


 さらには、まさかの最難関である「Aクラス」配属である。

 この白亜宮廷魔術学園のAクラスといえば、神聖王国中の名門貴族や神童と呼ばれる一握りの天才しか入れない特別席だ。侯爵家令嬢である自分自身でさえ、Aクラスに入るためには幼少期から血のにじむような努力と、一流の家庭教師による猛勉強を何年も重ねてきたのだ。それを、あの男は昨日フラッと手続きに行っただけであっさりとパスしてみせた。


(何者なの……? 本当に、ただの庭師上がりの平民なの……?)


 そして、もう一つどうしても拭えない違和感があった。


 あの高慢ちきで滅多に感情を表に出さない公爵令嬢、セレスティア様だ。

 彼女はアレンの姿と、彼が着ていたあの洗練されすぎたデザインの制服を一目見た瞬間、わずかに瞳を見開き、あからさまに動揺を見せていた。


(セレスティア様は、間違いなくあの制服の価値や由来を知っていた……。つまりあいつが着ているのは、この神聖王国どころか、大陸のどこか遠くの大国……最先端の魔法技術を誇るあの帝国の……?)


 考えても考えても謎は深まるばかりだ。

 しかし、その時――階下の厨房の方から、ジューッと香ばしい肉の焼ける芳醇な香りが風に乗って漂い始めてきた。


(……まあいいわ。どんな過去や恐ろしい素性があろうと、今は私の専属執事よ。あいつが美味しいステーキを焼いてくれるなら、ひとまず細かいことは不問にしてあげるけれど……)


 パチパチと表面の脂が弾ける音を聞きながら、ローゼはお腹を小さく鳴らし、少しだけ期待を胸に執事の帰りを待つのだった。


【夕食の配膳と嫡男の苦悩】

 ジュジュジュ……! と食欲を激しくそそる香ばしい音を立てて焼き上がった極上の牛ステーキ。絶妙な火加減で赤ワインソースを絡めた厚切り肉を丁寧に皿に盛りつけ、アレンは手際よく豪華な食堂のテーブルへと配膳していた。


 広々とした食卓についているのは、ローゼお嬢様と、彼女の弟でありリゼット侯爵家の嫡男――ジュリアン・フォン・リゼットだ。


 ジュリアンは姉譲りの気品ある整った顔立ちをしたスマートな少年だが、来期に迫った「白亜宮廷魔術学園」の受験に向けて、連日連夜の猛勉強を続けているせいか、どこか陰りのあるやつれた表情を浮かべていた。


「……はぁ。学科の模擬試験の成績は悪くないのだが……」


 アレンが差し出した肉汁あふれる焼き立てのステーキを前にしても、ジュリアンはナイフとフォークを握ったまま動かそうとせず、深いため息を漏らした。


「どうしたのジュリアン? せっかくアレンが気合を入れて焼いたステーキなんだから、温かいうちに召し上がりなさいな。冷めてしまったら台無しよ」

「姉上……実は、剣術と魔術の実技試験にどうしても自信が持てないのです。筆記なら合格ラインを余裕で超えているのですが、我がリゼット侯爵家の跡取りとして、実技で不様な成績を残すわけにはいきません。ですが、どれだけ一人で稽古を積んでも一向に成果が出ないのです……」


 頭を抱えて重く落ち込む弟の姿に、ローゼお嬢様は「まあ、確かに貴方は昔から身体を動かすより頭脳労働寄りですものね」と苦笑いを浮かべた。


 ジュリアンは力なく肉を小さく切り分け、口に運んでいたが、ふと、目の前で優雅な手つきでグラスにワインを注いでいるアレンの顔を見上げた。そして、何か重大なことに思い至ったようにハッと目を見開く。


「……待てよ。アレン……君はたしか、先日の我が領内の武闘大会で優勝したのだったな……?」

「ええ、まあ。一応、形の上では」

「そうだったわ! この男、騎士団の猛者たちが大勢参加していた中で、木剣一本で並み居る巨漢たちをあっさりとなぎ倒して優勝したのよ」


 ローゼが思い出したように言葉を付け加えると、ジュリアンの瞳に一気に熱い輝きが宿った。彼は勢いよく椅子を引いて立ち上がると、アレンの手をがばりと両手で握りしめた。


「アレン! お願いだ、僕の実技の指導をしてくれないか!? 謝礼ならいくらでも出すし、父上にも僕から話を通して正式な報酬を約束する!」

「えっ、いや……俺はあくまで庭師兼、ローゼお嬢様の護衛執事ですので……指導者なんて滅相もございません」


 何やら猛烈に面倒くさそうな仕事の気配を察知し、アレンは引きつった笑顔で素早く辞退しようとした。

 しかし、その横からローゼお嬢様がニヤリと意地悪な悪魔のような笑みを浮かべた。


「いいじゃない、アレン。我が家に雇われている身なら、侯爵家の嫡男であるジュリアンの頼みを聞くのも立派なお仕事よ? 遠慮なさらずに引き受けなさい。頼んだわね?」


(……チッ。逃げ道を完璧に塞がれたか……)


 お嬢様からの無言の圧力と、純粋で必死な眼差しで自分を見つめてくるジュリアンの情熱に押され、アレンは諦めたように肩を落とした。


「……分かりました。お食事の後、中庭で少しだけ坊っちゃまの動きを拝見いたします」


【中庭での見分と平凡なステータス】

 食後、澄んだ月明かりが美しく照らし出すリゼット侯爵邸の中庭。


 ジュリアンは気合十分といった様子で練習用の木剣をきっちりと構え、アレンの目の前で基本の素振りと、初歩的な攻撃魔法の展開を披露してみせた。


 ブンッ、と綺麗な軌道を描いて風を切る木剣の素振り。

 そして、集中とともに指先に小さな魔力を集め、手のひらの上にポッと灯してみせた初歩的な火球(ファイアボール)。


 その立ち姿は非常にスマートで、無駄のない滑らかな動きだった。彼自身がどれほど生真面目に、そして真摯に努力を重ねてきたかがはっきりと見て取れた。


「どうだろうか、アレン……!? 何か改善すべき点や、足りない部分があれば容赦なく言ってくれ!」


 額に汗を浮かべ、息を荒らげながら、真剣な眼差しで評価を求めてくるジュリアン。


 アレンは「うーん」と顎に手を当てながら、相手に気づかれないよう、無意識のうちに脳内で自身の固有スキル――【鑑定】を発動させた。


 一瞬の静寂とともに、アレンの視界の端にジュリアンのステータス画面が静かに浮かび上がる。


【名前】ジュリアン・フォン・リゼット

【属性】火・風

【パラメータ】

 ・力:25

 ・体力:31

 ・敏捷性:20

 ・持久力:21

 ・精神力:20

 ・魔力:250

 ・知力:35

【スキル】基礎剣術 Lv.2 / 基礎魔術 Lv.2 / 集中 Lv.3


(……うん、知ってた)


 表示された数値をひと目見て、アレンは心の中でそっと大きな溜め息をついた。

 魔力(250)と知力(35)の値は平均的な同年代の貴族よりも明らかに高く優秀だが、それ以外の物理パラメータ――特に力、敏捷性、持久力が致命的なまでに下回っている。


 能力値全体を総評するなら、まさに絵に描いたような「一癖も二癖もない、型にはまった標準的なレベル」。

 一般的な貴族の令息としては決して悪くはない数値だが、怪物や天才、あるいは実戦経験豊富な猛者たちがひしめく白亜宮廷魔術学園の実技試験で、上位の成績を収めるにはあまりにも基礎スペックが不足していた。


(血の滲むような努力をしてきたのは伝わってくるんだけどなぁ……教科書通りの綺麗な型にハマりすぎてて、実戦での臨機応変な伸び代がまるで目立たない。このまま型だけを磨いても限界があるぞ)


 目の前でキラキラとした期待の眼差しを向けてくるジュリアン坊っちゃまを前に、アレンは「どうやって傷つけずに、かつ最短で効率よく鍛え直すか」と思案に暮れるのだった。


【残り一ヶ月の選択とアレンの自信】

「……アレン、頼むから正直に言ってくれ。僕の現状の能力では、合格は厳しいのか……?」


 木剣をギュッと握り直し、不安げに教えを乞うジュリアンに対し、アレンは頭の後ろで両手を組みながら、隠すことなくあっけらかんと言い放った。


「そうですね。一言で言うなら『真面目で形は綺麗だけど、線が細すぎる』です。あと……何より試験まで残された時間が【あと一ヶ月】しかないっていうのが一番厳しいですね」


「くっ……やはりそうか……!」


 ジュリアンはガックリと膝をつき、肩を落とした。

 自分でもうすうす感じていた壁の存在を、領内武闘大会の圧倒的覇者であるアレンから明確に告げられたのだから無理もない。ショックは相当なものだった。


「ですが、まぁ安心してください」


 アレンは中庭の低めの石段に腰掛け、どこか投げやりな、けれど絶対的な自信を感じさせる落ち着いた口調で続けた。


「これから本番までの短すぎる一ヶ月、坊っちゃまには【徹底的なスタミナ作りと基礎体力強化】だけをやってもらいます」


「な……き、基礎体力作りだと!?」


 思わぬ指示に、ジュリアンは目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。


「待ってくれ、アレン! たった一ヶ月しかないんだぞ!? 剣の型をより鋭くしたり、魔術の威力を高めたりする高等な技術(テクニック)を磨かなければ、実技試験にはとても間に合わない! 体力だけがついたところで、肝心の剣術や魔術の技術が伴わなければ意味がないじゃないか!」


 必死の形相で食い下がるジュリアン。限られた時間の中で「技術」を磨こうとするジュリアンの言い分は、一見すると圧倒的に正論であり理にかなっていた。


 しかし、アレンはふっと薄く苦笑いを浮かべると、ゆっくりと立ち上がり、ジュリアンの肩をポンと親しげに叩いた。


「坊っちゃま。技術なんてものはね、それを支える『土台(体力)』がしっかり入って初めて機能するものなんです。土台がスカスカでヒョロヒョロな状態のところにどれだけ高級で立派な家を建てようとしたって、風が吹けば一瞬で倒壊するだけですよ」


「そ、それは……確かに言わんとすることは分かるが……」


「それに――」


 アレンはほんの少しだけ目を細め、どこか悪魔のような、けれどあまりにも頼もしすぎる不敵な笑みを覗かせた。


「土台さえしっかり作ってくれれば、残りの『実戦的な技術』と『試験のハメ方、勝ち方』に関しては……全部俺に任せておいてくれて構いませんから」


 その言葉の裏に透けて見える圧倒的な説得力と「本物の強者」だけが持つ圧倒的な気配に、ジュリアンは言葉を失い、思わずゴクリと生唾を呑み込んだ。


「……分かった。君を信じるよ、アレン。僕は一体何をすればいい?」

「よし、話が早くて助かります。じゃあまずは手始めに……侯爵邸の外周を、この特製の重りを脚に着けて限界までダッシュ10本からいきましょうか」

「えっ、重り……? ぐへっ!?」


 アレンが無造作に足元へ投げ渡してきた鉄の負荷帯を受け取った瞬間、ジュリアンはその想像を絶する重さに耐えかね、地面にめり込みそうになりながら悲鳴を上げた。


(……はぁ。お嬢様の護衛だけでも面倒なのに、また一つ余計な仕事が増えちゃったな)


 満天の星空を見上げながら、心の中で大きなため息をつくアレン。

 こうして、リゼット侯爵家嫡男ジュリアン坊っちゃまの、地獄の「一ヶ月限界突破トレーニング」が静かに幕を開けたのだった。

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