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小説の先にある世界  作者: 藤咲玲


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85話:リゼット侯爵領のギルドにて

 アレンが足を踏み入れたリゼット侯爵領の冒険者ギルドは、商業の要衝らしく、各地から集まった商人や喧噪に満ちた旅の冒険者たちでかなりの活気に溢れていた。重厚な木製の扉を押し開けると、酒と汗と柑橘の混ざった独特の熱気がアレンの鼻腔をくすぐる。あちこちで盃を交わす威勢の良い音や、難解な依頼を攻略した自慢話に花を咲かせる大きな話し声が飛び交っていた。


 革張りの大型掲示板や壁一面に貼られた依頼書を眺めつつ、アレンは人混みを滑らかにすり抜けて中央の受付カウンターへと向かった。

「いらっしゃいませ。本日は新しいご依頼の受託でしょうか、それとも達成のご報告でしょうか?」

 淡いブルーの洗練された制服を隙なく身にまとった女性受付係は、極めて営業用の綺麗な笑みを浮かべてアレンを迎えた。しかし、アレンが何気なく提示した使い込まれた金属製のギルドカードに目を通した瞬間、彼女の表情が凍りつき、その大きな目を丸く見開いた。そこに刻まれていたのは、大陸全体でも数えるほどしか存在しない揺るぎない「Aランク」の文字だったからだ。


「……ッ!? し、失礼いたしました! Aランク冒険者様ですね。ただいま最適な最高難度の案件をお探しいたします!」


 先ほどまでの丁寧ながらもマニュアル的だった対応が一変し、受付係は慌ててカウンターの奥から黒塗りの豪華なバインダーを取り出してきた。手際よく差し出してきた羊皮紙の束には、熟練のパーティーですら全滅を覚悟するような難度の高い大型魔獣討伐依頼や、領主直属の重要物資搬送の護衛案件など、一般の冒険者では生涯お目にかかることすら叶わないような最高級の依頼の数々が並んでいた。どれも提示されている報酬額は目玉が飛び出るような金貨の山で、実力相応の好条件が完璧に揃っている。


 しかし、アレンの視線は、その洗練されたおすすめ依頼の束から少し横へと外れた場所――掲示板の最下層、片隅にひっそりと、だが妙に目立つような金箔の細工付きで貼られていた一枚の古い羊皮紙へと釘付けになった。


 そこにあったのは、『領主主催:長女の近衛(このえ)募集(1名)』という物々しいお触れ書きだった。


 詳しい内容はこうだ。


 第一段階として、武術大会(トーナメント)による優秀者の選考。

 その後、身分照会および適性に関する厳格な面接診断を経て、最終的な近衛が決定される。


 護衛対象がこの豊かなリゼット侯爵家の長女とあって、本来であれば貴族同士のドロドロとした権力闘争や、国の行く末を左右するような政治的トラブルに巻き込まれかねない、Aランク冒険者にとっても非常に面倒くさいタイプの案件である。平穏と無難な暮らしを何よりも愛するアレンであれば、普通なら迷うことなくスルー安定の案件であった。


 だが、アレンの目を完全に釘付けにし、その足を止めさせたのは、お触れ書きの下部にこれでもかとばかりに太字で強調されていた一文だった。


【※選考会および面接当日は、特製の豪華昼食(領主特製コース料理)が無料で振る舞われます】


 ……昼食が出る。

 それも、一国の歴史ある侯爵家が専属お抱えの最高級シェフを総動員して振る舞うという、おそらく一般の平民や冒険者では人生でそう何度も口にできないレベルの極上ランチが、ただ選考を受けるという手続きだけでタダでついてくるのだ。


「…………」


 アレンの中で、わずかコンマ数秒の思考ののち、迷いのない一つの重大な決断が下された。

 リゼット侯爵家の近衛がどうだとか、面倒な権力争いがどうだとか、そんなものは些細な問題だ。今この瞬間、最も優先されるべき問題は、今日の昼メシのクオリティが確実に約束されているという圧倒的な事実である。


「お姉さん、この依頼……俺、受けるわ」

「へっ? あ、はい! ……えっと、Aランク様ほどの腕前でしたらトーナメントなど朝飯前かと存じますが、まさか、あのリゼット様のお側に仕えることをお望みで……!」

「いや、昼食目当てで」

「…………はい?」


 受付係の女性が理解のキャパシティを超えて完全にフリーズする中、アレンはすでに頭の中で前菜からメインディッシュ、そして食後のデザートに至る豪華なフルコースのメニューに思いを馳せながら、迷うことなく参加申込書にペンを走らせるのだった。今日の彼は、どんな強敵が立ちはだかろうとも、絶対に昼食の権利だけは死守する構えであった。






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