84話:クレイズ神聖王国への到着
国境を越えた瞬間、それまで魔法帝国特有の冷涼でどこか機械的な魔力の気配がピタリと薄れ、代わりに厳かでありながらも穏やかな、清浄な聖気のような空気がアレンの全身を包み込んだ。肌を撫でる風までもがどこか心地よく、これまでの長い旅の疲れや道中の気だるさを優しく癒やしていくかのようだった。周囲の自然もどこか神妙な面持ちを帯びており、国家が変わったという実感が嫌でも湧き上がってくる。
「ここが……クレイズ神聖王国か」
馬車の揺れに身を任せながら、アレンは車窓から外を眺めつつ小さく呟いた。
見上げる空はどこまでも高く広がり、どこか透き通るような青さを湛えている。道行く人々はせかせかとした様子もなく一様に穏やかな表情を浮かべており、道の辻や建物の軒先には小ぶりな女神像や聖印が丁寧に掲げられていた。帝国が「力と効率」を何よりも重んじる国家であるならば、この神聖王国は「秩序と信仰」の温もりのなかで形作られているのが、旅人の肌にも痛いほど感じられる。国境の関所での厳重な魔力検査も、物々しい威圧感というよりは、厳粛な神事のような手際よさでスムーズに通過することができた。
旅路の途中、小さな村やのどかな町をいくつも通り過ぎてきた。
特筆すべき事件といえば、せいぜい街道の茶屋で食べた現地の素朴な焼き菓子が思いのほか美味しかったことくらいだ。旅の定番である「道中で貴族の馬車が盗賊に襲われ、偶然居合わせた主人公が鮮やかに救出する」というようなベタなハプニングは、この平和で治安の行き届いた神聖王国においては一切起こらなかった。いや、むしろ面倒事を極力避けたいアレンにとっては、その方がよほどありがたい。事件が起きない退屈な道中こそが、彼にとって何よりの贅沢だった。
無駄な足止めを食らうこともなく、警護の者たちと共に出発した馬車は、豊かな自然の風景を楽しみながら、順調に白亜宮廷魔術学園への道を縫うように進んでいく。道中では名産の特産品売り場なども見かけ、旅の情緒を少しだけ味わう余裕もあった。
【リゼット侯爵領への入域】
そして、アレンの一行がようやく足を踏み入れたのは、事前の情報通り、王国屈指の豊穣な土地として知られるリゼット侯爵領だった。
視界の端から端まで広がるのは、手入れが行き届き、黄金色に実った広大な穀倉地帯だ。初夏の風が吹くたびに麦の穂が美しい黄金の波のように揺れ、その光景は見事な大画廊の絵画のようだった。さらに、この領地は国内外の商業の要衝でもあるらしく、街道を行き交う商隊や豪華な馬車の数はこれまで以上に多い。すれ違う人々は活気に満ちており、道沿いに広がる活気ある市場からは、様々なスパイスや焼きたてのパンの芳ばしい匂いが漂ってくる。帝国の殺伐とした効率主義とは異なり、人々の顔には穏やかで満ち足りた笑みが浮かんでいた。あちこちで笑顔が交わされ、治安の良さが肌で感じられる。
街のあちこちに配置された衛兵たちも親切で、トラブルの気配すらない。清らかな水が幾筋も巡る人工の運河と、隅々まで美しく整備された石畳の街並み。白亜宮廷魔術学園への道中にあるこのリゼット侯爵領の穏やかで豊かな景観に迎えられながら、アレンは目的地である学園都市へと歩みを進める。これから待ち受けるであろう学園生活の面倒事をひととき忘れ、街の美味しい食べ物に思いを馳せていた。を馳せるアレンであった。
「……あ」
ふと懐に手を突っ込んだアレンの手が、ピタリと止まった。
そこにあるのは、帝国で使い古された硬貨が数枚と、ギルドカードのみ。
そう、国家が変わったということは、通貨も変わっているという当たり前すぎる事実に、今の今になってようやく気付いたのだ。
帝国金貨は神聖王国ではそのまま使えず、両替商を通さなければただの金属片と同義。先ほど通り過ぎた市場から漂う香ばしい焼きたてパンの匂いも、スパイスの効いた串焼きの煙も、今の彼にとっては指をくわえて眺めることしかできない目の毒でしかなかった。
「……腹が、減った」
頼みの綱である冒険者ギルドへと向かう足取りが、一気に重くなる。
美味しいご飯にありつくためにこの国へ来たというのに、まさか目的地に着く直前で路頭に迷いかけるとは。
(ギルドに行けば……ギルドにさえ行けば、帝国通貨の両替か、手っ取り早く即日払いの依頼があるはずだ)
腹の虫をぐぅと鳴らしながら、アレンは吸い寄せられるように「リゼット侯爵領冒険者ギルド」の看板を目指して歩みを進めるのだった。




