第62章:ステーキとウラシマ効果
親っさんが差し出した二つの特上ボアステーキからは、暴力的なまでに芳醇な肉汁の香りが立ち上っていた。しかし、アレンの前に置かれた皿の肉は、まだ中心部がレア――いや、生に近い状態だった。
「親っさん、これはまだ熱伝導が不均一というか、内部のタンパク質が凝固温度(約65度)に達していないようだが」
「あぁ? 悪りぃなアレン、ボアの塊肉が厚すぎて火が通りきってねぇんだ。完全に中まで火を通すにゃ、あと30分はかかる。修羅場の最中なんだ、そっちのお嬢ちゃんと話でもして待ちな」
「30分……」
アレンの胃壁が、空腹による胃酸分泌で微かな悲鳴を上げる。隣では、エルエルが既に自分の分のステーキを獰猛な勢いで咀嚼し、エールで流し込んでいた。
「んむ! 美味しい! これよこれ、徹夜デバッグの後の塩分と脂質は最高ね!……って、アレン、何その生肉。あなたそんな猟奇的な食趣味があったの?」
「いや、単に加熱時間が不足しているだけだ。しかし、30分も待つのは合理的ではない。俺の空腹のタイムリミットが先にくる」
「だからって、また変なこと考えてないでしょうね? 私、いま美味しいお肉を食べて超ハッピーなんだから、私の網膜にエラーログを投影しないでよ?」
エルエルがジト目で警告するが、アレンの脳内では既に、アインシュタインの特殊相対性理論の数式が展開されていた。
(……光速に近づくほど時間の進みは遅くなる。ならば、あのボア肉の局所空間における『流動クロック(時間の進行係数)』を相対的に1万倍に加速させれば、周囲の30分はあの肉にとってのわずか0.18秒になるはずだ)
「おい、アレンさん……? 目が、またあの世界の真理を冒涜する時の目になってます……!」
ミアが怯えたように身を引く。
アレンは静かに生肉の皿へ手をかざした。魔力から極小の出力を絞り出し、皿の上の空間を「周囲の時間軸」から物理的に切り離す。空間の計量テンソルを局所的に歪ませ、肉の周囲だけ時間を「超加速(周囲から見れば時間が静止・減速している状態)」させた。
ジジ、ジジジジジッ――!!
皿の周囲の空気が、まるで時間の摩擦音を立てるかのように細かく振動する。アレンの手のひらの下で、生肉の色がミリ秒単位で鮮やかな褐色へと変色し、肉汁が猛烈な勢いで沸騰し始めた。
「ひゃあ!? なにこれ、お肉の周りだけ時間が早送りになってるぅぅ!?」
エルエルがエールを吹き出しそうになりながら叫ぶ。
「ウラシマ効果の逆応用(時間減速の物理的再現)だ。空間のクロックをズラし、現実世界の0.18秒の間に、肉にだけ30分ぶんの熱運動を経験させた」
「それがおかしいって言ってるのよおぉぉぉ! 料理の待ち時間をゼロにするために世界の時間(同期クロック)をハッキングするなーー!!」
天界の管理端末室では、ルカが机を叩いて立ち上がっていた。
「先輩!! 地上の酒場の一部座標で、時間の同期が完全にフリーズしました!
神界のアニメ配信サーバーと、天界の終電(移動ポータル)のスケジュールが30分ぶんズレて消滅しかけてます!!」
「アレン!! 私のささやかな私生活(推しのアニメ)まで時間泥棒しないでぇぇ!!」
エルエルは頭を抱えて絶叫したが、アレンは完璧にウェルダンに焼き上がったステーキをナイフで切り分け、平然と口に運んだ。
「うん、中まで完璧に熱が通っている。やはり物理法則は裏切らないな」
「裏切るわよ! ルカ、ごめん! 今すぐその空間のラグを『ネットワーク遅延』として偽装して! 処理落ちってことにして上層部に通してぇぇ!!」
エルエルが涙目で虚空(端末)に向かって叫ぶ中、鍛冶屋の親父は「肉を……触れずに一瞬で焼き上げやがった様を見、さらに深い狂信の淵へと叩き落とされていた。
【魔力】1.1258990e15固定
(隠蔽中)。
【空間操作:Lv.1】
【時間減速】処理落ち(リセット)
【身体強化:Lv.3】 ⇄
【慣性制御:Lv.Error】
(未認可、物理演算)
【気配遮断:Lv.1】最適化。




