第60章:エルエルの怨み節
朝は未だ肌寒い季節、しかも小雨が降る天気だった。対面の路地で一人の少女がずぶ濡れで此方を恨めしそうに睨んでいる。
「俺、なんか恨まれるようなことしたかな?」
心配になった俺は紳士的に近づき声をかける。
「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
ふるふる震える少女……。
「だ.........大丈夫?
大丈夫なものですか! 誰のせいで私の『有給』内緒で使っていると思っているの!」
「!?......あ、」
「ひょっとして、駄女神?」
「だ、駄女神ですってぇぇ!? 誰が駄女神よ! 私はこれでも天界監察局の敏捷なトップエリート、エルエルよ!……って、自分で言わせないで、この世界律の破壊魔!!」
少女――いや、人間の肉体を依代にして無理やり現界したエルエルは、ずぶ濡れの金髪を振り乱しながら、アレンの胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。通りすがりの冒険者たちが「おい、あのアレンが女の子を泣かせてるぞ……」「修羅場か?」とヒソヒソと囁きながら通り過ぎていく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。有給ってなんだ。それにその格好……」
「格好じゃないわよ! あなたが昨日、西の森で『質量とエネルギーの等価原理がどうの』とか言って空間を雑巾みたいに絞り込んだせいでしょ!? 神界のサーバーが真っ赤な警告灯で大爆発したんだから!」
エルエルはハンカチをキッと噛み締めながら、涙目でアレンを睨みつける。
「上層部にバレたら私の『キャリア』が死ぬの! だから『有給休暇の申請書』を偽造してデバッグルームに籠もって、徹夜であなたの残した時空間の歪みを一文字ずつ手動でパッチ当てしてたのよ! なのに、現界するための座標をちょっとお借りしたら、この大雨の路地裏にパイルダーオンするなんてどういうこと!?」
「あー……。確かにあの時、空間の歪みの逃げ道を、適当に丸投げした記憶があるな」
アレンは顎に手を当てて納得した。スネルの法則や一般相対性理論を力技でねじ込んだ際、帳尻合わせのために空間の「排熱処理」を行った座標が、まさにいまエルエルが立っているこの路地裏だったのだ。
「理詰めで納得しないでよ! おかげで私の大切な有給(実質残業)が、あなたの尻拭いで全部消し飛んだの! 責任とりなさいよ! 美味しいもの奢りなさいよ!」
お腹が「きゅ〜〜」と情けない音を立てるエルエル。神の肉体とはいえ、地上に器を作って降りてきた以上、エネルギーの消費(代謝)からは逃れられない。
「……ハァ。分かった。悪かったよ、優秀な管理者様。ちょうどこれから、昨日のボア肉の残りを融通してもらいに酒場へ行くところだったんだ。お詫びに特上のステーキと、美味いエールでも奢る。それで手を打ってくれ」
「ステーキ! エール! ……ふ、ふん、当然の権利ね。私の労働価値は金貨3枚ぶん(神界予算規模のデバッグ)なんだから、お肉は一番厚いやつにしなさいよね!」
さっきまでの怨み節はどこへやら、ステーキの単語に一瞬で目を輝かせたエルエルは、アレンのコートの裾を掴んで「案内しなさい!」と急かす。
アレンはため息をつきながらも、ふと彼女の濡れた身体を見て、脳内で熱力学の計算を走らせた。
(……この寒さでずぶ濡れは、人体の免疫力を著しく低下させるな。どうせ人様から借りた器なんだろうし、エールを飲む前に体温の調節しておくか)
アレンが一歩踏み出すと同時に、臨界点でロック中の魔力から、数滴ほどの魔素を抽出。エルエルの周囲の空気分子に「超微細な高周波振動」を与え、摩擦熱を局所的に発生させた。
ジジッ……。
エルエルの身体から一瞬にして白い湯気が立ち上り、濡れていた服と髪が、まるで最高級の乾燥機にかけられたかのようにフワフワに乾いていく。
「ひゃあ!? な、何これ、あったかい……っていうか、あなたまた神界の物理演算サーバーに変な負荷かけてない!?」
「ただの分子の摩擦熱(電子レンジの応用)だ。服を乾かしただけだろう」
「それがおかしいって言ってるのよおぉぉぉ!」
天界の管理端末室では、ルカがまたしても「あ、先輩が地上に降りた途端に、周辺の熱量パラメーターが局所熱暴走を起こしてる……」と頭を抱えていたが、エルエルは目の前のステーキの誘惑に負け、すでにそのログを脳内で「見なかったこと」にゴミ箱へドラッグ&ドロップしていた。
こうして、世界を裏で困らせる男と、それを涙目で隠蔽する社畜女神の、最悪で最高な「お食事会」が幕を開ける。




